止念 2
(何でこんなコトになったんだ?)
「いったい、何があったのですか?」
「それを訊きたいのは、オレの方です!」
守は、団地の一室のような場所にいた。
十畳ほどの居間らしき洋間の中央には、この部屋の広さにふさわしくない小振りの丸テーブルが置かれている。周りを四脚のイスが取り囲み、その一つに守は腰を下ろしていた。
目の前には落ち着いた雰囲気の、細面の男が一人。『角含明』と印字された名刺の肩書きは、大学教授となっている。
含明はその肩書きにありながらも、それほど老いていなかった。見かけは三十代前半。実年齢はどんなに多く見積もっても、不惑は越えていないはずだ。その若さで教授ということは、かなり優秀な人物と言えるだろう。その証拠に薄い唇から発せられる日本語は、日本にいるかと錯覚するほどの、しっかりした標準語だった。
含明は、流暢な日本語で「申し訳ありません」と頭を下げた。
「まだ混乱されているようですね。言葉が通じない異国でのトラブルですから、無理もありません。私がもっと気を配るべきでした。どうしますか? 少し隣の部屋で休まれますか?」
「……い、いえ。大丈夫です」
「では、状況を確認する意味も兼ねて、何故この国に来たか、というところから、順を追って話していただけないでしょうか?」
守は「はい」と頷いて、事の起こりを最初から思い返してみた。
「ねえ、マモちゃん、聞いてる?」
彼女の香子にそう声をかけられたのは、一年前の高三の夏、守の部屋で一緒に受験勉強をしていた時のことだった。
「もう、何でそんなにやる気がないわけ?」
顔を上げた守の目は、うつらうつらと微睡みだした雛鳥のように虚ろだった。
「う~ん、わかんね。……つか、ちょっと休まないか?」
「えっ、またなの?」
香子は頬を膨らませ、「三十分前に休んだばかりでしょ」とか、「同じ大学に行きたくないの?」とか、ここ最近繰り返されている一連の文句を並べ始めた。
「つーか、気分転換にちょっと『運動』しようぜ」
「え?」
運動をして血行が改善されれば、脳に酸素が行って頭の働きもよくなると、守が熱心に主張する。だが主張すればするほど、熱心であればあるほど、香子の眉間のシワは深まっていった。
どうやら守の言う『運動』が、ある特定の『行為』のことだと気づいたらしい。
「もう、そんなの絶対ダメだから。それに――」
急に声を潜め、香子が正面の壁を見た。淡い暖色系の幾何学模様が散らばるそれは、部屋と部屋との間を仕切る境の壁だった。香子は隣の部屋にいる、守の弟のことを気にしているようだ。
「優はさっき友達が来て、サッカーの練習に出かけたよ。で、お袋は今、買い物に行った。だから、この家にいるのはオレと香子の二人きりだ」
満面の笑みで「な?」と言って、守が香子の顔を覗き込んだ。答えが出てくる前の唇を、自分の口で塞ごうとする。
「……もう……ダメ、だって…ばぁ……」
身を捩り、香子は力一杯守の肩を押し返す。睨む目と少し染まった頬が愛らしい。さらに進もうとする守に、淡いカメリアピンクの唇が、身も蓋もない現実を吐き出した。
「マモちゃんのお母さんが帰ってきたら、言いつけるからね」
もともと母親同士が知り合いで、守よりも先に母は香子を見知っていた。香子を初めて家に招いた二年前、偶然を驚いた母は、頼むから向こうの親に顔向けできないような真似だけはしてくれるな、と守に太くて長い釘を刺していた。
「あ~あ」
不満も顕わに守がベッドに寝ころがる。
「どっか遊びに行きたいなぁ。海でも、山でも、街でも、どこでもいいんだ。来る日も来る日も勉強で、もう飽き飽きだよ」
「だって、しょうがないじゃん。『勉強』ってさ、『勉めて強いる』って書くんだもん」
