止念 1
『そらつかい』とは
虚遣い【道】道家の基本理念である『虚』を遣うことのできる人
空遣い【仏】仏家の基本理念である『空』を遣うことのできる人
そらつきゃぁ【方】日本のとある地方の方言で『うそつき』のこと
(何でこんなコトになったんだ――)
丹下守は、考えていた。
根っこから引き抜かれた街路樹。
大きな水溜まり。
止んでは降りだす土砂降りの雨。
突発的に逆巻く風。
そして――
痺れるほどのバイブレーション。
「打気!」
子供の頃の顔しか知らなかった男が、突然叫んだ。
異国の地で偶然遇った幼馴染み。
ある日、突然いなくなった同級生。
「逃げろ、丹下!」
「ど、どこに?」
「国術!」
「えっ?」
「大学だ!」
「だ? ……あ~あ、大学か」
ひとまず守は納得する。
けれど――
「どう行きゃあいいんだよ!」
慌てて叫んだその問いに、答える声はない。
「維名!」
守は、武志の名字を呼んだ。
「どこだよ!」
甲走る声は、終わりの方がさらに上擦って掠れていた。
だがそれも無理ないことだろう。武志は言葉も通じぬこの異郷で、守がよく知る、ただ一人の日本人なのだ。
迷子の子供がするように、守は左右を見回した。意外なほど簡単に、守は武志を見つけることができた。
細身の男は、すでに降りしきる雨の中にその身を置いている。
ところが――
雨に煙る武志の姿は、さっきまで一緒だった彼と違っていた。
鋭い眼光に、肉眼では捉えきれないほどの素早い動き。雨さえ避けられそうなその勢いに、守は目を瞠った。
けれど違っているのは動きではない。その片鱗なら、さっきまでいた国術大学でも垣間見ていたはずだ。
(なら、どこが……)
守はよく見ようと前に出た。雨が当たるのも構わずに、全神経を、武志を見つめる己が双眸に集中する。
視線が雨の中を突き進み、動き回る武志に辿り着く。
と――
その足に絡みつく、モヤモヤとした黒いモノを捉えた。
叩きつける雨や、突然殴りかかる風とは遥かに違う異質なもの。
(何だ、ありゃ?)
そう思った途端、武志が驚くべき脚力で跳ね上がった。
武志の体が宙を舞う。
人間離れした跳躍にも、『靄』は離れるどころか、武志の全身を包み込もうと、広がり追い縋っていく。
その時――
「!」
守の背にどうしようもなくイヤな気配が這い上がってきた。
敵意。
殺気。
憎悪。
怨念。
そんな直接的な感情でなく、もっと根源的で陰湿な澱んだ感覚。
それが、守の生理的嫌悪感をこれでもかと刺激する。
誰だって、嫌なものは嫌だ。
それは人に備わった、性命を護るための本能でもあった。
自分の性と命を保持しようとする強い欲求――
守は特にそれが激しかった。
そしてそれこそが、守の体内に漲る闘争本能の原動力でもあるのだ。
どうしても、逃げたい。
けれど、どうしても逃れることはできない。
この時初めて、守は自分だけではどうすることもできない、圧倒的な力に捕らえられていることに気がついた。
(な、何だよ……これ?)
微かに残る理性が考える。
あのジンジンと痺れるバイブレーション。アレのせいなのか。
顔に。指に。全身に。痛いほど突き刺さったアレなのか。
あの時、武志は何かを言っていた。
けれど――
(あれは、日本語じゃあなかったような――)
思考はそこで中断する。守を包み込む嫌悪感が、これ以上我慢できないほどぴったりと、焼けた素肌に張りついた。
短い髪が逆立って、守の感情が『逃げたい』と叫んだ。
何が何でも逃げ出したい。
どうしても嫌だ、と。
『止めろ!』
守は心の底から声を上げた。
だが、その悲痛な叫びを発することはできなかった。
体がまったく動かない。
不意に目の前がぼやけて暗くなる。
『!』
ついに、守は自分に纏わりついているモノが、武志の足下に絡みつく、正体不明の黒い『靄』だと知ったのだ。
途端――
『イヤだ! イヤだ! イヤだ!』
守の心が悲鳴を上げた。
だからといって、それで解放されるはずもない。
それどころか冷たく陰湿なソレは、閉じることのできない耳、鼻、そして毛穴という毛穴から、無理やり体内に入り込もうとする。
ヤ、
メ、
ロ。
『止めろぉおおおおおおおーーーーっ!』
反射的に、体がすべての呼吸を止めた。
すると――
下腹と共に、睾丸と肛門の中間に位置する会陰の部分が、体内の一点へと急速に収縮を始める。
臍から指三本下。気海の穴の、さらにその奥の奥。
昔から『丹田』と呼ばれ、人にとって一番重要とされている場所だった。
すぐに、体のすべてがそれに倣う。
まるで体内に小さなブラックホールが発生したかのように、すべてが『丹田』へと引き摺り込まれていく。
やがて、それは豆粒ほどの一点に凝集し――
固まった。
と、同時に、狂おしいほどの熱感と膨大な勁が噴出する。
それが間欠泉のように勢いよく吹きあがり、体中を駆けめぐって鍛えられた筋肉へと伝わっていく。
「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉお!」
雄叫びと共に全身が激しく痙攣し、黒ずむ眼前が朱く染まった。
シュウ、
シュウ、
シュウ。
黒い『靄』が、音を立てて蒸発する。
守の体が強い戒めから解き放たれるのに、それほど時間はかからなかった。
「助かっ…た……、のか?」
守が切れ切れに声を漏らす。それを合図にしたように、これまでにない激しい雨音が、熱く猛った脳内に響き始めた。
「いったい、何が起こったんだ……」
呆然とする守に、容赦なく雨は降りかかる。
雨は体に当たると音を立て、あの『靄』のように瞬時に蒸発した。
白い蒸気と無数に落ちる雨の線が、辺りの風景を歪めている。
その向こうに――
朧に浮かぶ黒い影。
守は慌てて身構えた。
それは瞬く間に雨の中へ溶け込んで――
そして、消えた。
守はついに武志の姿を見出すことはできなかった。
*文中の『性命』は、『性』=心、『命』=体で、心と体の意味になります。
文章を書くのが苦手な私でも、参加できる場を与えていただきありがとうございます。人様に見ていただけるレベルかどうかは判りませんが、これを機会に少しずつでも上達できるようがんばりたいです。