救いの手
素人の調べた限りの内容で書かれた小説ですが、もし医療に携わっている方がおられれば指摘など頂けると幸いです。
待合室は地獄、若しくは戦場と化していた。よほど大規模な事故だったのだろう、手術室も処置室もスタッフも明らかに不足している。単純な傷や打撲への処置は待合室の椅子にすわってやってもらっている状態。人でごった返し、まともに直進するのも厳しかった。
歩く途中にも、白衣を着ている自分を医者だと判断した負傷者が助けを求めて叫んでいる。だが、叫べるだけの気力がある患者は余程のことがない限りは後回しにするのがトリアージの鉄則だからだ。
軽度負傷者の話では、事故現場はこの病院のすぐ近くだという。交差点で起きた玉突き事故で、もっとひどい怪我人がいるらしい。話を聞いている間にPHSが鳴った。救急救命士からの切迫した声が届く。
『20代男性、首にワイパーが突き刺さった状態。血圧95、脈拍142、意識はなし』
報告の続きを聞きながら、私はマイクを取って質問する。
何があった? 串刺しにされた? 首を? ワイパーに?
意味がわからない。そう言って氾濫する思考を脳裏から排斥し、質問をする。
「ほかに外傷はありませんか? 首は固定してますか? 出血の具合は? ワイパーは頭蓋骨を貫通しているんですか?」
この時点で不安定だった患者の容態が悪化を開始する。細胞、組織、器官、そのすべてが酸素を渇望するようになり、新鮮な血液を求め始めたのだ。ほぼ補給はないまま心臓は鼓動のみを加速させ、僅かに残った貴重な血液を可能なだけ早く送り出し、取り戻し、また送り出した。だが、鼓動が余りにも速くなりすぎたために次の鼓動の前に心室を血液で満たすことが出来なくなる。体内に放出される血液は次第に減少し、ついには心臓そのものまでもが血液不足を訴えるようになった。
普段は眠っている個々の生命点火装置が一斉に、停止しかけた肉体のアクセルペダルを踏み込んだ。心臓のあらゆる部分で小規模な放電が起こり、重要な心筋を収縮させようとした。だが、そんな無秩序な要求を受け取れる筈もなく、心臓は細かく震えだす。それは、救急隊員が確認しているモニターにも乱れた線となって現れた。
のたうち回るミミズに酷似した心電図だ。ねじくれた不規則な線は心臓の大きな房、すなわち左右の心室が無駄に細動していることを表していた。
『心室細動です!』
「除細動、200ワット秒でお願いします」
台詞を反復した救命士の言葉を聞きながら、私は待った。生憎、それほど長くは待たされなかったが。
『変化なし! 細動が続いています!』
「300でもう一度、駄目なら360で」
『了解ッ!』
結果を待つ間、私はほんの少し残された幸運に感謝した。無意味にのたくるような線を描くだけとはいえ、心臓にはまだ幾らかの電気的エネルギーが残されていた。少なくとも、完全停止や不全収縮には陥っていなかったのだから。
その時、私の思いに嘲りを含んだような報告が救急隊から届く。患者が不全収縮に陥り、心肺機能蘇生(CPR)を開始した、と。
「今、何処にいる?」
『搬送口です。30秒で届けます』
「了解」
通話を終了した私とナースの視線が交錯した。
三上明日香。同い年ということもあってよく話をする女性。軽口を叩くときもあるがそれを補って余りある判断の的確さと大胆さ、何より海外からの引き抜きである私に対しても自然に接してくれ、特別扱いをしない性格が魅力的な女性だった。
「勝率は?」
明日香が聞いてくる。正直に答えよう。
「並みのドクターなら1割、私なら7割くらいかな」
とはいえ、患者が魂の宿らない肉塊に変わるまで、そう時間が残されているわけでもない。個性、すなわち彼をこの世でただひとつの人格としている様々な特徴――感情、洞察力、野心、意見――は、すでに機能不全に陥った脳の隙間を漂う儚い靄となって彷徨い始めていた。早く酸素と糖を与えなければ、その靄さえも死神の吐息にかき消され、跡には虚空を見つめるだけの虚ろな双眸だけが遺されることになるだろう。
私は口を開く。
「救急の話から辿れば、彼の心臓は健康だと断言出来る。大量失血のせいで空回りしているだけよ。心停止からまだ一分も経ってない。その前にはちゃんと血圧があった」
言葉の途中、救急隊が患者を運んできますと内線がかかる。
担架に運ばれた男性の患部を見て、私は息を呑んだ。
プラスチック製のワイパーはあろうことか、頚椎を掠めて頚動脈を破いてはいたが、気管には傷がない。生存確率からすれば神に選ばれたような幸運さの男性だと、ひとつため息をつく。何もこんな厄介な大怪我しなくても、と。
患者が届いたにはいいが、いったいどのくらいまで積極的に治療するべきだろか? 患者は生理学上既に死んでいて、このまま書類だけで済ますことだって出来るのだ。
今到着した患者は重傷者でごった返すこの状況なら回復を見込めないとして見殺しにすべき対象だ。後でお決まりの質問に答えなければならないのに、本気で彼の胸を開きたいとでも思っているのか?
