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緑衣の旅人  作者: 千景
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第一話 ルージュの酒場

 南の果てに位置する巨大砂漠。

 その真中に一際大きな機械音を響かせている町が存在した。

『気候調節装置』が働いているのである。 

 周囲にオアシスの存在もなく、唯々砂ばかりが広がる世界で人々が生きて行ける理由がこれであった。

 半径十キロメートルほどの範囲で気候を狂わせ、天変地異を起こさせるのである。

 狂った気候は、雨とは無縁のこの土地に、まさに恵みの雨をもたらすのだ。

 しかし、いつ、誰につくられたのか、どのような原理で動いているのか解明されてすらいない、この装置は決して安全なものとは言えなかった。

 天変地異による雨は、時折その姿を豹変させる。適度と思われた恵みの雨が荒れ狂う事があるのだ。

 狂った『気候調節装置』は大雨を降らせ、洪水となる。雪やヒョウ、竜巻を起こし、町が半壊する事さえあった。

 いつ起こるか分からない災害と隣り合わせの町だが、それでも人々はこの場所に集う。

 一番の理由はこの町が砂漠の真中に位置する事に他ならない。

 ここは唯一水のある町。砂漠を旅する者のほとんどが水や食料を補給するために、訪れるのだ。

 そしてこの町には、旅人の殆どが立ち寄る場所が存在する。

 それは『ルージュの酒場』といった。

 その名の通り酒を楽しむために訪れる者、旅での自慢話をしに来る者、人恋しくなり、誰か話し相手はいないかと顔を出す者、その理由は様々だ。

 人は皆一時の安らぎを求めにやって来るのだ。

 そんな中、酒場の中央の席で一際大きな声を上げ、自慢話を始める男の姿があった。

 タンクトップにジーパンというシンプルな服装に、盛り上がった筋肉、人の倍はあろうかという巨体の男。

 この手の輩の自慢話は大体想像がつくというもので、案の定、男の話は自分の腕がいかに優れているかという話につきた。

 酒場の客達も初めは面白そうに聞いていたのだが、大蜥蜴に喰われそうになっただの、人喰いワニの群れに出くわし、逆に昼飯にしてやっただの、全て自分の体に刻まれた傷にまつわる話で、酒が入り調子に乗った男が一々その傷跡を見せて回るものだから、堪ったものではなかった。

 男にしてみれば自分がどれだけ修羅場を潜り、旅して来たのかを自慢したいだけのようなのだが、もはや、その姿は滑稽でしかない。

「がっはっはっはっは!見ろ、この顔の傷を!これはなあ、旅の途中に出くわした大蜘蛛とやりあった時の傷だ!なーに、一発くらっちゃいるが、返り討ちにしてやったのは言うまでもねえ!三、四メートルはあったでかぶつだ。俺ぐらいの腕っ節がなけりゃあ、誰でもおっちんでしまっていただろうよ!」

 次第に男の話が大きくなるにつれて、周りから野次が出始めるのは必然だったといえる。

 大蜥蜴やワニの話なら信じられるが、三メートルを超える蜘蛛など見たこともない。話を大げさにするのもいい加減にしろと。

「誰だ!今、俺の話にケチをつけやっがた奴は!嘘だと思う野郎は外へ出やがれ!指一本でしめてやるぜ!」

 気分を害した大男は当然、怒りをあらわにし、手にしていた酒瓶を床に叩きつけた。

 それを見た、気の荒い一部の者達が勢いよく席を立ちあがる。

 まさに一触即発。乱闘が始まろうかとしたその時だった。

 騒がしかった酒場の空気が、ざわめいたかと思うと、その姿を変え一瞬にして静まり返る。

 喧嘩を始めようとしていた男達も、見物にまわることを決め込んでいた者達も、まるで、その空間だけが、時間を止めてしまったかのように呆然と立ち尽くし、その視線は店の入り口に現れた、ある一人の青年に注がれた。


