エンジェル2
そして少年に、運命が牙を剥く。そして少年は、運命を拳で殴る。
そして天使が神様を殴るに至った経過について。
ネロという少年が、パトラッシュという犬と添い寝する様な形で、アントウェルペン大聖堂に有るルーベンスの絵の前で横たわっている。「もう疲れたよ」と、有名な台詞を吐いた。直後、天使達が舞い降りて、ネロとパトラッシュを空に引っ張っていく。
「これなんて、中々良いんじゃないか?」
俺の上司、つまり、下界で創世の神と呼ばれている男が、煙草の煙を吐くついでの様に、そう言った。
「確かに、作品としては素晴らしいですね」
俺は煙草の煙を吐くついでに言う。下界からの苦情を処理している俺は、隣でアニメを見ている上司に、ほとほと嫌気が差していた。
「死の際に天使が舞い降りて、下界の人々に安寧をもたらす。良いじゃないか、下界でうけるんじゃないか?こういうの」
「そうですね」
「良し、じゃあやろうか」
上司、つまり神は、即決した。即決だけが能の上司(つまり、神)だ。しかも、即決して、後はまる投げという性質の悪さだ。「何をやるんですか?」と聞き返す間すらなかった。突然上機嫌に鼻歌を奏でながら、机の上の書類の束を弄り始めた。
俺達天使が、「お迎え」というか、見届けると言う仕事を始める事に成ったのは、とどのつまり、「フランダースの犬」という作品が有った所為だった。作品としてはかなり評価しているが、俺は、あの作品が嫌いだ。
「犬は、要りますかね」
「要らないだろ。お前らが、ちゃんと見届けてやれば良いんだよ」
「それで、何か変わりますか?」
「何も変わる筈無いだろうがよ。気休めだよ、気休め」
お前らなんて、気休めだから。そう言われたと同義に思えて、私はム、と眉をひそめる。少しだけ声も出てしまったかもしれない。だが、上司、つまり神は、まるで気にする様子も見せない。三日前に、「禁煙する」と言っていた筈なのに、煙草を吸っている。
そう言う訳で、俺達天使は仕事の忙しさに疲れている。毎日何万人と死に行く人々を、俺達天使は仕事の合間を縫って、見届けなければ成らないのだ。
いや、つまりだ。俺が言いたい事は、せめて苦情は程々にしてくれ、という事だ。頼むから。それから、喫煙所を増やしてくれ。少し前は、電車の中でだって煙草が吸えただろ?頼むよ。
「アイスコーヒーを頼む」
「またか」
いつもの喫茶店で、俺は涼やかな風を浴びながら煙草を吸っている。喫茶、無愛想で美人のマスターが一人できりもりしている、お気に入りの喫茶店だ。いや、実際には、マスターの弟も若干ながら店の手伝いをしているのだが、手伝っているのか、邪魔をしているのか判らない始末だ。
「今日は、随分静かだな」
俺は店内を見回しながら、言った。めずらしく、客は俺一人らしい。いつも奥の席で背を向けて座っている赤い髪の男すら居ない。
「大きなお世話だ」
マスターが、こちらを睨みながら言う。「どうせウチは、しけた喫茶店ですよ」と、自嘲も吐いた。
「俺の職場よりはしけていないさ」
マスターを慰めるつもりでそう言ったが、「お前、本当に働いてるのか?」と逆に心配された。
「失礼な。俺はこれでも、結構忙しいんだ。今も、―――」
と、その時、丁度厨房から出てきたマスターの弟、灰音と眼が合った。「残業中だ」俺は言う。
「残業してないじゃないか」
「色々複雑な職場なんだ」
俺がそう言った直後、厨房の奥から電話が鳴った。マスターが「はいはい」と言って店の奥に消えていく。後に残された俺は、アイスコーヒーを待ちながら、上司に対する悪口を心の中で何度も唱える。
灰音がこちらに近づいてきている事には、まったく気付かなかった。
「天使は図書館に居る」
「え?」
気が付くと、灰音が俺の前の席に座っていて、正面から俺を見据えていた。いや、見据えるなどという生易しい視線ではない。睨む、というか、射殺すというか、とにかく、敵意のこもった視線だった。たかだか十七歳の少年の眼の奥に、ゆらゆらと揺れる狂気が確かに見てとれた。
「注文ならもうしたぞ」
俺は出来るだけ平静を装った。
「いつもいつも、ただアイスコーヒーを飲みに来てる訳じゃないんだろ?」
灰音の意図が読めずに、俺はただ「まぁな」と答えた。「最近は煙草を吸える場所が少ないから」
「誤魔化すなよ。バレバレなんだっての」
灰音はそう言って、俺を指差した。
「アンタは人間じゃない。そうだろ?」
余りに唐突な一言に、俺は自分の耳を疑った。つまり、聞き違いではないかと思った訳だ。だが、俺がもう一度と確認する前に、灰音がもう一度「天使ってのは、煙草を吸っていいものなのかよ」とハッキリとした口調で言う。
「どうして」
どうして、判ったのだ?
