第二話 プロローグ〜大岩の壁の上で〜其ノ二
携帯用灰皿で煙草の火を消していると、ハルが『おとーさーん!』と言いながら、縄ばしごを登ってきた。
「うわー、今日は風がつよいねぇ」
俺の隣に立って朝の風を受け、首をすくめてフードを被る。茜岩谷の朝は冷える。
民族衣装のポンチョを着て、編み上げブーツを履いたハルは、どこにでもいる地元の子供みたいに見える。俺は二ヵ月たった今も、ポンチョを着るのが若干気恥ずかしい。
あれから、たった二ヵ月しかたっていないのか。もう、二ヵ月も過ぎてしまったのか。季節の流れないこの地では、気温や風景で時間をはかることが、ひどく難しい。
日本では今頃、赤とんぼが飛びはじめているかも知れない。月を眺めながら、団子を食っているかも知れない。この地は俺たちが降り立った日と少しも変わらず、乾いた風が吹いている。
あの時俺たちに一体、何が起きたのか?
ほとんど何もわかっちゃあいない。ここはどうやら地球ではないらしい。少なくとも日本ではない。こんなアメリカの国立記念公園みたいな壮大な景色は、日本ではお目にかかれないだろう。
ハルと二人並んで岩壁の上に立ち、黙って地平線を眺める。少し離れたところから太陽の昇る方向へと、細い道が延々と続いている。
あの日、俺たちが辿った道だ。どこを目指して良いかもわからず、ただ歩いた。あの時の俺は、立ち止まって現実に追いつかれるのが怖かったのかも知れない。
〈2018年 8月9日 午前11時30分〉
「ねぇおとーさん、おうちへ帰るまでどのくらいかかるかな? ヘチマにお水あげないと枯れちゃうよ」
歩きはじめてしばらくすると、ハルがそんなことを言った。
ああ! 夏休みの観察日記な。やっと小さい実が出来たって、喜んでたもんな。
わかるよ、わかるけどハル。でもお父さん、今は自分たちの方が枯れちゃいそうで心配だよ。
差し当たっての問題はヘチマより、どっちに向かって歩くかだろう。コレが右も左もわからないってヤツか。緊急時に助けてくれそうな、警察や消防署、役所などは電話が圏外なので通じない。
当然Wi-Fiも飛んでいないので、チャットアプリも、地図アプリも使い物にならない。ナナミと連絡を取る方法が見つからない。
スマホのGPS機能を使えば、ナナミの居場所も現在地もわかるはずなのに。
万能とも思える便利さで、なくてはならないツールであったはずのスマホは、この状況では案外使い物にならなかった。
とりあえず辺りが見渡せそうな高台へと向かう。
高台までは急な坂道で、よじ登るような起伏もあり、かなりハードな道のりだった。寝ているハナを抱えている事もあり、頂上に着く頃には俺もハルもすっかり汗だくになっていた。
だがそこには目を瞠るような、とびきりスケールの大きな眺めが広がっていた。
起伏がはげしく嶮しい岩山は赤みが強く、まるで巨人が地層を飴細工のように引っ張り出して、無造作に並べてしまったみたいだ。そんな景色が地平線まで続いている。そして岩山の間を縫うように、細く長く伸びる道。
「「うわぁ」」
二人同時に驚愕とも、絶望ともとれるうめき声を上げる。
「おとーさん、道のおわりが見えないよ。コンビニもせんろも、じどうはんばいきも見あたらないよ」
ハルが途方に暮れたように言った。