第六話 酒の残る朝
翌朝は久し振りに少し寝坊した。特に自分では深酒したつもりはなかったが、薄い膜が全身を覆っているような感覚の鈍さを感じる。無理の効かない年齢へ差し掛かった事を、思い出すのはこんな時だ。
異世界効果で若返ったりしねぇのかな。ちぇ。
ハルはもう起きてスリング・ショットの練習をしていた。部屋の隅に的を置き、対面にうつ伏せで寝転び丸めた紙を打っている。タン、タン、と小気味良い音が耳に心地いい。
おはようと挨拶を交わし、手ぬぐいと歯ブラシを持って二人で宿の井戸へと向かう。顔をしかめて歩く俺にハルが、おとーさん、のみすぎなんじゃないの? なんて、誰かを思い出す口調で言った。
冷たい井戸の水で顔を洗うと、少しずつ身体の感覚が戻ってくる。歯を磨きながら、
「ハル、お父さん、馬の世話しに行くけど一緒に行くか?」と聞くと、うん、と頷いた。
軽くストレッチしてから、宿を出る。
朝の煮炊きの煙が、あちこちの家のトンガリ屋根から上がっている。荷物を積んだ荷車を引くネコ耳の男が忙しそうに通り過ぎると、干物の匂いが取り残されたようにプンと漂った。
どこの世界も、どこの街も、朝の空気は似ているな。みんな目的を持って動いていて、どこか忙しない。
「おとーさん、ぼくまた海に行きたい」
ああ、良いな。でもお父さん、腹減ったよ。さっさと用事済ませて、宿で朝メシ食べよう。
十五分ほど歩き、ロレンの商会の倉庫へと着く。一旦表へと回り、店の方に声を掛けたが返事はなかった。井戸で水を汲んでから、厩へと向かう。ハルにも一回り小さな木桶を持ってもらったら、ヨロヨロとしながら顔を赤くしてついて来る。がんばれハルくん、転ぶなよ!
飼葉の桶も持って馬のところまで行くと、まるで『遅いのよ、何やってんのよ、腹減ったわ!』とでも言うように、歯を剥き出された。
すまんすまんと、手早く飼葉を補充する。水をやり、身体を拭いてやってから蹄の点検をする。軽く削ってやるから、蹴らないでくれよ! 死ぬからな!
大岩の家で『馬』と呼ばれている『シャーハ』という動物は、実際には地球の馬とはだいぶ違ったりする。馬よりも二回りほど大きく横幅も広い。全体的にがっしりと、そしてずんぐりとしている。
たてがみと尻尾は馬のものとよく似ていて、サラサラとしているが、背中と足の先に生えている毛はゴワゴワと硬い。もともとは草原に住む動物なので、茜岩谷では貴重かつ高価な動物だ。
辛抱強くブラッシングして、毛の生えていない腹や首をもう一度濡れた布で拭う。
ハルは縺れた背中の毛に四苦八苦していたが、馬はなぜか穏やかな目で見つめ、時々顔をハルの頭にすり寄せたりしている。
なんか俺への態度と、違い過ぎないですかね?
馬の世話が終わったので、もう一度店に声をかけると、ロレンが眠そうに出てきた。シャツのボタンを二つも外し、落ちた前髪をかきあげる仕草が、壮絶な色気を醸し出している。おはようございます、という少し掠れた声に、俺でも顔が赤くなりそうだ。
ハル! 見るな! アレはお前には毒だ!
ナナミが見つかっても、ロレンには絶対に合わせないようにしようと心に決める。ああ、ハザンには紹介しよう。うん。きっと気が合うはずだ。
二日後の出発までに、食材を買って来るように頼まれた。生ものを買い過ぎないようにと注意され、金を渡される。
「ああ、荷物持ちが必要ですね。アンガーを呼んでおきますので、いつ行きますか?」
アンガーはロレンの親戚なのだそうだ。ネコ科繋がりなのか?
「明日、昼、過ぎたら」と答えておおよその時間を決め店を後にする。
少し遠回りだが、海岸沿いを通って帰る。石を積み上げた低い防波堤の上をハルが走る。足場の悪いゴツゴツとした岩の上。危なっかしいこと、この上ない。転んだら酷く擦りむいてしまうだろうに、子供はこういうの好きだよな。
波の音が、静けさを連れて、寄せては返す。耳に、ほんの僅かに残る昨夜の酒場の喧騒が、波の音にさらわれていく。
潮の満ち引きは、この世界に月があり、重力が正しく働いている証拠だ。地球のものとそう変わらない大きさの月は、今は白く頼りなげに雲間に見え隠れしている。
随分先まで行ってしまったハルが、
「おとーさーん!」と手を振って呼んでいる。
今日俺は、人通りの多い場所を探して似顔絵屋さんをやろうと思っている。ナナミの絵をなるべく沢山の人に見てもらいたい。教会ではなんの情報もなかったが、もしかしてナナミを知っている人がいるかも知れない。
宿にも似顔絵を貼ってもらえるよう、頼んでみようと思う。本人、または居場所を知っている人が来たら茜岩谷までの地図を書いた手紙を渡してもらう。教会にも、同じような手紙を預けて来た。
「おとーさん、おなかすいたよー!」
ハルにもう一度呼ばれる。酒も抜けてきたし、俺も少し走るとするか。