「まったく、何を考えていたんだか知れないね。いくら君が本場のERで研鑽を積んだプロだとしても、どんなことが出来ると思ったんだい? なぜあんな死体に無駄金を使った?」
――恐らくは負けると理解していながら、どうして神様に戦いを挑む?
――だが、もしも勝ったら?
可能性はある。これから彼を担当するのは私、小田原玲なのだから。まだ視たことのない神様に屈服するよりだったら、私は一縷の可能性に全てを賭ける。運命や天命なんぞクソ喰らえ。これが医者としての私、『小田原玲』のアイデンティティだった。
「開くわ。開胸の準備をお願い。手術室が全て塞がっているのでここで術式を開始します」
食卓で料理のリクエストでもするみたいなリラックスした声を出す。
「胸を開いて直接、心マッサージを行います。大動脈を圧迫して残った血液を心臓と脳へ送り込み、その間に輸血を。皆で心臓を生き返らせましょう」
わかりましたと、明日香が陽気な声で答えてくれた。活力と覇気が伝播し、スタッフの中に流れる空気にも希望が見え出した。
帽子とマスク、ラテックスの手袋という最低限の装備で指示を開始。
「7.5のチューブを挿管します。呼吸器科へ連絡を。血液を6単位と適合試験をお願い。あと、脳神経外科と血管外科にも連絡を。18番ゲージを8番フレンチに換えて点滴は全開。Oプラスの血液が到着しだい、輸血を開始。まずはこのワイパーを固定しましょう」
患者は仰向けに横たわっていた。私は顔の上に屈み込み、患者の口を開いてから目を閉じる。空気の漏れる音をすかさず拾い、迷わずにチューブを挿管。確認のため、肺に耳を当てると弱々しい音が鼓膜をかすかに振動させた。
時計を見た明日香が心停止から二分が経過したことを告げる。CPR開始から二分が経過し、それはまだ続行されていた。だが、これでは精々一時的に身体の一部に血液が循環するだけだった。
しかし、これから行う処置によって患者の心臓より下に位置する全ての器官において機能不全を被る可能性がある。その懸念が脳裏に貼り付いていた。大動脈圧迫という手段には、そういったリスクも伴う。血液が心臓と肺に回されるため、腎臓や下半身には行き渡らなくなる。腎臓は必要不可欠な酸素を奪われてしまうだろう。
視線を下に。蒼褪めた皮膚の下で、肋骨が心臓の周囲をさながら檻のように取り囲んでいた。
乳首のすぐ下にある五番目の肋骨を手で探り当てる。肋骨に沿って人差し指を胸骨から背骨まで走らせる。胸を聖譚のように開くには、この線の下を切っていく必要があった。
圧迫の中止を命じ、すばやく消毒して切開部分スレスレを滅菌布で覆った。
メスを手に取る。
右手の親指と人差し指とで摘み、先端にある刃を少しだけ眺めた。刃先が僅かな曲線を描いた、一気に切り裂くことを目的にした刃だ。
切開するのはなるべく下、六番目の肋骨近くでなければならない。第五肋骨の3センチと離れていないところには、およそ最終ラインとなっている動脈と神経が走っているためである。もしもミスによってそれを切断すれば、この患者は完全に死ぬだろう。
胸開蘇生のABC――Airway(気道)Breathing(呼吸)Circulation(循環)――をひとつずつ頭の中で、無意識のうちに暗誦していた。気道は挿管で確保済み、呼吸も両方の肺から呼吸音を聞いた。血液循環の回復のために点滴は二本打ってある。輸血用の血液はこちらへと向かっていることだろう。後は、私がすべきことをするだけだ。
思考でローに入れていたギアをトップに持っていったのはメスが肉を切る感触だった。新しい刃は鋭く、未踏のオフピステにシュプールを描くスキーヤーの如く肋骨のなだらかな曲線に沿って優雅に、そしてアグレッシブに動いていった。僅かな切り口が開き、今度は筋肉の層を切断するために力を込めてメスを入れる。
もう一度。これは注意してやる必要があった。力みすぎて肺まで切るなよ、と自分に言い聞かせる。これが最後と刃を滑らせると、筋肉組織がアコーディオンの蛇腹のようにパカッと二つに割れた。左側の肺の先端が人工呼吸器によって機械的に上下運動をしている。
