第九話 煙は目に染みるものだ
ハナを連れて行けないというのは、少なくとも俺にとっては大変なショックだった。危険な目に合わせたい訳ではない。でも、それはハルも同じだ。二人は大岩の家に置いて行った方が良いのだろう。二人を連れて行きたいというのは、完全に俺の我儘だ。
俺は本当は、二人から一瞬たりとも離れたくない。できれば似顔絵屋などしないで、朝も昼も夜も、ずっと二人を抱き抱えていたい。そんな事は、できないけれど。
突発的にこの世界に飛ばされて来た俺たちは、またどこかに飛ばされてしまうかも知れない。今この瞬間に、そんな事が起きるのかも知れない。ナナミはもう、海辺の街にはいないかも知れない。大岩の家からハルが、ハナが消えてしまっているかも知れない。
顔を上げたら、俺はまた見知らぬ風景の中で、ひとり立ち竦んでいるのかも知れない。
そんな事が起きない保障は、どこにもないのだ。
手を繋ぎ、抱き抱えていた二人、手を離した瞬間に消えてしまったナナミ。離れ離れにならないように、二人を常に抱き抱えていたい。ナナミがまたどこかへ消えてしまう前に、走って行って止めなければと思う。俺の目の前から、もう誰も消えないで欲しい。地球に戻れなくても良い。
これ以上、理不尽な現象に、俺と俺の大切な家族を巻き込まないでくれ。
口に出してしまったら、何かのフラグになってしまいそうな、考えたくもないような心配事が頭から離れない。誰に向かってか、わからない罵詈雑言を呟きながら、大岩の家へと続く街道を馬で走る。
馬に乗ることも、大岩の家とシュメリルールをひとりで往復することも、ずいぶん慣れてきたと思う。だが、俺が谷狼や谷黒熊の腹に収まらずに済んでいるのは、運の良さといつも持つようにしている塊肉のおかげだと思う。
動物が狩りをするのは、腹が減るからだ。特に口に入れるのが、俺でなければならない理由などあるはずもない。俺は常にこぶしほどの大きさの肉を、いくつも持ち歩いている。谷狼に追われたり、谷黒熊を見つけたりした場合は、躊躇うことなくすぐに肉を投げる。
目の前に食べるものがあるのに、狩りをするのは人間だけだろう。今のところ盗賊には出会っていない。
大岩の家に着き、ヒューっと高く指笛を吹く。気づかないかも知れないので、二、三回続けて吹く。俺が帰って来た時のために、あらかじめ決めてあった合図だ。しばらくすると、ゴゴゴー、ガゴーン! と大層な音がして、入り口が開く。
馬を降りて中に入ると、爺さんに肩車したハナと、自分用のスリング・ショットを持ったハルが出迎えてくれた。
「ただいま」
三人に声をかけると、爺さんの頭を掴んでいたハナが、俺の方に向けて両手を広げる。『だっこしてー』という、いつもの意思表示だ。
「とーたん、きゃーり(おかえり)!」
「おとーさん、おかえりー!」
ハナを爺さんから受け取り、左手で抱く。不意にたまらなくなり、掻き抱く。ハルを引き寄せ、抱き締める。
こんな事をしたら、ハルが不安になる。爺さんが心配する。だが、止まらない。
キャラバンなんてどうでもいいから、今すぐ二人を連れて、旅立ってしまおうか。金はある。武器もある。ラーザの街は、地図で何度も確認した。
爺さんが「どうした、ヒロト。言ってみろ」と、いつもと変わらない口調で言った。無条件で頼らせてくれる口調だ。俺がまだガキだった頃、親父がよくこんな風に言ってくれたのを思い出す。
喋ったら涙が出てしまいそうだったので、黙ったまま首を振る。立ち上がり、連れ立って家へと向かう。こんな顔を誰にも見せる訳にはいかない。ハナの顔も、ハルの顔も、見る事が出来なかった。
「すみません、一服して来ます」
俺は逃げるようにハナを爺さんに預け、岩壁の縄梯子を登る。深呼吸して煙草に火を点ける。煙を深く肺に吸い込み、ゆっくりと細く吐き出す。空を見上げ、ピーヒョロロロと、トンビが高く長く鳴いて空に円を描くのを、何も考えずに眺める。
しばらくするとギシギシと音がして、さゆりさんがハシゴを登って来た。俺は振り返ることもせずに黙っていた。逃げ出してしまった自分の行動が、あまりに子供じみていて情けなかった。
「私にも煙草、一本ちょうだい」
意外にも、そんなことを言うさゆりさんに箱を差し出して、咥えた煙草に火を点ける。
二人並んで煙を吐き出しながら、黙ったまま風に吹かれる。碌なもんじゃねぇよなと思いつつ、俺が煙草をやめられない理由がこれだ。言葉が出てこない、そんな隙間を埋めてくれるのだ。そして、ほんの少しのタイミングをくれる。例えば『この一本を吸い終わったら、口を開こう』とか。
「キャラバンに、ハナの同行を断られました」
「ああ、そうだったの」
あらそんな事なの? といった物言いだ。
「俺にとっては大問題です」
少しむっとして言うと、さゆりさんの目が柔らかく緩む。
「心配しなくても、ハナちゃんは責任持ってお預かりするわよ?」
ハルくんも置いて行ってくれれば、二倍嬉しいわ、と笑う。
「不安なんです。たまらなく――。転移は一度きりじゃないかも知れない。手を離した瞬間に目の前から消えてしまったナナミみたいに、旅の間にハナが消えてしまったら、俺はどうしたら良いんですか」
「あら、そしたらずっと抱きしめていないとダメね」
「本音を言えば、そうしていたいです。でもナナミの事も心配なんです。今すぐに二人を連れて旅立ってしまおうかと、実はさっき考えてました」
情けない泣き言が、次々に口をついて出る。
「気持ちはわかるけど、でも、ほら、私は三十年以上、ここにずっといるのよ? きっと大丈夫よ。パッと行って、サッと奥さま連れて戻って来なさいな」
そう言って笑う、キツネ耳の人は、いつもよりなんだか普通に日本人に見えた。




