第六話 荒野の一軒家の秘密
〈2018年8月9日 午後9時20分〉
爺さんに着いて家の前まで来ると、ニコニコと穏やかに笑う年配の女性がいた。俺たちを待っていてくれたようだ。爺さんより心持ち大きくモフっとした耳がある。……キツネ、か?
爺さん、自分の嫁さんにも高性能付け耳、被らせてんのかよ。なんてマッドなサイエンス野郎なんだ。やっぱり着いて来たのはヤバかったか?
正直逃げようと思っていた。その女性の言葉を聞くまでは。
「中に入って下さいな」
えっ? と聞き返しそうになった。あまりに流暢な日本語だったので、一瞬頭がついていかない。
「あ……あの、夜分すみません。野営中に野犬に襲われまして……」
「日本の方ですね? お子さんを二人も連れて……。怖かったでしょう? お腹は空いてない?」
「ばーば! にゃー、にゃー!」
ハナが嬉しそうに両手を上げて言った。我が娘ながら、なんてフリーダムなんだ。
「あらあら。ばーばは、にゃーじゃなくてキツネさんなのよー」
「じーじ、にゃー?」
「そうよ。じーじはにゃー」
その人はうふふ、と笑い『さ、どうぞ』と、ハルの背中を押して家の中に招き入れてくれた。
家の中に入ると、板張りのリビングと土間に分かれていて、土間には竃がある。子供たちは甘いホットミルクを作ってもらって、飲みながらもう船を漕いでいる。
「寝床を用意しますから、お子さんたちは寝かせてあげて下さいな」
屋根裏部屋らしき部屋に案内され、二人を寝かしつけてリビングに戻る。俺は戸惑っていた。
高性能キツネ耳を付けているくせに、この人なんでこんなにまともなんだ?
聞きたい事は山ほどある。ここはどこなのか、家に帰るにはどうしたら良いのか。なぜ、耳や尻尾を付けているのか。
俺がどう切り出そうか悩んでいるうちに、その人が口を開いた。
「この人の名前はカドゥーン、私の名前はさゆり、今井さゆり。元々は日本人ですよ」
その人の告白は、正しく自己紹介から始まった。
▽△▽
「えっ、あ、ああ。二ノ宮ヒロトと申します。子供たちの名前はハルとハナ。ハルは八歳、ハナはもうすぐ三歳になります」
俺も自己紹介を返す。少し現実感が戻ってきた。
「あの、ここはどこでしょう?」
一番聞きたかった事を口にする。道に迷うにも程がある質問だ。
「ここはパスティア・ラカーナ。羽ばたく鳥という意味よ。パスティア・ラカーナ大陸の『サラサスーン』地方」
聞いた事のない地名だ。アフリカやスペインっぽい発音か?
「日本ではない?」
「ええ。日本どころか、地球ですらないの」
「はっ?」
そんな馬鹿な、という言葉が口をついて出そうになる。
「だって地球には、こんな耳のある人はいないでしょう?」
そう言ってその人はキツネ耳をピコピコと動かしてみせた。
「本物だって言うんですか?」
「よく見て下さい。触ってみる?」
そう言いながら、なぜか爺さんの頭を指差す。
耳は生えていた。カチューシャのようなつけ耳でも、貼り付けてあるわけでもなかった。髪の毛と同じ色で地肌から続いて、自然にそこにある。
そっと摘むと暖かい。ペラっとしたその感触は、昔飼っていた猫の耳そのものだった。耳はペペペッと迷惑そうに動いた。
本物……っぽい。本物かも。えっ? 本物なの?
ネコ耳もキツネ耳も本物で、地球じゃなくて、この女性は元日本人? どれもこれも、荒唐無稽過ぎて、とても信じる気にはなれない。
「熊谷市の自宅近くのスーパーでキャベツを手に取って、顔を上げたらこの荒野だったの」
同じだ。俺たちは信号待ちをしていた。
「誰もいないし、携帯も通じない。怖くて泣きながら歩いたわ。だって道しかないんだもの」
同じだ。あの状況で一人はキツイ。
「日が暮れて、途方に暮れて座り込んでいたの。もう歩けなかったし。その時、この人……カドゥーンに会ったの」
なんともドラマチックな出会いだ。ナナミが一時ハマっていた、恋愛小説のオープニングのようだ。目の前の、キツネ耳の人が話しているのでなければ。
「あの、その耳は――」
「一年半くらいたった頃に生えてきたの。尻尾もね」
「…………」
思わず言葉に詰まった。尻尾もか。いや、今はソコジャナイ。
早回し映像のキノコのように、耳や尻尾が生える様子が頭に浮かぶ。ニョキニョキと生えるのか、それとも少しずつ成長するのか。いや、それも気にするの、イマジャナイ。
「なぜ、でしょう」
「この姿になった理由かしら?」
「はい、すみません」
「わからないの。この人と夫婦になったせいか、食べ物なのか、時間経過なのか……。なぜ、この世界に飛ばされてしまったのか、帰る方法があるのかどうか、何もわからないまま、三十年以上過ぎてしまった」
ほんの少しだけ、遠くを見るように目を細める。
「他に同じような人に会った事は?」
「ないわ」
「私はこの人に助けられて、恋をしたから、耳と尻尾が生えてきた時は嬉しかったの。ここで生きてゆこうと決めたから、帰る方法も探さなかった。子供も授かって、けっこう幸せだったのよ」
その女性……さゆりさんは、ふふふっと笑った。
「とても身体能力が上がったわ。この姿でも、日本にいた頃より早く走れるし、高く飛べる。キツネの特徴がそのまま現れてるみたい。耳も凄く良いし、夜目もきくのよ」
得意そうに胸を張って言う。確かに素晴らしい能力だ。だが――。
この姿でもって?
「キツネ、そのものの姿にもなれるの」
笑い飛ばす気にはなれなかった。この穏やかに笑う人が、なんの悪意を持ってしたらそんな嘘をつく理由になるのか。この人すらも、誰かに騙されているのではないだろうか。三十年以上? それはもう取り返しのつかない年月だ。
信じるとしたら? 俺たちと同じように、訳の分からない現象に巻き込まれた元日本人。一年半の月日が過ぎたら、耳と尻尾が生えてきたと言う人。
この人の話を信じるとしたなら。
それは、俺たちにも、耳と尻尾が生えてくる、ということなのだろうか。