逃...
……かったるい。
昨日飲み過ぎたせいか、頭がぐらぐらする。眠気も酷い。
「――だから、xは2だ」
岡野という50歳ぐらいの少し老けた数学教師の大きな声がやたらと頭に響く。
今は5時間目の数学の授業の最中。方べきだかについての内容だ。
昼飯を食った後のせいで腹が満たされ、眠気が増す時間帯。現にクラスを見渡してもかなり見渡しが良い。
俺自身の眠気には心当たりがあった。それは昨日の晩、友達を家に招き、吐くまで飲み明かしていたからだ。そのせいかまともに眠れず、かなりの眠気を残したまま学校に来ている。
最近の世の中は平和過ぎる。退屈な程に。
酒でも飲まなきゃやってられないというものだ。
「ふぁ……」
眠気のピークかついつい欠伸【あくび】が出てしまう。そこで解説の為にこちらを見ていた先生と目が合い、呼び止められる。
「姫岸【ひめぎし】、欠伸なんかして、そんなに退屈か?」
「そ……いえ、すみません」
肯定したかったが、先生の目が光っていた気がし、謝る事にした。言ったら言ったで俺が解答させられそうなので、余計な事は言わない。それが社会で生き抜く術だ。
「分かったんならノートを取れ」
「はーい」
適当に返事を返し、俺はほぼ真っ白なノートに向き合った。何故真っ白か。それは言うまでもなく、この数十分間、眠気という悪魔と奮闘していたからだ。せっかく向き合ったノートだが、何も書いていないのに今から図形やら式やら長ったるい物を書く気にもならず、パタンとそれを閉じる。
「ああ……もう、無……理……」
自然と瞼【まぶた】が落ちて来るのに耐え切れず、悪魔との勝負に俺は負けた。
瞳を閉じ、机に突っ伏す。
俺の意識が飛ぶか、飛ばないか、その最中、異変は起きた。
「な、何だ!?」
眠気をぶっ飛ばす程にけたたましく鳴り響く轟音である。工事現場などで火花を散らしながら電ノコで鉄を切断している時の、まさしくそんな様な音だ。
この学校ではそういう作業をするときは必ず二棟と決まっている。だが各教室が並ぶここは一棟。そんな作業をする場所は当然だがない。
ではこれは一体……。
「んだよ、うるせぇな……」
一つ後ろの席だった俺の友達、峰澤【みねさわ】嶺斗【りょうと】が騒音で目覚めたようだ。俺はその声に気付いて後ろを見ると、寝起きだからか、そのツンツンヘアをポリポリと掻いていた。
峰澤は高校に入ってからの友達で、当初は手が付けられない程の不良だった。そんな峰澤と俺が何故友達になれたかというと、今では不良の少ないこのクラスの雰囲気に馴染んで来たのか、彼自身もタバコや酒や喧嘩はするものの、雰囲気的には不良とは程遠い物になっていった。そんな流れに乗じて、何となく話をするようになったらいつの間にか友達と呼べる存在になったというわけだ。
取り敢えず俺は峰澤に適当に説明をする。
「いきなり騒音がなったんだよ。しかもすぐ隣位の場所で。気になるなら見に行ってみたらどうだ?」
「はあ? 何でだよ?
この階でんな事は出来ねぇだろ」
澤峰は眠りを妨げられたからか少し苛立ったような口調で喋る。そしていきなり立ち上がるとそのまま教室の後ろのドアへと歩いて行った。
「おい、峰澤、どこに行くんだ?」
岡野のデカイ声が峰澤を呼び止める。澤峰は面倒臭そうに「トイレ」とだけ言うと、ドアに手を掛け廊下に出ていってしまった。
さて、廊下に出た以上、近くで起こっているこの音の正体を見ることになるわけだが。
数秒後、案の定教室に戻ってきた。どうやらただ事では無いらしく、様子がおかしい。
「おい、変な奴らがBのドアをチェーンソーで斬ってるぞ!」
澤峰の大声にクラスがざわつき始め、中には廊下を覗き出す奴もいた。
「お前ら静かにしろ!
先生が見て来るから静かに待ってろ」
混乱している生徒たちに岡野が怒鳴ると、ドアへ殺到する生徒たちを押し退け廊下へ出て行った。その様子を見てクラスのざわつきは一層増す。各自雑談でも始めたのだろう。
「峰澤!」
俺は話を聞こうと名前を呼ぶが、峰澤に反応はない。何人かの生徒に話を迫られ、俺の声が届いていなかったようだ。
話を聞けないならば仕方ない。俺はポケットから携帯を取り出した。峰澤へのメール作成画面を開き、要点だけをまとめて送る。
「気付いてくれよ」
俺はさっさと携帯をしまい、鞄から必要な物だけを取り出しそそくさと教室を抜け出した。
「姫岸?」
後ろで開きっぱなしのドアから声が飛んでくる。振り向けばそこには授業中よく居眠りをしている華村【はなむら】美羽【みう】が突っ立っていた。特別美人という訳でもなく、髪型も余り特徴のないロングヘアーという至って普通の少女である。
どうやらこんな騒ぎの中、一人で教室を抜けた俺が気になるようだ。
「どこ行くの?」
「教室【ここ】から出る。峰澤の言った事が本当なら狙われるのはBだけじゃ無いはずだ」
それだけ言って俺は急ぎその場を後にする。峰澤が言ったのが嘘か本当か廊下に出れば分かる。現に俺が急いだのも、岡野がチェーンソー野郎と話しているのが見えたからだ。
日光の差す廊下を俺は止まる事なく走る。不思議な事に廊下では誰とも擦れ違わない。そのおかげでものの1分程度で3階から1階の生徒玄関前まで辿り着く事が出来た。
辿り着いて一息つく。
それにしても不思議だ。普段なら授業中にも関わらず先生達が廊下を徘徊しているというのに今回は何故か一人も見掛けない。チェーンソーの煩い音がなっていれば尚更だと思うが。
「姫岸!」
またしても後ろから声。
「なんだよ」
振り向くと華村がこちらへ走って来ている所だった。
クラスの雰囲気よろしく華村も酷く焦っていて、息切れすら起こしている。俺に急ぎの用でもあるのだろうか。
「何かあったのか?」
「岡野が、こ、殺された……」
「なっ……」
途切れ途切れに言う華村の目には涙が貯まっていて今にも零れそうだ。良く見てみると華村の制服には紺色の奥に紛れて血がベットリと付着している。
「お前、それ……」
「……」
華村は何も言わなかった。これは怪我ではなく、恐らくは岡野が殺された時に飛び散った血。華村がどこから岡野の様子を見ていたかは知らないが、それ程残虐なる光景だったのは今の華村が物語っている。
「怪我は……ない」
岡野が死んだって事は誰かしら警察にでも連絡しているだろう。だがそれよりもまずはここから出る事が優先だ。
肉体的な怪我がなくともメンタルが心配だ。華村の精神的強度がガラスかダイヤモンドかは知らないが、今は二つの意味で安全な場所に避難しなければならない。
「取り敢えず行くぞ。ここは危険だ」
俺は華村の手を取る。準備が出来ていないのか、教室へ戻りたいと言ったが今はそんな事で引き返すのは言語道断。靴も履き直さずに俺と華村は外へ飛び出した。
これから何が起こるかはまだ何も分からない。だが一つだけ分かる。――それはこの教員殺害が、これから始まる地獄への引き金だという事だ。