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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第三章 識炉鼎(炉と鼎を見分ける)
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識炉鼎 2

これはあくまでも創作です。実在の場所、同名の物が出てきますが、現象はすべて作者の妄想です。

 仁王門(におうもん)と大仏殿をざっと見学してから、守は戒壇院(かいだんいん)へと向かった。

 大仏殿の西方に位置している戒壇院は、鑑真和上(がんじんわじょう)が日本に仏法(ぶっぽう)を伝えるために渡来し、初めて(かい)を授けた場所だといわれている。

 ところが少し迷ってやっと辿り着いた戒壇堂は、武志のペットのちびマルのように、その扉を固く閉ざしていた。肩にかけていたデイパックのポケットから、守はガイドブックを引っ張りだす。パラパラと頁を捲った先に記された拝観時間は八時からで、時間はとうに過ぎていた。

(なら、休みか)

 師走(しわす)の平日で人が少ないからだろうか。

 だが、大仏殿にはそれなりに観光客も多かった。

 守はひとしきり考えて――

(まっ、いっか)

 と、何故か思った。

 しばらくここで待ってみてもいいかも、と。



 中学の修学旅行で京都と奈良に行くと決まった時、守は、戒壇堂を見ておくように、と父に勧められていた。あいにく時間がなくて拝観することはできなかったが、帰ってからそう話すと「機会があったら、ぜひ見ておけ」と、父はいつになく熱心だった。

「何でさ」

 父は大学に通っていた頃に行って感動したらしく、その後も機会を作っては度々訪れるようにしていたと言う。

「口で説明するのは難しいが――」

 そう前置きした父は、「あそこは本当にいいんだ」と主張する。特に人がいない時がいいらしい。

「だから、何がいいんだよ?」

「気場だ」

「『きば』?」

 見返す守に父は頷いて、『気』について何か知っているか、と訊いてきた。

「う~ん。何となく」

 守は、曖昧に答えてから続ける。

「昔から日本には、合気道とかあるしさ。『気合い』とか『殺気』とか、いろいろな武道の用語にも出てくるけど――、改めて『何だ』って聞かれても、上手く説明できないよ」

 戸惑う守に、「まあ、そうだろうな」と父は一応の理解を示し、書棚から若草色のカバーがかかった、A4サイズの本を取り出した。そして「この辞典の説明によると」と頁を捲って『气』の項目を指し示す。

「解るか?」

 覗き込む守の目に、藁半紙(わらばんし)に似た紙いっぱいにひしめき合う、漢字だけの小さな文字が飛び込んできた。

 最初に記されていたのは、『中国哲学的概念』。

「うん。何となく」

 父はさらにその先の印字の掠れた漢字の羅列を指差したが、見たことのない字もあってほとんど解らない。そう話すと、父が簡単に訳してくれた。

 それによると――

『世界を構成する、万物の本源である、極微細な物質のこと』

 という意味になるらしい。

「ん?」

 首を傾げる守に、「『気』とは、この世界を構成する全てのものに含まれる、精微な物質のことだ」と父は続けた。

「? ? ?」

 父が言った言葉の意味を、守はまったく理解することができなかった。機能が停止してしまったような守を見て、「まあ、無理もない」と父は形の良い唇を歪めて苦笑した。

 守の父は、中学生の守を相手にしても、特に解りやすく噛んで含めるような説明をするということはなかった。

『人の脳は人が思っているほど馬鹿じゃない』

 それが、父の持論だった。

 たとえその時に解らなくても、何度も同じような言葉や説明を繰り返し聞いているうちに、自然に解ってくるという。

 そして、そうやって身についた知識の方が忘れにくい、とも。

 ところが今回は少し違って、父は辞典を棚に戻すと、今度はA5サイズの日本語の本を手に取り守に見せた。それには『気』とは、『根源的生命力』とか、『根源的生命エネルギー』とか書かれていた。

 けれど、守はそれを見ても『だから、何?』という感じしか持てなかった。説明を促すように父を見る。父はまず「『気』とはエネルギーの一種だ」と言った。

「『科学では証明されていない自然エネルギー』と憶えておけ」

 近くにあったメモ用紙を引き寄せた父は、モコモコとした『雲』の絵を描いて、さらに『雲』の右横に『三本の煙』の絵を描いた。

 父の説明では、一説に『気』の概念というのは、今みたいな漢字が作られる以前からあったらしく、雲のような形を書いて『自然の持つ不思議な現象』という意味を表していたという。さらに時代が下がると『雲』から横に棚引く『三本の煙』になり、その形になって初めて、今使われているような意味になった。そして『()』という漢字はその『三本の煙』が変じたものだという。

 ちなみに、今使われている『気』は本来は『氣』と書いて、厳密には『气』とは別の意味だったらしい。

 そして――

 父は『気』という字を使った単語をどれだけ知ってるか訊いてきた。

「うんと。まず『元気』だろ。それに『病気』に『強気』それから『弱気』、『気を使う』ってのもあるよ」

 守は思いつくままに上げていく。

「それに、『気味が悪い』『気後れ』『気丈』『気疲れ』『呑気』『悪気』『殺気』。ん? あっ、そっか。人の状態を表す言葉が多いね」

 父は大きく頷いた。

 東洋医学では、気は人の体の中を血液や体液と一緒に巡っていると考えられていて、その場所に異変が起こるのは、気血(きけつ)が停滞することが原因とされていた。また凝りや痛みなど、気血が滞ることで起こる異変はいろいろあり、それが酷くなることで、免疫機能が低下し病変となって現れるという。

