第七話 夜のとばりのその中で
手持ち無沙汰と言う言葉がある。やる事がなく、何となく居た堪まれない状況を指す言葉だと思うが、あの時の俺はまさにそんな気持ちだった。片手にハル、片手にハナを抱えて、両手は塞がっていたのだけれど。
〈2018年 8月9日 午前9時50分〉
ハルはキョロキョロと辺りを見回して、俺のTシャツの裾をぎゅっと握っていた。
そんな静寂を破ってスマホの着信音が鳴る。液晶画面に『二ノ宮ナナミ』の文字と、年甲斐もなく裏ピースを両手でかまえる嫁の写真が表示される。小顔に見えるのだそうだ。いつもの着信音とナナミのとぼけたキメ顔に、ようやく少し正常な判断能力が戻ってくる。
「ヒロくん、無事? ハルとハナは、一緒?」
ゆっくりとひとつひとつの言葉を、はっきりと丁寧に口にする。ナナミのひどく慌てている時の癖だ。きっと心の中ではパニックを起こしかけて、泣きそうなっている。
俺は自分の状況を棚に上げて、落ち着け、大丈夫だと背中を撫でてやりたくなる。
「大丈夫。ハルもハナも一緒だ。ナナミ、今どこにいる?」
「うん。なんか海が見える丘の上にいる。何が起きたの? ヒロくんはどこにいるの?」
ナナミの口調が、いつもの調子に戻る。俺たちの無事を確認して、少し落ち着いたのだろう。
ガーガーという雑音が混じり、ブツッと通話が途切れる。スマホの画面を見ると圏外。
とりあえずナナミの無事が確認できたので、ほっと胸を撫で下ろす。しかし海か――。この水分含有量の少なそうな景色からは、ずいぶんと遠い気がする。
スマホから今度はメールの着信通知が鳴った。ナナミからだ。件名は『みんな無事で少し安心した』。
『通話が切れて、それきり通じない。なにが起きたのかさっぱりわからないけれど、ここはさっきまでいた交差点とは、ずいぶんと違う場所みたい。遠くに街が見えるからそこまで行ってみる。
お金持ってる? なるべく早く合流したい。なんか非常事態だけど、ハルとハナをお願いね。』
俺も返信した。
『ハルもハナも大丈夫。金も持ってる。俺たちは、岩山だらけの荒れ果てた場所にいる。日本じゃないかも知れない。俺にも何が起きたのかさっぱりわからん。
状況がわかり次第、連絡を取り合おう。なるべく早く迎えに行くからあんまり動くな。落ち着け。街まで行ったら、警察とか役所に駆け込めよ。』
〈2018年 8月9日 午後 11時20分〉
お互い混乱の最中だったこともあって、たいした情報は交換できていない。
ナナミの事を考えると、居ても立ってもいられない気分が募のる。人のいる場所へたどり着けただろうか。腹を減らして、暗いところで泣いているのではないか?
ここがどこだろうと、俺のやらなければならないことは変わらない。子供たちやナナミを危険な目に合わせたくない。腹が減ってひもじい思いをさせたくない。寂しくて泣くような事がないようにしてやりたい。日本で呑気に暮らしながらも、日々思っていた事だ。
朝になったら、なんとかナナミを探しに行く方法を考えないと。
こうして俺たち家族の、異世界転移(かも知れない)1日目がようやく終わった。
柔らかく暖かい泥の中に沈み込んでいくように眠りに落ちる瞬間、ナナミの髪の毛の匂いがふわりと漂ったような、そんな気がした。