明日が今日ね
雨が降っていた。風はない。僕は真っ暗な中、自転車をこいでいた。道の両側には、同じ形の巨大な倉庫が建ち並び、たまに現れる街灯が、その煉瓦造りの壁面をぼんやりと照らし出していた。
前髪から滴る水が目に入った。痛くて目を閉じる。すぐに自転車を停めて、両手で目をこすった。
前髪を掻き揚げて、再び自転車をこぎ始める。
さっきまで一刻も早く家に帰りたいと思って急いでいたのに、今は何だか帰るのが面倒になっていた。濡れた髪の毛が、濡れたTシャツが、濡れたズボンが、身体に張り付いて、初めのうちは気持ち悪かったが、今はもう気にならなくなっていた。
前方、かなり遠くに人が立っているのが見えた。こんな時間に、しかもこんな天気のときに、何をしているのだろうと思ったが、ことさら興味もないので、そのままのんびりとしたスピードで自転車をこいで行ったのだが、そのスピードのお陰で彼女を存分に観察する事ができたのだった。
それは女の子だった。髪は長く腰に届く程である。それが遠くからでも分かった。さらに近付くと、髪が緑色だという事が分かった。鮮やかな緑色である。年は僕と同じか、少し年下だろうか。こんなに雨が降っているのに傘をさしていない。彼女の長い緑色の髪も、小さな顔も、大きく前に張り出した白いワイシャツも、紺色の軽そうなミニスカートも、そこから伸びる白くて細い足も、当然ながら僕と同じようにひどく濡れていた。しかし、彼女は雨など全く気にならないという感じで、ぼんやりと何かを見つめているようだった。
緑色の髪なんて初めて見たけど、不思議なくらい似合っていた。というか自然だった。顔はよく見えなかったが、スタイルがいいな、などと思っているうちに、僕はそのまま通り過ぎてしまった。しかし、20メートルばかり行ったところで、Uターンする事にした。そうだ、このまま帰るのはなんだか勿体無い。あんなところに一人でいる女の子に心配して声をかけたって、バチは当たるまい。
僕は彼女の前で自転車を止めて声をかけた。
「こんばんは」
わざと明るい感じで言ってみた。
彼女はゆっくりと私に視線を合わせ、驚いたように目を少し大きくして、
「こんばんは」
と透き通るような声で言った。
その時私は、初めて彼女の顔を見た。小さな白い顔に整った目鼻立ち。しかしその時僕の目に入っていたのは、吸い込まれそうな程大きな真っ黒の彼女の瞳だけだった。反射的にそれを僕は美しいと感じた。
僕は彼女の瞳を見つめたまま尋ねた。
「そこで何しているの」
彼女が答える。
「バスを待っているの」
確かにそこはバス停だったが、まさか、こんな時間にバスが来るはずがない。からかっているのだろうか。やっと彼女の瞳から目を外し、改めて観察してみる。ワイシャツの下に下着は着けていない事がすぐにわかった。彼女の豊かで整った形の乳房と、そのてっぺんの小さな乳首が、ぴったりと張り付いたシャツの上からはっきりと窺えたからだ。
「こんな時間にバスは来ないよ」
僕が笑ってそう言うと彼女は、
「えっ、そうなんですか」と、さも驚いたように言う。ちょっと面白くなって僕は、
「こんな所にいたら、風邪を引くよ。家でシャワー貸してあげるから、おいでよ」と言ってみた。
すると、彼女は少し考えてから、
「あなたの家に庭はある?」と聞く。
意味がわからなかったがとりあえず、
「あるよ、小さいけど。それに今は雑草しか生えてないよ」と答えた。事実、家には何年も手入れしてない庭があった。広さは5平米くらいの、ちゃちい庭である。
それを聞くと彼女は急に嬉しそうになって、
「じゃあ、行く!」と言ってきた。素晴らしい笑顔で。
からかっているのか、と思ったが、相当な世間知らずという可能性もある。しかしそんな事はどうでもよかった。素晴らしく可愛い女の子が家に来たいと言っているのだ。断る理由はない。
僕は彼女を自転車の荷台に乗せて、家に帰った。
僕がリビングでコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、彼女が何も身につけずにバスルームから出てきた。僕は彼女を観察する。
艶やかな、腰まで届く緑色の髪をタオルで拭いている。彼女は美しかった。非の打ち所がないと言えば良いのだろうか。豊かな胸から腰にかけてのカーブが素晴らしく美しい。それは、写真を撮っておきたい程だったが、僕はそんなバカな事はしなかった。
彼女は僕が見つめていることに気付くと、無邪気に微笑んで僕の前に置いてあったコーヒーカップを手に取り、僕の目を見たまま一口飲んだ。その一つ一つの動作が実に美しくて、僕は完全に見とれていた。彼女はコーヒーカップを置くと、僕に悪戯っぽく笑いかける。僕は彼女の瞳から目が離せなかった。彼女の目は大きくて、真っ黒で、透き通っていて、吸い込まれてしまいそうだった。僕はとうとうこらえ切れずに言ってしまった。
「僕はあなたが…好きだ。だから…付き合ってくれ」
彼女は微笑んだまま動かない。そして、小さく溜め息をついた後、
「しょうがないなぁ…」
と呟いて僕の手をとり、
「おいで」
と言って、玄関の方に歩き出す。僕は訳が分からなかったが、何も言わずについていく。
裸足のまま外に出た。彼女は服も着ていない。タオルを首から下げているだけだ。そのまま庭の前まで来た。彼女はそこで振り返り、僕にこう言った。
「私の名前知りたくない?」
僕はそれを聞いて驚いた。今まで名前を知らないことなんて、忘れていたからだ。僕は慌てて、
「君の名前は、何ていうの?」と聞いた。
彼女は微笑んでこう言った。
「私の名前は、ヤナギ ミドリ」
ミドリは微笑んだまま、庭の入り、少し上目遣いになって、
「あのね、お願いがあるんだけど」と言う。
「何?」と聞くと、
「私が良いって言うまで、目を瞑っていてほしいの」
「いいよ。でもどうして?」
ミドリは顔の前で両手を合わせて、笑顔でこう言った。
「お・ね・が・い」
それは、全てを超越した完璧な笑顔だった。
「わかったよ」と言って、僕は目を閉じた。
「私もあなたが好き」という声が聞こえた。
そして、
「もう、良いよ」と言った声は、さっきとは違い、耳ではなく、脳で直接感じたような、頭の中で響くような、呟くような声が聞こえた。でもそれは、絶対にミドリの声だった。
僕はゆっくりと目を開けた。