「どうしても何も。羽が生えてんじゃねぇか。それなら、鳩か天使かどっちかだ。まぁ、鳩って事は無いだろ」
当然だろ。と言いたげな口調で、灰音がそう言った。嘘だろ、と俺は愕然とする。当然の話では有るが、俺達天使の羽は、普通の人間の眼には映らない様に出来ている。俺達が自分の意思で羽を見せなければ、だが。
極稀に、例外が有る。そういう話は研修の時に聞いてはいた。幻視、グリムサイト、どういう原理なのかは一切判らないが、こちらの正体を見抜く者が、たまに居るらしい。「宝籤を五回連続で当てるよりも、確率は低い」らしいが、居る事には、居る。
俺は、新人に戻った心地に成って、深呼吸をする。こういう時は、どう対処しろとマニュアルに書いてあった?マニュアル通りというのは気に入らないが、唐突の出来事に、俺は混乱している。なんと書いてあった?
「そうだ、俺は天使だよ」
開き直れ。マニュアルにそう書いてあった事を思い出して、俺は開き直った。そうとも、俺の所為ではない。俺の仕事振りに、ミスは無かった筈なのだ。煙草に火を点けて、ふんぞり返る。
「それで、天使様に何か用か?」
「俺はいつ死ぬんだ?」
そこまで察しているのか、と俺は驚きながら、一方で、これはこれで仕事が楽に成るかもしれない、と期待している。灰音からは、死を目前にした悲壮感も、疲れも見えない。どちらかと言うと、立ち向かう者の力強さが見えた。大人しく死んでくれるなら、話しが早い。
「明日だ」
俺は、端的に答える。「やり残した事が有るなら、急いだ方が良い」と、助言もした。人間はいつだって、やり残しを抱えたまま死んでいく。何故か、自分が死ぬとは信じていないからだ。そう考えると、灰音は非常に幸運な方だろう。
「明日の、いつだ?」
俺は果たして、どこまで答えていいものかと迷いながらも、結局は、
「一時二十七分と三十四秒。後、二十四時間も無いな」
サービスのつもりで答えた。一時二十七分と三十四秒。少年は、灰音は、死ぬ。俺に見送られながら、死ぬ。免れ様の無い現実だ。
流石に堪えたのか、灰音は俯き、奥歯を噛み締めていた。荒い呼吸の音が聞こえる。苦しそうに顔を歪めた。「一時二十七分と、三十四秒」呟き、それから顔を上げて俺を睨んだ。
こういう眼の人間が天使を見破るのか。と俺は感心する。爬虫類を連想させる鋭い眼は、グッと何かを耐えているかの様に揺れている。その奥でゆらゆらと揺れる炎から、正に狂人が発散させる、毒を持った熱を生み出している。初めて灰音と会った時から薄々は感じていたが、この少年は、どこかでボタンの掛け違いが有ったかの様に、この世界に馴染んでいない。壊れている。言ってしまえば、狂っている可能性が有る。
「確かかよ」
慈悲を乞う様な、哀れっぽい口調ではなく、むしろ喧嘩越しに、灰音は確認してきた。
「確かだ」
ゲームセットを告げる審判の冷酷さで、俺は言う。
「お前は、明日死ぬ。誰にも変えられない」
「じゃあ、よ」
と、灰音が顔を近づけてきた。もう少しで、キスさえ出来そうな距離だ。
「俺と勝負しようぜ」
「勝負?」
この期に及んで、何を言い出す?俺は首を傾げた。
「出来れば、アンタの力は借りたくなかったんだけどよ。もう時間もねぇし、仕方がねぇ」
その通り、お前にはもう時間が無い。俺は時計を見る、二時十一分と三秒。灰音の残り時間は、残り二十二時間十六分三十一秒。長い様で、短い。
「もし」
と、灰音は一間開け、それからこう言った。
「もし、俺が生き延びた、その時は」
そんな事は起こりえない。そう思いながらも、灰音の迫力に蹴落とされ、何も言えなかった。
―――奇跡を起こせ。俺の為に。
「馬鹿な」
「馬鹿って言われるんのは、慣れてんだよ。利かねぇっての。キン、灰音君は魔法を跳ね返した!」
「有り得ない。本気で言っているのか?」
「俺はいつだって本気だっての。アンタ、天使なんだろ?奇跡のプロフェッショナルだ、俺みたいなアマチュアとは訳が違う」
管轄外だ。そう言おうとも思ったが、考え直した。どの道、灰音の勝ちは無い。俺は運命が曲がらない事を知っている。それならばせめて、死に行く運命の少年に、ちょっとした希望を与えてやるのも悪くないのではないか?彼は、そこそこ同情に値しないか?そう思った訳だ。
