ある日玄関が輝いて、勇者サイトウが現れた
ある日玄関が輝いて、光のなかから女性が現れた。
はあ?
襟足で切り揃えた青みがかった髪、紫水晶のような瞳に気の強そうな柳眉。額に金のサークレットを巻き、プレートアーマーを胸と肩とガントレットに身に着けている。ちょうど紳士傘ぐらいの長さの剣を高く掲げて俺と目を合わせた彼女は、なんだか微妙な顔をした。牛丼を食べたらフルーツパフェの味がした、みたいな顔だ。
彼女は口をぱくりと開いて眉間の皺を深めたあと、さっと顔を青くした。膝から力が抜ける。
「ちょ……っ! 大丈、重てェこれガチだ」
支えた手と肩にプレートアーマーがめり込んで激烈に痛い。これ立て直すの無理だ寝かせよう、と力をシフトした瞬間、
ぐっとガントレットが首に回され、
顔に熱いものが、唇にひやっとしたゼリーとも違う柔らかい何かを押し付けられた。
「ぇ……」
息ができない。
熱が近い。
離れていく紫の瞳と、吐息に顎をくすぐられる感触が、すべてを詳らかにしてくれる。
「な、なっ、なにを……っ!?」
「すまない。危うく死ぬところだったが、お陰で命拾いした」
女性は表情をミジンコ程度も変えずにさらりと返す。なんだかムカつきそうになったが、妙な単語が頭に引っかかった。
「命拾い?」
「ああ。一応確認するが、きみは魔王ではないよな?」
「魔王ぉ?」
素っ頓狂な声が出たのは、たまたま焼酎魔王を奮発して買っていたからだ。ちょっとずつ舐める所存である。
「ふむ、それは相伴にあずかりたいが、今は銘酒の話ではない。ここが魔王城でないのなら……」
彼女は玄関脇の小窓から外を眺め、頷いた。
「やはりな。私は謀られたようだ」
「たばかれらる」
「その程度で噛むな」
恥ずかしい。しかしよく考えなくても、人の家に突然上がり込むコスプレ女のほうがよっぽど恥ずかしいのではあるまいか。余りにも堂に入っているから全然違和感なかったが、一般家庭の玄関――傘立てや靴箱と女騎士の噛み合わせは最悪である。
「コスプレか、なるほど。面白い文化圏だな。私のような武装は不自然なのが常だが、不自然を受け入れる土壌もあるから、きみはあまり驚かなかったのだな」
しゃりんっ、と音を立てて鮮やかに剣を腰の鞘に収める。所作が美しく流れ、異様に洗練されていた。これは、コスプレではないようだ。実際、むちゃくちゃ重かったし。
「私が命拾いしたのは、呼吸による代謝で生命活動を維持していることも、声帯の振動による空気の波動で意思疎通していることも知らなかったからだ」
突然、宇宙人みたいなことを言う。確かに現れ方は若干宇宙人っぽさがあったが、鎧と剣を帯びる宇宙人もなかなかいない。
「宇宙……惑星外の真空世界か。面白い世界だな。あいにく、私はそんな極限状態から現れたわけじゃない。私の常識ではこの武装も、まあその、極端に珍しいものではなかった、かな。今は君のおかげでこの世界の物理法則に適応させる魔法が使える」
物理法則に適応する魔法。
「魔法のない君の文化圏では信じられないかもしれないが、私はこの術理にだけは自信があってね。この魔法で火山も雪山も深海だって踏破してきた」
魔法なるものが実在することを前提とする語り方をする。どうも話が嚙み合いそうにない。
というか、あれ? この女性、先ほどから俺が何か言う前に疑問に答えてくれていないか?
我が意を得たりとほほ笑んで、女性は凛々しく頷いた。
「それは私が、きみの脳を借りているからだ」
唇の柔らかい感触が脳裏に、蘇ると相対できなくなるのでねじ切って潰して燃やして捨てた。
彼女は鷹揚に何度もうなずいて、
「きみが学者で助かった。数理学だけでなく、生物学や物理学まで修めているとはな。若いなりで広範な覚えは感心だ、よい学者に……ん?」
眉をひそめ、
「基礎教養? 大学? ……この国――日本というのか――は、なんと! そんなに学力水準が高いのか! これは驚いたな。私の[errrtyuth]ではひとかどの学者として学徒の門を叩けるぞ」
「今なんて言った?」
「む……」
彼女は興奮気味だった語気を整え、大きく深呼吸をした。
居住まいを正し、すっと、胸に手を当てる。
「すまない、自己紹介が遅れたな。私は異世界から来た勇者だ。魔王の間に入ろうとしたら、転移の罠できみの家に飛ばされた」
「はあ、異世界」
いきなり何を言い出すのか、と言いたいところだが、不自然なところが多すぎて逆にしっくりくる。
異世界から急に放り出されたら、そりゃ酸素分子で呼吸できないとしても無理はない。鎧甲冑や魔法を使う文化など、異様にゲーム的なのが引っかかるけど。しかも、その魔法で環境に適応してしまうという力技は、それでいいのか?
