第九話 灰色狼の群れ 其ノ二
ハザンは数歩前に出ていて、狼を誘うように立ち、隙と見て跳び掛かってくるやつを危なげなく倒して行く。
トプル、アンガー、ヤーモはそれぞれ馬を守っていて、やはり跳び掛かってくるやつに対処する。同時攻撃を仕掛けてくるやつには、ロレンとガンザが弓矢を放つ。俺とハルは遠巻きにしている奴らを追い払う。
そんな奇妙な均衡が破れた。
アンガーの鉤爪にかかった狼が、幌の骨組みに大きく体当たりした。木枠が大きくしなり、バキリと折れた。バフンと大きな音を立てて幌が潰れる。
俺はハルを抱えて落下に備えた。
「ハル! スリング離すなよ!」
俺がそう叫んだのと同時に、幌から飛び降りたロレンが、上着を脱ぎ捨てながら走ってくるのが見えた。
アンガーの隙をついた数頭が、俺とハルに踊りかかってきた。顔に熱いものを押し当てられたような感触が走る。狼の大きな足で抑え付けられているようだ。ギリギリと、爪が食い込んでくる。痛え!
視界が封じられてしまって、ハルの無事を確認出来ない。
「ハル! 無事なら起き上がれ! 起き上がって走れ!」
俺は叫んでスリングのゴムを極限まで引き絞り、狼の鼻づらに叩き込んだ。喰らいやがれ!ゴムパッチンだ!
狼が「キャイン」と吠えて身をよじるのと同時に、灰色の塊がそいつを弾き飛ばした。
大きな美しい灰色の山猫だった。新手の敵か!? とハルを背にして身構えるが、山猫は俺とハルを背に守り、背中の毛を盛大に逆立てた。
「おとーさん、ロレンだよ!」
「ワフ!」という鳴き声と共に、上からモップが降ってきた。毛足の長いモップにしか見えない、大きな垂れ耳の犬はヤーモだろう。見るからに防御力の高そうな毛の塊は、大きく吠えながら狼を追い回しはじめる。
灰色の山猫はしなやかに狼に跳び掛かり、首の後ろに牙を立て、頭を振って振り回す。
しばらくして崖の上から大きな遠吠えが響いた。狼たちはその場で遠吠えを交わし、踵を返して走り去って行った。
なんとか凌ぎ切ったのか?
山猫ロレンとモップヤーモが、脱ぎ捨てた自分の服を咥えて馬車の陰に隠れる。服を着ているのだろう。
ようやく緊張がほぐれると、途端に頰の傷がズキズキと痛みだした。ハルが顔の側面を真っ赤に染めている俺を見て、青くなって叫んだ。
「おとーさんが死んじゃう!」
「大丈夫だ、ハル。顔は毛細血管が集まってるから、切れるとたくさん血が出るんだ」
そんな事をナナミが言っていた気がする。
ハルの声に驚いたロレンがシャツに袖を通しながら走ってくる。ヤーモはズボンの片方に両足を入れて走ろうとして、途中で転んだ。
▽△▽
「これは縫った方が良いですね」
傷口の様子を見ていたロレンが言った。
動物の爪や牙での傷はバイ菌が入りやすい。ちゃんと消毒しても、腫れたり膿んでしまう事がある。
俺の薬草の知識なんて微々たるものだが、今手元にあるもので言うと、止血がヨモギ、アロエが傷薬、ドクダミが化膿止め。消毒薬や抗生剤がないこの世界では、自然治癒力がモノを言う。
しかし縫うのか。そうだよな割とパックリ切れてるもんな。そうか縫うのか。麻酔的なものとかは? ああそうか、ないよな。それでも縫うんだよな。
俺が平静を装いながら心の中で、ああああ! こんな時こそナナミがいてくれたらとか、この中でお医者さまはいませんかー!? とか思っているうちに、テキパキとロレンとトプルが処置の準備を進めている。
「待つ! ハル、連れて行け」
俺はハルにだけは無様を晒したくない。笑うがいいさ! 父親という生き物は、見栄と強がりで出来ている。
ハザンがハルを連れてその場を離れてくれた。すまんな、助かるよハザン。
「だれ、縫う?」と聞いたら、ロレンが、
「私が縫いますよ、人が痛がるのを見るのは嫌いではありません」と少しも表情を変えずに言った。
こえーよ! ロレン、おまえ属性盛り過ぎなんだよ!
そして俺は、目を閉じても見える花火を、何度となく見る羽目になった。
☆あとがき外伝☆
片方の耳が半分しかない『千切れ』と呼ばれる、それは大きな灰色狼がいた。千切れが群れのボスになってから、もう幾つの季節が巡っただろう。春には子供が生まれ、夏は山頂付近まで狩りの範囲を広げる。秋は熊に注意が必要だ。冬は山裾まで降りて春を待つ。
ある時、ボスを失った群れが合流した。千切れは受け入れたが、新しいボスが育ち次第、自分たちの縄張りへと戻るように仕向けるつもりだった。千切れは大きくなり過ぎた群れの危険性を知っていた。
気付いた時には、群れの半分が動いていた。膨らみ過ぎた群れは、いつのまにか、千切れ以外の命令系統を持つヤツがいたらしい。『人を襲うのは割に合わない』。それを徹底する事すら出来ていなかった。魚の匂いに誘われた若い狼たちが、小さなキャラバンを襲った。
宵闇の迫る森をひた走り、ようやく崖の上から撤退を命じる遠吠えをしたのは、千切れの一番若い子供が、刃物で切り捨てられた直後だった。
間に合わなかった。沢山の同胞が倒れる中、悪鬼のように佇む人族の狼がいた。おまえが俺の同胞を刃物で倒すのか! その耳は、尻尾は、狼の物なのに!
焼け付くような怒りに身を任せそうになる。崖を駆け下り、喉笛に食らいついてやりたい。
だが千切れは思い留まる。子を失った怒りに任せるより、ボスとして拾える命を導かなければならなかった。
人族の狼は、真っ直ぐに千切れを見ていた。その眼は『俺は俺の群れを守った。おまえと同じだ』と言っているようだった。