 誰もが、息を飲んだ。


 ある者は酒を膝に垂れこぼし、ある者は息をすることさえ忘れ、そして、ある者は恐れさえ抱いた。


 それ程までに青年の姿は美しく、この世の者とは思えぬ程の美貌の持ち主であった。


 瞳の色は漆黒。切れ長でまつ毛が長い。この瞳で人々を虜にした。艶やかな黒髪は、彼の腰のあたりまで伸びており、深緑の衣服は青年の優美さを一層引き立てた。

 美貌の青年は店の中へと足を踏み入れる。

 止まっていた時が動き出した。

 優雅な足取りで、女達の黄色い声にも耳を傾けず、まっすぐにカウンターの席へと向かう。

 青年は静かに腰を下ろし一言こう言った。

「酒をくれ」

 たった一言、それだけで店中の人間は頬を染める。青年は誰もが聞き惚れる美声の持ち主でもあった。

「酒だ。何でもいい、早くしろ」

 一向に酒を出そうとしない店主を咎め、青年は軽く睨みつける。その様子もまた美しく、店主は、ますます頬を染めた。

 しかし、彼の言っている事は理解していたようで、多少手元は怪しかったものの、棚から瑠璃色のグラスを取り出すと酒を注ぎ、青年の前に差し出した。

 青年は酒を受け取り、グラスに口をつける。

 こくりと喉をならすと何処からともなく、ほうと息を吐く声が聞こえた。

 そんな周りの様子を気にすることもなく、静かに酒を飲み干した青年はカウンターに金を置き、その場を後にしようと立ち上がった。

「あら、たった一杯で帰ってしまうの?」

「……?」

 青年にとって女の行動は不可解なものだった。傍にいた女がおもむろに、その白い腕をのばし青年の首元へと滑りこませ、酒を一杯で帰るなんてつれないではないかと、そう咎めるのだ。

「貴方なんて美しいの。こんなに綺麗な男、私、見るの初めてよ。ほら、店にいる客達の様子を見てごらんなさいよ。女に限らず全ての人が貴方に視線を奪われているわ。もう少しゆっくりしていってちょうだい?私とお話しましょう……ね?」

 女は青年の耳元へ顔を近づけ、そっと囁く。その様子を見た客達は皆、顔を赤らめた。

「私の名前はルージュというの。この店で働いているわ。当店初めてのお客様。あなたのお名前は?教えてちょうだい」

 目を細め妖艶な笑みを浮かべたルージュは、とても魅力的だった。

 年の頃は二十歳くらいだろうか。彼女は己がどのように振る舞い、そして、どのように声をかければ男を自分の虜にできるかを知っていた。

 真っ白な肌に、赤い唇。ダークブルーの美しい瞳に、背中に流れる柔らかな髪。豊かな胸、細い腰、そして、短めのスカートから伸びる長い脚。女性なら誰もがうらやむものを彼女は兼ね備えていた。

 名もない酒場が、いつしか『ルージュの酒場』と呼ばれるようになったのは、まさにその魅力を大いに発揮し、来る男共を自分に酔わせた結果だった。

 しかし、青年の反応はルージュの思惑と反するものだった。

「何故」

 何の動揺も見せないその声に彼女は少し驚いた。

 青年は、ただ無表情に自分を見下ろしている。

「酒を飲むのに、わざわざ名を名乗る必要があるのか」

 感情の見えない話し方だったが、周りの人間はもっとその声を聞きたいと願った。または、勘の良い者はその声に恐怖を覚えた。

 ルージュはその後者だったが、自分のアピールに何の動揺も見せないこの美貌の青年に驚くと同時に、ひどく腹を立てていた。男は自分の虜にならなければならない。とびきりの笑みを浮かべ、話しかけているこの私に、名を名乗らなければならないのに、何故この男は答えないのか。

 彼女のプライドが一瞬の恐怖に打ち勝ち、思わずその口から嘘がこぼれ落ちた。

「え、ええ、そうよ。ここへ初めて訪れた客は、まず名乗らなければならないのよ。私に顔と名前を覚えてもらわないと常連になる資格なんてないもの」

 もちろん常連になるのに名を名乗るという決まりなどない。しかも、青年は一言も常連になるとは言っていないではないか。まして、はじめて来た客に何を口走っているのだ。ルージュは自分の言葉に頬を赤らめ動揺した。