無理にやるのが『勉強』、と諭す香子をチラリと見ただけで、守は窓の外に目を向けた。日盛りが過ぎた夏の空に、真っ白な入道雲が湧き上がっている。その雲のように、膝立ちになって急に高さが増した香子が、守のいる窓際のベッドににじり寄って来た。
「じゃあね、受かったら行こっか。マモちゃんの好きなとこ。バイトして、夏休みの混まなさそ~な時期に、二人で行こうよ」
「二人?」
「うん。大学生なんだから、それこそ海外でもいいんじゃない」
「海外?」
「九月に入っても大学ってまだお休みでしょう。ねえ、どこ行きたい?」
「そっかぁ、海外か――」
中二の冬休み前にこの家に越してきた時、守は引っ越しの荷物の中から、ラベルの付いていない一本のビデオテープを発見した。画質はいいが主流にならず、今は生産が中止されたタイプのビデオだった。
父が録り溜めたコレクションは、子供の頃によく観ていたという特撮映画が多かった。守も小学生の頃に無理やり見せられた記憶がある。
それはそれでそれなりに面白かったが、CGが主流になりつつある現代では、やはりどこかチープな感じが否めない。それを話すと、「そこがいいんじゃないか」と父は真っ向から反論し、ひとくさり特撮映画の素晴らしさについての持論を展開した。
それはミニチュアの細かさや操演の大変さ、中には電線の弛み具合というわけの判らないものまであって、守が解放されたのは二時間以上経った後だった。
だからタイトルのないそのビデオも、同じようなものだと思っていたのだ。
だが、再生してみるとどうも違うようだった。
それは七〇年代の前半に封切られた、古いアメリカ映画だった。
わりとよく耳にする特徴的な導入部分の音楽が流れ、怪鳥音と呼ばれる独特の叫び声が聞こえてくる。
危機感を煽るようなマイナーなメロディーが続く中、画面には――
林立する古いビル群。
漢字だけのおびただしい量の看板。
ビルの上空すれすれを飛ぶ航空機。
そして、車、車、車。
さらに、人、人、人。
画面の中央を、一台の黄色いバイクが通り過ぎる。
タイトルは知ってるし、細切れにいろんな場面も目にしている。
封切られる前に、主演俳優が亡くなったことで話題にもなった。
ところがその時まで、守は何故か一度として、きちんと通してその映画を観たことがなかった。
そして、観て嵌まった。
さらに、拗らせた。
次の週には、近所の空手道場で宙を飛んでいた。
「えっ、もしかしてそれで空手を始めたの?」
「悪いかよ」
守はベッドの上に起き上がった。
「でも、あれって……カンフー映画、だよね」
おそるおそる訊く香子に「それを言わないでくれ」と守。
「でも――」
「しょうがないだろ。近所に教えてくれる所がなかったんだからさ」
香子は「なるほど」と納得し、「ふ~ん」と意味ありげな笑みを浮かべた。
「それで香港、行きたいんだ」
「ああ。住んでた家が残ってるらしいんだ」
「マモちゃん、知ってた? そこってぇ、ずいぶん前からラブホになってるってウワサあんの。もしかして、期待してる?」
「は? 何言ってんだよ」
守はただ純粋に、住んでいた家が見たいだけだった。
けれど香子は「ホントに?」と疑いの眼を向けてくる。
「当然だろ。それ以外に何があるんだよ」
「だってぇ、最近のマモちゃんって、エロいことしか考えてないじゃん」
「え……」
目を細め、香子が守を睨めつける。
「何かさ、いつもさっきみたいにエッチしたがるし、時々やれれば誰でもいいのかな、って思うことあるもん」
「そ、そんなことないぞ。オレはもちろん香子じゃなきゃイヤに決まってんだろ」
「ホント?」
横目でじっと見つめる香子に、守は「ああ」と真剣な顔で訴えた。
「じゃあ、受かるまでガマンね」