「……良いだろう」
「お、中々話が判るじゃねぇか」
「もし、お前の言った通り、お前が生き延びたのならばなんだってやってやるさ。世界中から地雷を撤去してやっても良い、核を無くすのも悪くない。絶滅に瀕した動物だって救ってやる」
出来ない癖に、俺は言う。俺は灰音の負けを確信していた。運命は変わらない。奇跡も起こらない。
俺はそれを知っている。
マスターが帰ってきた後、灰音は直ぐに去っていった。カウンターに座って、漫画を読んでいる。俺は灰音をジっと観察した。
灰音の様子は、今まで以上に、今まで通りだった。時折奇声を発し、「ねえちゃんねえちゃん!」と姉を呼ぶ。テレビを見て、テレビの司会者に文句を言ったり、動物の名前を言い当てたりと、騒がしい。
ただ、時折、ぴた、と止まる。そして、時計に眼を向ける。刻一刻と過ぎていく時間を眺めて、呆然と動かない。まるで、自分が動かなければ、時も動かなくなる、とでも思っているかの様だった。チク、タク、と時計が鳴っている。
それから二十分は経過した辺りで、俺は漸く腰を上げた。マスターにお金を払って、店を出る。外の熱気が身体を不快に包む。
「おい、どこ行くんだよ」
灰音の声に、振り返る。ポケットに手を突っ込んだまま、傍若無人が服を着込んだ様な灰音が、そこに居た。
「俺の管轄はお前だけじゃない」
この世界には、膨大な数の生命が居る。それら一つ一つを、時間を掛けて見守る訳には行かない。俺達が無責任に感じるのは、詰まる所、そういう訳だ。明日死ぬのは、灰音だけじゃない。そう言う事でも有る。
灰音は判ったのか、判っていないのか、複雑な表情をした。俺は時計を見る。
「残り、二十一時間と五十一分と四十二秒」
嫌味のつもりではないが、俺はそう言った。「何度も言うが、やるべき事をやった方が良い」警告する。
「うるせぇな、判ってるって」
判っている。そう言って、人間はいつだって何も判っていない。「二十一時間も有れば、『ゾンビ』シリーズを通しで全部観ても、時間が余るじゃねぇか」と有意義なのか、無意味なのか判断が付かない時間の使い方を示唆する。
これ以上付き合う訳にも行かず、俺はさっさと歩き始めた。
「俺は勝つから」
最後に、灰音が俺の背中に挑戦状をぶつけるかの様な調子で、そう言った。
残念だが、お前は負けるのだ。俺は無視して先に進む。
犬の喉元を撫でながら、俺は灰音の事を考えている。灰音の望みはなんだ?何を考えている?考えれば考える程スッキリしない心持ちに成り、首を傾げる羽目に成る。
灰音の詳細なデータは、天国の管理部によってきちんと管理されている。生い立ち、幼少期、思春期、どんな音楽が好きか、どんな本を読むのか、ありとあらゆる情報を纏めた詳細なデータが、レポートとして纏められている。
恐らくは、灰音の目的も、そのレポートさえ読めば判る。ただ、「プライバシーの問題だから」と、管理部の連中は、それを出し渋る。それでもこちらが強気に出れば読めなくは無いのだが、そこまでやる必要が有るか?とは疑問に思う。要するに、億劫だった。
犬は、大人しかった。喉元を撫でると、眼を細め、「くぅん」と唸る。それから、急に座りだすと、右の前足を上げた。お手、だ。
「腹が減ってるのか?」
俺は犬に声を掛ける。犬が「わん」と吼えた。「わんと言われても、判らない」そう言いながらも、俺はポケットを探る。ポケットには煙草しかなかった。煙草は二十歳からだ、この犬が二十歳を超えているとは、思えない。
「見出し、それで行きましょう」
人の声が聞こえて、俺は咄嗟に姿を消した。大手百貨店の駐車場、二人の中年が会話をしている。俺は姿を消したまま、その二人にこっそりと近付いた。
一人は、メガネを掛けた腰の低い男だ。元々低い背が、猫背によってますます小さく見える。もう一人は、メガネの男に比べて、貫禄の様なものが備わっていた。背が高く、真っ直ぐと立っている。威厳の有る口ヒゲに、彫りの深い顔つき。メガネの男が、ヒゲの男に媚び諂っているのは明らかだった。
「馬鹿な息子だが、死んでから役に立った」