「開大器を」
私は四、五番の肋骨の間に、万力を逆さにしたような開大器を当てた。回して、押して、回して、押して……これで肋骨が開いて、手を奥に突っ込めるようになった。
心停止から4分が経過したことを明日香が告げる。
開いた胸という聖域に、慎重に両手を突っ込む。右手を下に、左手を上に。それこそ大き目のおにぎりでも握るように心臓を包み込むが、こいつは微動だにしない。誰がどう診ようと停止状態だ。私は黙り続ける心臓を、両掌で押し始めた。押して、放す、押して、放す。
その時、――震えが走った。ビクッという動き。ナトリウム、カリウム、カルシウムその他の有機化合物が膜の表面を音さえ立てずに疾走し、電気的な指令を発したのだ。そしてそれが、心臓全体の小さな小さな筋繊維を覚醒させた。私の指先は確かに感じていた、というか、かすかに察知していた。
待望の感覚――震え、自律鼓動の再開だ。
「リズムが出ました」
明日香が言う。歓喜を帯びた、しかし冷静さは失っていない声音だった。
心臓が私の手の中で踊っている。それも、ぎくしゃくした動きではなくしっかりと、安定したビートでどっしりとしたツーステップを奏でている。
動脈圧迫のために固定していた棒をゆっくりとどかし、血流が下半身に行き渡るようにする。モニターに写るデータでは血圧心拍共に安定、徐々に上がり始めていた。
「瞳孔は?」
「反応があります。左右とも同じ大きさ、光に反応します」
なんて素晴らしい台詞だろう、“左右とも同じ大きさ、光に反応します”。
「血圧、50の110」
「点滴を緩めて患者を手術室へ。これからが本番よ?」
私は自分が開けた傷口に濡れたタオルを載せると、看護士達が患者を手術室へと運んでいくのを見送った。ナイスファイトと言ってくれた明日香に対し、私は親指を立てて応える。ひとまずは出番が終わった、後は専門の先生に委ねよう。
途端、四方から音が押し寄せた。賞賛と拍手、喝采だった。そういえば場所が足りなかったから通路で開胸したのを思い出す。適当に受け流しながら血に染まった手袋を外し、手を洗いに行った。
お見事でしたと、誰かが肩越しに声をかけてくる。声から判断するに、無線でやり取りしていたあの隊員達だった。彼らは皆、残って見ていたのだ。到着して患者も運ばずいきなり開くんだから目も引かれるだろうと、自分の行動が多少軽薄だったかとも思う。
「凄いメス捌きでした。まるで早送りのテープでも見てるみたいでしたよ」
「ありがとう。貴方達もよくやってくれたわ。お陰でバトンは手術室まで繋がったわけだし、後は専門の先生を信じましょう?」
「ドクターっていうと大抵は救命士を見下して扱うんですが、先生は違うんですね」
「仮にどちらかが欠けたりでもしたら、患者はそのまま死んでいくしかないでしょう? ERにおいて両者に優劣はないし、現場で最初に患者を助けるための処置を行う救命士をぞんざいに扱うなんて馬鹿がすることよ。当たり前じゃない」
まあコレは、中学時代の先生の受け売りだったりするが、どんな地味な楽器でも、音楽を構成する上で欠けるようなことがあってはならない。それは、救急救命に限らず医療全体に関しても同じことが言えるのではないだろうか。
すぐ傍にあった自販機でコーヒーを買い、そこにいた三人の救命士に缶コーヒーをパスした。
「さあ、それを飲んだらもう一踏ん張りよ? まだ戦いは続いてるんだから」
「はい」
手袋、帽子、マスクを外して一息つく暇もなく、次の患者の元へと歩みを進める。さっきの患者に施されるのは首の血管の縫合だ、人手が足りなければまた出番が来るかもしれない。出来る限り速く、精確な処置をしていかなる状況にも対応できる状態である必要がある。
敗北はあるかも知れない。どんな状態でも助けられると言えるほど、私は傲慢ではない。ただ、逃避は許されない。助けを求める人に手を差し伸べる。最善を尽くす。それだけのことだ。
内線の呼び出し音が響いた。まだ救いを求める手は何本も伸びている。一本でも多くの手を引き上げるため、私はまた戦場へと戻って行った。