空かさず言って、香子はニッコリ微笑んだ。
「え……」
「当然でしょ。だってアタシ、マモちゃんと同じ大学に行きたいんだもん。それに苦しみを乗り越えての方が感激もひとしおだよ。マモちゃんが一人暮らししたら、お泊まりだってできるし――」
「お、お泊まり?」
それは実家住みの身としては、あまりにも魅惑的な言葉だった。
「うん。今から少しずつ説得すれば、ママもきっと根負けするよ。でもぉ――落ちて予備校行くなら、お泊まりは無理だよねぇ」
「そ、そうだよな。つか、鴛鴦に行くって手もあるぞ。香子も受けんだろ」
急に表情を曇らせた香子は、「記念にね」とだけ答えた。その声はさっきまでと違ってずいぶんと歯切れが悪い。
「記念?」
「だって鴛鴦大学って、アタシたちが受ける第一志望よりもランク、上なんだよ。受かる確率、低くくない? アタシ、受かる気まったくしないもん」
「でもさ、今年はチャンスだ、って先生も言ってたろ」
鴛鴦大学は、幼等部から大学院までの一貫教育を行っている、私立鴛鴦学園の大学部だった。私学でありながらも募集人数が少なく、かなりの難関とされている。
ところが、創立以来任に就いていた理事長が今年度を限りに引退し、さらに一昨年から行われている本校の改築工事が終わるため、今までの少数精鋭の方針を転換し、各学部の定員を増やし、現在仮校舎として使われている新校舎に、学部を新設することになったらしい。
それは、今までなら受からないレベルの学力でも受かる可能性が出てきた、ということだった。それに教養課程にある新一年生は、本校でなく、その新しい校舎に通うという。
(あそこでも、何とか一年は一人暮らしをさせてもらえる)
目眩くキャンパスライフを妄想しながら、香子なら絶対受かる、と守は無責任なことを口にした。
「もう、勉強したくないからって、人ごとなんだから……」
そうそうに守の本音を見抜いた香子が唇を尖らせた。
「絶対行けるマモちゃんには、言われたくないんですけど。って言うか、何で鴛鴦にコネ入学できんの? やっぱりただ学校関係者と知り合いってだけじゃ、入れてもらえないと思うんだよね」
「だ、か、ら、『一発芸』推薦枠だよ」
「だ、か、ら、『一発芸』じゃなくて、『一芸』でしょ」
使い古された冗談に、香子がお決まりの突っ込みを入れてくれた。
「そうなんだけどさ、マジ、ホントに親父は『一発芸』って言ったんだ」
鴛鴦にもこういう制度がある、といちはやく守に話を持ってきたのは父だった。どんなコネかは知らないが、守なら確実に鴛鴦大学に入れるという。
実際にはいろんな面が考慮される自己推薦入試らしいのだが、守の場合は本当に一つしかないから『一発芸』で十分だ、と言われたことを思い出す。どうやら、悔しかったら少しでも努力しろという、父なりの励ましだったらしい。
「とにかく、オレの高校三年間、いや、あの時はまだ二年だけど、そのガンバリを認めてもらえたってことだよな」
腕を組み、守はウンウンと頷いた。
高校生活の大部分を勉強よりも部活に費やしていた守は、いちおう、その道では知る人ぞ知る存在になっていた。香子とつきあうことになったのも、試合の後に声をかけられたのが切っかけだ。
そんな守の努力を、一番近くでずっと見ていたはずなのに、香子は「う~ん」と小さく唸ったまま首を傾げた。
「何だよ?」
「それがね、ちょっと調べてみたんだけど、去年まではそんな枠、なかったらしいんだよね」
「だから、理事長が替わるからだろ」
「でも、都合、良すぎない? 何か、マモちゃんのためにわざわざ――」
「まっさか、ない、ない」
冗談すぎる冗談に、守は話の途中で否定した。