ふん。とヒゲの男が鼻を鳴らした。俺はこの男を知っている。つい最近、息子を殺された事が話題に成っている、警視庁総監だ。「息子の様な犠牲者を無くす為にも、私は正義を成し遂げる」、そう言った内容で大演説をして、一躍時の人と成っている。
いや、事実を話そう。正確には、この警視庁総監の殺されたと言う息子こそ、人殺しなのだ。中年を狙った狩がエスカレートして、とある人物を誤って殺害し。警視庁総監たるこの父親がその事件を揉み消した。そのとある人物が殺された事で怒り狂ったとある復讐者が、その馬鹿息子を殺害。大まかに言ってしまえば、そんな流れの事件だ。更に言うならば、その馬鹿息子を殺害した復讐者を見送ったのが、俺だ。
「良いか?」
と、ヒゲの男は言う。
「世界は何で出来上がっていると思う?」
馬鹿な質問だ。と俺は考える。メガネの男は、本当に判らないのか、それともヒゲの警視庁総監の機嫌を取る為に判らない振りをしたのか、「判りません」と答えた。
「イメージだよ。大衆の、イメージだ。幻想と言い換えても良い。それから、ムードだ。一人が騒げば、皆が騒ぐ」
それから、更に続ける。
「私は、息子を殺された正義の警視庁総監。強く、そして正しい」
言葉の響きが気に入ったのか、ヒゲの男はたっぷりと笑みをこぼした。
「私はまだまだ上に行ける。そうに違いないだろう?」
くだらない男だ。と俺は率直な感想を胸に抱く。不愉快な気分を抱えたまま、俺はそこを立ち去った。気が付いた時には、犬の姿はもうどこにも居なかった。
そして翌日。俺は灰音が死ぬ場所の下見に出ていた。交差点だ。またか、と俺はげんなりする。オリジナリティが無いと言うか、しつこいというか、とにかく、俺はゆくゆくこの交差点と縁が有るらしい。
七年前、俺はこの交差点で、灰音と同じ年頃の少女と、一匹の犬を見送っている。
そして遂最近も又、復讐に狂った一人の中年をこの交差点で見送っている。
そして、今日。俺は灰音の最期を、此処で見届ける。
「俺はどこで死ぬんだよ」
灰音が、落ち着かない素振りで、辺りを気にしている。目に見えないスナイパーに狙われているかの様な様子だった。
「それは答えられない」
「なんでだよ」
「それを答えたら、お前は絶対にその場所に近寄らないだろ?」
それは、困る。いや、実際には、教えた所で、灰音は絶対にあの交差点に向かう運命には有るのだが、それはそれで、面倒な仕事が追加されるだけだ。
「ふん。ハンデも、無しか。良いぜ、判ったよ」
言いながら、灰音の足は、一歩、一歩と、最期を迎える交差点に向かっていた。灰音がどこに向かっているのかは知らないが、結末は、近い。俺は時計を見る。残り三十二分四十二秒。
「どこに向かってるんだ?」
気に成って、俺は聞いた。運命に向かって一歩一歩と歩を進める灰音に、若干の同情も感じていた。灰音の答えは意外なものだった。
「別に。何も考えてねぇよ。足の向くまま、気の向くままに、だ」
「最期なのにそんな事で良いのか?」
「最期じゃねぇっての」
「やり残しは無いのか?」
念の押す様に、俺は聞く。
「満足して死ねるってのは、どういう奴だ?」
灰音は、質問を跳ね返して、逆に質問をしてきた。「いや」と俺は答える。「皆、やり残しだらけだ」人は満足する事を知らない。
それから、暫く無言で歩いた。灰音は、一歩一歩を噛み締めるかの様に、非常にゆっくりと歩いた。大勢の人間に、追い越される。誰もが、どこかに急いでいる。が、残り時間が少ない筈の灰音は、のんびりと歩く。
沈黙に耐えられなかった訳ではないが、俺は、「なぁ」と灰音に声を掛ける。
「天国の事は聞かなくて良いのか?」
「あん?」
「死を目前にした人間は、皆天国の事を気にしている」
死の間際に人間が気にする事といったら、天国の事以外に無い。「俺は天国に行けるのか?」と気にする人間も居れば、不思議な事に、自分の天国行きは確定だと思っている様な安らかな表情で、「天国は綺麗ですか?」と、自分の新居を確認するかの様に尋ねてくる事も有る。
「どうでも良いっての」
灰音は、唾を吐く様に言った。
「ほう」
虚勢なのか、それとも本音なのか、判断は付かなかったが。俺としても、どうでも良かった。「そうか」と感心する振りをする。