 神妙な眼差しを向ける守に、さらに父は、『気』は人間だけにあるわけでない、と言った。動物や植物、大地や海、地球、そして宇宙のあらゆる空間にも充満しているのだ、と。

「『天気』『空気』『磁気』といった言葉がそれを表している」

「へ~ぇ、自然に対する言葉も多いんだね」

「そうだ。それから『磁場』という言葉があるだろう。磁力が作用する範囲のことだ。つまり『気場』は――」

「気が作用する範囲のことか。でもさ、それが良いとか悪いとか、ってのは、どういうことなのさ」

「まあ、口で説明するよりは、とにかく行って実際に感じてみることだな」



 守は、そんなに広くない戒壇院の境内で時間を潰していた。

 父ほどではないが、守も本来、気は長くない方だった。だが、武道を通じて我慢することを学んだ。けれど『我慢』は無理にしているから苦痛を伴う。その苦痛が今回に限って、まったくと言っていいほど感じられなかった。

 待っていてもイライラしない自分というものを、守はこの時初めて知った。それは実に不思議な感覚だった。

(ここは妙に落ち着く。でも、それは暖かい陽射しのせいだけじゃないな)

 父が言っていたとおり、守はこの場所に、特別な『何か』を感じていた。

(これが、『気場がいい』って感覚なのか?)

 何気なく、正面の門に目をやると、そこにチラリと白い人影が動くのが見えた。

 守と同じように、扉が開くのを待っている人がいるようだ。

 やがてどこからともなく住職らしき人物が現れて、守を認めるとにこやかに微笑み、手招いてくれる。

 どうやら扉を開けてくれるらしい。

 ゆっくりと開け放たれる板戸。

 瞬間、涼しいサワサワとした風が守の頬に当たった。

 そしてさわやかさが全身を包み込む。

 と――

 仄かに温かくなった。

 空気が外とはまるで違う。

 誘われるまま、守は薄暗い堂内に一歩足を踏み入れた。


 外が明るかった分、中の暗さは際立っていた。

 清浄な空気に包まれたまま、守はそこに立っていた。

 目が慣れるにつれ、薄暗い空間の中央に三段の戒壇が浮かび上がってくる。

 鑑真和上が戒を授けるために作ったとされている戒壇だ。

 靴を脱いで板の間に上がる。

 戒壇の中央には多宝塔(たほうとう)(しつら)えてあり、それを守護するように四隅には、持国(じこく)増長(ぞうちょう)広目(こうもく)多聞(たもん)の四天王の塑像(そぞう)が、方角を定めて置かれていた。

 力強い表情に、繊細な描写。

 四天王とは対照的に、足下にいる邪鬼の表情がユーモラスだ。

(さすがに、国宝に指定されているだけのことはあるな)


 一つ一つの像を見て回った後、守は多宝塔を背にして堂内を見渡した。

 障子越しに、冬の透き通った光が入り込んでくる。

 その柔らかな光が空間を薄く(けぶ)らせ、戒壇全体をぼんやりと包み込んでいた。

 守の体から、ゆっくりと不要な力が抜けていく。

 心がシンと静まり返る。

 と――

 聞こえるか聞こえないかの微かな音が聞こえ始めた。

 低く、長く、響く音。

 両の耳から入って頭へ至り、それが細かい振動となって全身へ広がっていく。

 いや、直接頭の中に湧き上がっているのかもしれない。

 その時、鈴の音がチリンと鳴った。

 それを合図にしたように、煙った目の前の空間に白く強い光が現れた。

 眼前に出現したそれは、点と奇妙に折れ曲がった太い線で構成されている。

(文字だ)

 守の脳が認識した。どこかで見た記憶がある。

(そうだ、これは……)

 梵字(ぼんじ)

 光で描かれた梵字が、次々と守の前に浮かび上がっていた。


 光の梵字は浮かび上がるとすぐに、現れた時と同じように消えていった。

 その場に立ち尽くし、守はただじっとそれを眺めていた。

 瞬きも、呼吸すら忘れてしまったかのように動かない。

 もし誰かがそれを見たならば、何かがおかしいと感じただろう。

 虚空を見続ける守の状態は、明らかに常人のそれとは違っていた。

 ところが――

 唐突に、恍惚とした表情が変化した。

 守の目の前から、いきなり光が消えたのだ。

 我に返った守は、生まれたばかりの赤子(せきし)のように、小さく喘いで空気を吸った。

 と、にわかに周囲がざわめきだす。

 扉付近に、数人の観光客。

 今まさに室内に入ってこようとしていた。

「何だったんだ、今のは……」

 守は呟きながら、その場を離れようと振り向いた。

 目の端を、ふと白い影が掠めた。

 この時、守は初めて自分の後ろに人がいたことに気がついた。

 多宝塔の裏、北面する場所に、既視感のある白っぽい服の後ろ姿があった。


(あの()だ)


 だが、その姿は瞬く間に遠退いていく。

 少女は観光客を避けるように、足早に出口に向かっていた。

 何人かの客と擦れ違う。

 行く先には、新しい人の波。

 やがて、少女はその波に呑まれて見えなくなった。

 呆然と見ていただけの守が、慌てて後を追った。

 人を掻き分けて外へ向かう。

 ぶつかったおばさんが、後ろで文句を言った。

「すみません!」

 守は振り返って深々と頭を下げる。

 靴を履くのもそこそこに、守は外へと飛び出した。

 ひもを踏んで階段を転げそうになりながらも、体制を整えて辺りを見渡す。

 けれど――


 白い少女の姿は、どこにもなかった。


戒壇院に行ったのはけっこう昔のことで、私の記憶と現在の状態はかなり違っているようです。

大きな違いは、

昔:四天王は、多宝塔(内側)を向いていた。

今:四天王は、南を向いている。

文中では、戒壇の中を浄化している意味合いを持たせたかったので、内側を向いている設定にしてあります。

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