もちろん父がこの話を持ってきた時点で、何らかの意図があるのは確かだった。だがそこには、不甲斐ない息子を心配する親心以外のものなどないはずだ。
何だかんだ言いながらも、父は守のことを考えてくれている。たとえ驚くほど絶妙なタイミングで新しい制度が作られていたとしても、それはたまたまの偶然で、特別なものなど絶対にない。どこをどう考えても、学校を動かせるような権力や経済力を、一介のサラリーマンが持ち合わせているわけがないのだ。
(そう。たとえあの親父でも、だ)
だが、そのままそのお膳立てに乗ってしまうのは、何か違う、と守も思った。
だからこそ、あえて香子と同じ大学を受験することにしたのだが――
(このままじゃ、確実に、親父の高笑いが待っているな)
それに第一志望の大学なら、独り暮らしは一年でなく、四年間だ。
「なあ、そんなのどっちでもよくないか。オレは第一志望に受かって、香子と一緒にそこへ行く。香子が記念なら、オレはただの保険だよ」
お泊まり+旅行、という餌を目の前に釣るされてからの、守のがんばりは凄かった。なまじ体力があるだけに無理も利き、思った以上に捗った。やればできるというよりも、今まではやらないからできなかったということらしい。
発表の日、守は香子と待ち合わせて一緒に結果を見に行った。たくさんの数字が整然と並ぶ掲示板の前に人集りができている。守はわりとすぐ、その中に自分の番号を見出した。
「おう、あったぞ。香子は?」
香子はどんよりと暗い顔で「それが……」と言って押し黙った。
「え? ないのか? よく探せよ」
守はギリギリの自分が受かって、先生からも確実と太鼓判を押されていた香子が落ちるなど、到底信じられなかった。何度も繰り返し見返したが、何回見直そうとないものはない。
一時間以上経っても、守は香子の受験番号を見つけることはできなかった。
「ウソ、だろ……」
何と言って慰めていいのか思いつかず、守は思わず「浪人するのか?」と訊いてしまった。
「ううん、それは無理。って言うか、何でかよく判んないんだけど、アタシ、鴛鴦には受かったんだよね」
「えっ、マジで?」
「うん。だから、たぶん鴛鴦に行くことになると思う」
「そっか……じゃあ、オレも鴛鴦に行くわ」
父の思惑どおりになるのは癪だったが、香子と離れないためならそれも仕方がない。「ホントに?」と驚く香子に「学部、どこ?」と守は訊いた。
「教育だけど、マモちゃんは?」
「それが文学部の――」
と、言葉を濁す。
「えっ、哲学なの? 何で? 普通に教育とか経済とか、でなきゃ、今度できる新しい学部かと思ってた」
「だよな。ああ、でも、東洋思想だからさ」
香子が驚くように、あまり物事を深く考えない守が、何故哲学科なのかは疑問だった。それに自分のことなのに他人事なのは、行くつもりがなく、父に任せきりにしていたからだ。それでも東洋思想なら、日本の武道の精神にも通じるところがあって、意外に身近かもしれないと守は思っていた。
「よく判んないけど、そこしか空いてなかったんじゃないのか? ――つか新しい学部って、オレに情報技術とか無理だろ」
香子は「ヘヘ」と首を竦めた。少しでも笑顔が出た香子に守もホッとする。
「じゃあ、帰ってお袋に話さないと。で、親父を説得してもらう」
「うん。ゴメンね」
香子の顔には、今までに見たことがないような、すまなさそうな表情が浮かんでいた。
文中の映画は、知る人ぞ知る例のアレです。
最初思い出し思い出し書いていて、書き終わった後に実際のOP見たら、車も人の量も断然少なく、場面の順番も違うし、思っていた以上にマッタリ進行だったので、かなりびっくり。
人の記憶って本当に当てにならないですね。
ですが、主人公の脳内ではこうだった、的な描写ということで、訂正しないことにしました。