「俺は生きていたいだけだ」
それは残念だな。そう思わずにいられない。
「灰音ちゃん灰音ちゃん!」
一人の少女が近付いてきて、灰音にそう声を掛けた。見覚えが有る。灰音の友人の、妹だ。俺自身も、少し前に一度だけ直接話した事も有る。
「よお」
灰音は気さくに、手を上げた。
「キグーじゃねぇか。キグー。何してんだよ、こんな所で」
「別に何もー。しいて言うなら、気の向くままに、足の向くままに散歩中って所かなー」
「それも奇遇だ。俺もだよ」
灰音の様子は、これから死に至るという事を忘れてしまいそうになる程、自然なものだった。俺自身も疑問に思う。この少年が、本当に死ぬのか?
「お友達に成ったの?」
少女が、俺を見ながら言う。灰音が「まぁな」と苦笑した。
「もう、人生について語り合う仲だ」
それはあながち間違いではないが、お友達というのは間違っている。俺が発言の訂正を促す前に、灰音が「そんな事よりも」と手を打った。
「兄貴はちゃんと急かしたか?」
灰音の言葉に、少女は一瞬だけなんの事か判らないとでも言う様に、きょとんと目を丸くしたが、その直後に、「ああ、うん、うん」と首を縦に振った。見ていて眼が回る程、少女の表情はくるくると変わる。
「だけど、兄ちゃん、へたれだからね。告白に至るまでは、もう少し掛かると思うなー」
「なんの話だ?」
俺は、話についていけない居心地の悪さに耐え切れず、思わずそう聞いた。答えたのは灰音ではなく、少女だった。
「私のお兄ちゃんがね。灰音のお姉ちゃんの事が好きなの」
少女は楽しそうだ。俺は、「ああ」と首肯して、「それで、急かしているという訳だ」
「その通り」
灰音は偉そうだった。
「年の差は有るけど、二人がくっついたら、すげー面白いだろ。笑える」
楽しそうに笑う。「そうなったら、アイツは俺の兄貴にもなるんだ」とも言った。
「そうなったら、私達は兄妹?」
「それも面白いな。皆、家族だよ」
未来を語る灰音が、少し悲しかった。お前に未来は無い。それを指摘やりたくなった。
「だけどさ。そんなに急かしたら、旨く行くものも旨く行かないんじゃないかな」
少女は、まるで恋愛上級者の様な口調だった。灰音はその言葉に、一瞬だけ悲しそうに俯き、「いや」と答えた。
「いや。急ぐべき時は急いだ方が良い。なぜなら」
「なぜなら?」
「人生は、思ったより長くない可能性だって有る」
「キューピッドのつもりか?」
少女と別れた後、俺は聞いた。
「他人様の恋愛事情ってのは、どうしてこんなにおもしれぇんだろうな」
灰音が、悪戯っぽく笑った。
「お前は、人を好きに成った事は有るか?」
灰音の性格なら、「ねぇよ」と口を尖らせると思ったが、意外にも、間髪入れずに「ああ」と答えた。「死んじまったけど」
「何?」
「犬を助ける為に道路に飛んで、死んじまった」
淡々とした口調だった。「しかも、犬と一緒に」と軽快に追加する。
その言葉に、俺は七年前の光景を思い出す。俺が七年前に見送った少女は、犬を守る為に道路に飛んで、死んだ。犬と一緒に。
「こんな俺にも、可愛い少年時代が有ったんだ。少年時代の、片思いだよ。少年時代の片思いで、この結末だ。びっくりしたっての」
灰音は、あくまで笑っていた。
「びっくりしすぎて、あの人に成りたいって思ったくらいだ。俺の人生、半分以上あの人の真似事だよ」
俺はなんと答えたら良いのか判らず、ただ、「そうか」と間抜けな相槌を打っている。
そして俺達は交差点に辿り着いた。俺が誘導するまでも無く、灰音は自らの足でこの交差点に辿り着いた。歩行者の信号が青に成り、大勢の人間が歩き、擦れ違う。皆、それぞれの進むべき方向を見ている。
「不思議なもんだよな」
灰音が交差点を見ながら、そうポツリと呟いた。
「こんだけ大勢の人間が擦れ違ってるのに、誰も気付いてない」
「何をだ?」
「擦れ違っている事に」
そこで俺は邪推を立てた。つまり、灰音は気付いて欲しいのでは?そう考えた訳だ。擦れ違う全員に自分の事をアピールして、自分が生きている事を確認したいのかもしれない。灰音の騒がしさの理由は、そこに有るのでは?