「……?」

「そ、そうよ、ここにいる人達もみんな例外ではないわっ、ね、そうでしょ、アーサー」

 ルージュは振り返り、ただ茫然と立ち尽くしたままの大男に同意を求めた。大蜘蛛の話をしていた、あの男だ。

 もっとも、その大男の方はルージュに声を掛けられているのが、自分だと気付いた風もなく『アーサー』だなんて、ありきたりな名前だなと、ただぼんやりと考えただけであった。

「さあ、名前を教えて。でないと次に来ても、お酒も食事も出してあげないわよ」

 果たして次があるのだろうか。自分で言っておきながら疑問を覚えるルージュだったが、青年は暫く考えると、自分の首に回った彼女の白い手を外し、『ラヴァ』と、そう一言答えたのだった。

「えっ」

 ルージュは驚いた。まさか素直に教えてくれるとは思ってもみなかった。きっと、無視される。そう思っていたのだ。

「……そう、ラヴァというの。良い、名前ね。あなたにぴったりな感じがするわ。…ねえ、席に座らないの?お酒、飲むでしょう?」

「……金は置いた」

 ラヴァはそう言うと彼女の誘いに耳を貸さず、歩き出す。

「ちょ、ちょっと待って」

 ルージュはカウンターに無造作に置かれた金を掴み、後を追う。

「待って、待ってってば」

 ラヴァは出口に向かい歩みを止めようとはしない。

 名を教えてくれたということは、話をする気になったのだと、そう思った。

 傷ついたプライドが回復するのを感じたのは彼女の間違いだった。本当に、たった一杯の酒を飲んだだけで、帰るつもりなのだ。この男は。

「ちょっと、待ちなさいよ。私は、貴方が気に入ったのよ。ねえ、聞いてるの?ほら、お釣りも忘れてるわよ?ねえ、ねえってば!返事ぐらいしてくれたっていいじゃない!」

 次第に声のボリュームを上げるルージュの姿を客達は目で追う。

「ねえ、ラヴァっ。貴方、何か用があってこの店に来たんじゃないの?それとも、本当にお酒を飲みに来ただけなの?」

 なんとか引き留める事ができないかと、苦し紛れに出た言葉だったが、ラヴァは一瞬歩みを止める。

 ここは、ただ酒を飲み食事をするだけの場所ではない。情報を収集する場でもあるという事を思い出し、ルージュは話しかけた。

「貴方、何か聞きに来たのではなくて?そうでしょう?」

「……」

「何か聞きたいことがあるんだったら、私、他の人達にも聞いてあげるわよ?だから、ちょっと待ちなさいよ」

「……タツミを知っているか」

「えっ……?」

 ラヴァは肩越しに振り返り問いかける。

 ルージュから答えが返って帰ってこない事を見てとると、辺りに視線をやるが、すぐさま

「知らないのなら……いい」

 と、そう言って店の外へと出て行ったのだった。

 ドアの軋む音がむなしく響く。

 彼が去った後の店は通常の雰囲気を取り戻し、酒を飲む人々で賑わっている。

 ルージュは無意識に自分の胸元に手を伸ばし、ラヴァが消えたドアをじっと見つめていた。

(タツミ……?人の名前よね?ふーん)

 その場に立ち尽くし、何故だか、すっきりしない、もやもやとした感情を彼女はもてあます。

 いつまでもここに立っていても仕方がない。仕事に戻ろうとし、ルージュは握りしめていた金の事を思い出した。

(え……っ)

 お釣りがまだだと言ったものの、実際幾らの金が置いてあったのか確認をしていなかったルージュは目を疑った。

 薄汚れていたので気付かなかった。酒の一杯どころか、百杯くらい飲んでもありあまるほどの価値のある金貨が数枚、その手の中に握りしめられていたのだった。

 いくらなんでも貰いすぎだ。追いかけなくては。

 そう思うと不思議と気分が晴れて行くのを感じた。

 ルージュは店を飛び出す。

 追いかけて、この金貨を返して、そして…。

(どうするの?)

 ルージュは自問するが、その答えは返って来る事はなかった。

 とにかく今は自分を無下にした、あの澄ました顔を見てみたい。震える程美しい、あの青年の姿をもう一度見てみたいのだと、そう思うだけだった。


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