「そう、力技だよ。無理を押し通してしまうからこその勇者であり、だから私は勇者なのさ」
彼女はしたり顔で同調する。
「ゲームというのは分からないが、きっと、最初に提唱した人は私たちの世界に来たのではないかな。今の私と同じように」
いや、その理屈はどうなんだ。
ところで、環境に合わせる魔法と人の脳を借りる魔法がセットなら、環境が変わるたびに誰彼構わずキ……あれを、しているのだろうか?
勇者はさっと朱が差した顔を背けて、気まずそうに頬を掻く。
「いや、これはその、緊急措置だよ。交霊魔法そのものが、本当なら禁忌とされる術理だ。物理法則ごと違う環境に飛び込んでしまったから、早急に生命活動の理屈を知る必要があった」
気軽な感じで傘を手に取った。俺の視線をちらりと確認して傘をほどき、ばっさ! と開く。新鮮そうに顔を輝かせているところ悪いけど、骨が壁に衝突して痛んじゃうから止めていただきたい。
「すまない。珍しくて、ついな。ばね仕掛けで勝手に開くように作ってあるわけか。うん、面白い」
楽しそうに傘を閉じる。人の脳を借りたから代謝やつくりが分かる、と言っているが、実際に自分の五感で持ってみるのはまた違うのだろう。その気持ちは想像できなくもないが、結果を知っているはずなんだから、もうちょっと状況に合わせてもらいたい。
「悪かったよ。それに、私もいつまでも観光しているわけにはいかない」
きちんと束ねて巻いた傘を傘立てに戻し、女性は剣の柄を叩いて見せた。
「魔王を倒したら、また来る。今度は色々なことを教えてくれ。君の考えている、テレビゲームというものもやってみたいな」
「ああ……うん、準備しておく」
こくりと頷く所作が凛々しい。魔王との闘いというからには、きっと死闘なのだろうに、悲壮なところが欠片もない。
彼女ならきっとやり遂げるのだろう。
そう思ったら、自然と声が出た。
「勇者さん。あなたの名前は?」
玄関扉に手をかけていた彼女は、俺を振り返ってくれた。
「名は[awlerus]と言うのだが、ふむ。やはり聞き取れないか。そうだな、ニュアンスだけ日本語から汲み取るなら……」
彼女はしばし黙考し、やがてひとつ頷く。
「私の名前はサイトウだ」
かくして、勇者サイトウは爆誕した。
「では、往ってくる」
勇者サイトウは凛々しく威風堂々と扉を開けて、家の外へと旅立っていった。
玄関扉が重たく閉まる。あっけなく。
そうして女騎士がいなくなってみれば、不思議なくらいに、いつも通りの平凡な玄関だ。
上がり框に、靴箱に、そして傘立て。驚くほど大したものがない。
あるいは、夢だったのだろう。
だとしても、とてもいい経験をした。子供の頃の勇敢な気分が、奮い立つ想いが沸き立ってくる。
「魔王は、当分お預けかな」
そして呑むときは、とてもいい気分で呑めるはずだ。
「それにしても」
思う。
「勇者サイトウは、センスなさすぎだろ」
――ゴンゴン、と玄関扉がノックされる。
「おや、誰か来たようだ。こんな時間におかしいな。Amazonの宅配メールは特に届いてないけど」
ガチャリコ、と扉が開いて、顔を真っ赤にした勇者サイトウが現れた。
「外に出たら、普通に外だった……」
青みがかった彼女の髪の向こうには、俺のよく知る地球の表通りが広がっている。スズメが通り過ぎた。
「転移魔法、とっくに閉じてた。考えてみたら罠なんだから当たり前だった……。帰るための転移魔法を編むのには、ちょっと、しばらく、かなり時間がかかるんだ。それで……」
「つまり」
俺は彼女を遮った。
「さっきの、俺の感慨と感動が、全部まるっと筒抜けだったと」
勇者サイトウは、凛々しさも吹っ飛ぶ居心地の悪さを伴って、
首肯した。
「いいよ」
俺は菩薩のような笑みを湛えて、彼女に家の中を示す。
「ゲームを準備する。勇者をひたすらぶっ殺す魔王シミュレーション。あと酒も開けようか。いいものを仕入れてあるんだ。どうぞ上がって、サイトウさん」
「待て! サイトウは撤回する! あれは……誤訳だ! 違うからな! アイリスとか、リリアとか、なんかそんなんだ!」
「斎藤アイリス、二十代女性。住所不定。職業勇者」
「やめろぉ! 今の私のプロフィールを言うんじゃない! あとサイトウはやめるって言っただろ!」
かくして、勇者サイトウは地球に逗留するのだった。