ただ、そこで、交差点の中央でちょっとした出来事が起こった。交差点の真ん中で、老人が転倒して、杖が滑る様に飛んでいった。すかさず、一人の女性が老人に手を伸ばし、立たせる。何事かを話した後、女性は杖をとって、今度は老人の手をとって、交差点を渡った。灰音が黙ってそれを見守っている。特別な意図や算段が有った訳ではないのだが、俺は、
「気付く人も居る」
そう言った。
「みてぇだな」
と、灰音が頭を掻いている。
「さて」
と、俺は時計を見た。残り、二分。「そろそろ時間だ」
ふん、と灰音は鼻を鳴らした。
「俺は死なねぇよ」
「お前は死ぬんだ」
挑発のつもりではなく、ただ事実を告げる為に、そう言った。
「勝負はこれからだろうが。ルールは覚えてるか?確認するぜ、俺が生き延びたら、アンタは俺の為に奇跡を起こすんだ」
「残念だが、お前の負けはもう決まっている」
それが運命だ。「ただ」と俺は続ける。「もし、万が一。いや、万が一も無いが、とにかく、お前が生き延びたのなら、奇跡を起こしてやる」
「約束は守れよ」
勝負だ。灰音が、力強く、正面から俺を見据えた。立ちふさがるかの様な剣幕が有る。
「で、これからどうするんだよ」
「何がだ?」
「どうやって俺を殺すんだ?やれるもんならやってみろっての」
「殺す訳じゃない。お前が死ぬだけだ」
「俺にとっちゃ、どっちだって同じなんだよ」
物分りの悪い生徒を諭すかの様な調子だった。むしろ、物分りの悪い生徒と対峙している気分なのは、俺の方なのだが。
「車でも突っ込んでくるのか?」
と、灰音は辺りを見回す。辺りに背の高いビルは有るが、見渡しは良い。「悪いけど、どこから突っ込んできても避けれるっつーの」と歯を見せた。「楽勝」
それから、「あ」と声を上げた。
「判ったぜ。あの交差点で、誰か轢かれそうに成るんだ。で、俺が飛び込む。そういう運命なんだろ。結構ありそうだろ、そういうの」
灰音は指を立てた。俺は何も言わない。
「だけど、残念だったな。俺はいかねぇよ」
「そうか?」
「例えよぼよぼの爺さんが轢かれそうに成っても、ボールを追って飛び出したガキが居ても、俺はいかねぇ。死んだ筈のジョン・レノンが居たって、俺はここを動かねぇ」
「冷たいんだな」
「そうさ。誰が死のうが、俺にゃ関係ねぇ」
諦観する様な表情で、交差点を見ている。
「あの時も俺は行かなかった」
「七年前か?」
俺は、言う。俺が七年前の事故の事を知っていても、灰音は驚かなかった。
「俺はここで、間抜け面で見送ってたよ」
「お前は、それが悔しいんだ」
残り一分を切っていた。三十七秒。時間は、止まらない。
「お前は助けずにいられない」
そして俺は、交差点の向かいにいる、一匹の犬に目を向ける。「お前も飛ぶよ」
灰音も犬を見つけた。そしてその瞬間、ふと、顔から血の気が引いた。察したのだろう。あの犬は、道路に飛び出す、と。それから、掴みかかるかの様な勢いで俺を睨んだ。
「て……めぇ」
「言い残す事は有るか?」
二十四秒。
「お前は、即死だ。残念ながら、お前が走った後に、もう話す時間は無いんだ。言いたい事が有るなら、今言え」
「ふざけんな」
「しかと聞き遂げた」
「っざけんじゃねぇぞてめぇ!」
灰音が叫ぶ。犬は、律儀に信号を守っていた。だが、人間は知っていても、犬は知らない事が有る。歩行者信号が青に成っても、止まらない車が有るという事だ。
「俺が行くと思ってんのか!ばっかじゃねぇの!たかが……」
言いながら、灰音はちらちらと犬を見ている。
「犬、じゃねぇか」
消え入りそうな声だった。七秒。灰音は息を吐いた。そして俺から眼を逸らし、犬を見据える。呼吸が荒い、と思った次の瞬間、不意に、呼吸が整った。スタートラインに立つランナーの表情で、灰音はもう一度、「ふざけんなよ」と呟く。
そして、走った。「勝負だ」という消え入りそうな声を残して、走った。歩行者信号が青に成って、犬が歩き始める。真っ黒の、趣味の悪い高級外車が突っ込んできている。
灰音は、死ぬ。犬も、死ぬ。俺の管轄は灰音だけではない。そういう事だ。灰音は後一歩届かずに死ぬのだが、その事を教えるのは残酷かと思い、一応黙っておいた。
俺は灰音の後ろ姿を見送って、「じゃあな」と呟いた後、後ろを向く。仕事は終わった、後は帰って、報告をするだけだ。
後ろから、ゴン、と、やや地味で、それゆえに現実的な衝突音が聞こえた。
「―――わん!」
犬の咆哮に、俺は立ち止まった。「わん!」もう一度、聞こえる。それから波が叙々に荒れていくかの様に、四方八方からざわめきが聞こえた。「わん!」犬は何度も吼える。
俺が振り返ると、灰音を轢いた車が一度止まり、それから狂った様なエンジン音を轟かせて、逃げ去る場面だった。ウインドウから、運転手の顔が見える。あの、例の、警視庁総監だ。既に威厳も失い、青褪めた顔で慌ててアクセルを踏んでいる。彼は上に上がる所か、これで終わりだ。俺は直ぐに興味を失い、事故現場に眼を向ける。
「そんな、馬鹿な」
犬が、生きている。それも、ここから見た限り、無傷に見えた。俺は時計を見る。既に、灰音と犬が死ぬ筈の時間から、十秒が経過していた。「ありえない」運命に、一分、一秒たりとも、ズレが生じる訳が無い。「わん!」ただ、主張するかの様に吼える犬は、間違い無く現実だった。
誰一人、灰音に近付くものは居なかった。皆、遠巻きに流れているだけだ。死が風邪の様にうつる可能性を考慮しているのかもしれない。
灰音が、力無く横たわっているのが見えた。全身を真っ赤に染め上げ、アスファルトに血の海を作っている。そこで俺はもう一つ、信じ難いものを見た。ほんの一瞬、まるで寝返りを打つ様に弱弱しくだが、灰音が一瞬だけ動いたのだ。
俺は姿を消して、灰音と犬に近付く。
灰音は、生きていた。かろうじて、というか、今にも死にそうではあるが、生きていると言えば確かに生きている。ひゅー、と力無い空気が、歯の間から漏れている。顔を濡らした真っ赤な血を、犬が舐め取った。
「お前……お前……」
俺は唖然と、それを眺めている。今の俺は、相当間抜け面に違いない。若干では有るが、本当に運命が変わったというのか?
周りを囲んでいる人間の内の一人が、携帯電話に耳を当てている。「救急車」と言っているのが聞こえた。だが、今の灰音の様子を見るに、救急車を飛ばして葬儀屋を呼んだ方が良さそうなものだった。
「灰音」
俺は、言う。
「聞こえるか?」
灰音の虚ろな眼が、痛々しかった。もはや普段の、騒がしい灰音の面影は全く見えない。もしかすると、自分が何故倒れているのか判っていないのかもしれない。俺はもう一度言う、 「聞こえるか?」
「……え、る」
そう聞こえた。ただ、そこで、俺は灰音になんと声を掛けて良いのか、判らなくなった。この場合、どっちの勝ちだ?そうとでも聞くつもりだったのだろうか、馬鹿馬鹿しい。引き分けか?とでも?
「い……」
灰音が何を言おうとしているのかは、直ぐに判った。俺は犬を抱き上げ、灰音に見せる。
「無事だ。犬は、無事だ」
だが、お前は無事ではない。
「お、お……れ、犬……」
「犬は、ここで死ぬ筈だった」
俺の言葉に灰音はなんの反応も示さない。慰めるつもりで、俺は言う。
「お前は、確かに運命を変えた」
誰も気付く筈が無いが、これは確かな奇跡だ。だが、灰音は、奇跡を成した達成感も見せない。もう、考える力も残っていないのは明らかだった。死ぬ。俺がそう思った瞬間、最期の力を振り絞ったのか、灰音が少しだけ顔を上げて、自分を囲う人垣を見た。
「灰音……」
灰音の眼は、冷たかった。いつもの、射殺す様な鋭い眼で、人垣を睨む。そして、呪いを吐いた。
どいつもこいつも幸せに成っちまえ。
確かに、そう言った。
「脳腫瘍だと?」
それから、俺は天国に戻り、管理部に乗り込むと、灰音のレポートをもぎ取る様に奪って眼を通した。そこで、その言葉を見つけた。脳腫瘍。
「これはどういう事だ?」
管理部の天使に、凄む。
「どういう事も何も、脳腫瘍は脳腫瘍です。脳腫瘍を知らないんですか?」
「知ってる。だが、これはどういう事だ。灰音は、脳腫瘍だったのか?」
「良く有る事でしょう」
俺は、掴みかかりそうに成るのを必死で堪えた。代わりに、もう一度脳腫瘍という文字に眼を向ける。
俺は生きていたいだけだ。
灰音の言葉が、突如として頭の中に響いた。つまり、灰音は、死の運命から逃れる為に、奇跡を求めていたのだ。あの言葉が、答えだったのだ。
「つまり、これは」
「何を調べてるんですか?」
「灰音は、元から長くなかった、そういう事か」
俺が言うと、管理部の天使は俺の持っているレポートに眼を通した。それから、「ええ、ええ」と首を振る。「そうみたいですね。少し前に、医者から宣告されています」機械の様に無感動な口調だった。「健気にも、誰にも話してないみたいですねぇ」
俺は愕然として、膝が折れそうになった。
「放っておいても、死んだ訳だ」
「そうですね。そうなりますね」
「なら、どうしてわざわざ、早める必要が有った?」
まるで、天国が総出で、灰音を殺したがっているかの様な勢いだ。俺はそう感じた。
管理部の天使は、きょとんと目を丸くした後、「運命ですから」と物分りの良い台詞を吐いた。
「放っておいても、死んだ。どうしてわざわざ車に轢かせる」
それが運命か?ふざけるな。管理部の天使は、レポートに目を向けたまま、
「犬と一緒に、ですかぁ。まるで、フランダースの犬ですね」
とつまらない台詞を吐いた。いや、犬は生きている。
「何をそんなに、必死に成っているんですか?」
不意に、管理部の天使の眼が鋭くなった。こちらの様子を妙だと感じたのか、疑っている様子だ。
「今日、彼と、犬は死んだんですよね」
管理部の天使は言う。
「もしかして、何か問題でも起こりましたか?」
問題だらけで、予想外だらけだ。そう思いながらも俺は、灰音の手によって、運命を逃れた犬の姿を思い浮かべる。黒い毛並みの、颯爽とした、犬だ。「いや」と答える。「いや、問題は、無かった」
翌日、俺は犬と再会した。喫茶の前だ。犬は、《ライブラリ》の裏口に向かう途中だったのか、細い裏路地に入る所だった。
「おい」
俺は、犬に声を掛ける。犬が振り返って、それから尻尾を振りながら、こちらに走り寄ってきた。
「灰音はもう居ないぞ」
「くぅん?」
犬は理解しているのか、理解していないのか、首を傾げた。
俺は犬の頭を撫で、《ライブラリ》を見る。当然では有るが、休業していた。
いつの日か、マスターや彼の友人達は、彼の死を乗り越えるだろうか。《ライブラリ》は営業を再開するのだろうか。俺には判らない。管轄外だ。
「やってないのか」
不意に、声が聞こえて、俺は振り返る。振り返った視界に、赤い髪の男が立っていた。声を交わした事は無いが、《ライブラリ》で何回も見かけた顔だ。男は、短い煙草を口に咥えて、アスファルトにポイと捨てる。
「その様だ」
俺は答えてから、ポイ捨てにされた煙草を見る。
「ポイ捨ては良くない」
それは、天使としては合格点が貰える様な台詞だった筈だが、赤い髪の男は怯む様子を見せなかった。
「小さな事からコツコツと、そういう言葉が有るだろう?」
何を言い出すのだ、と俺は首を傾げる。
「煙草のポイ捨ては、世界にとって、害だ」
「害、と言うほどのものなのかは知らないが……」
「俺が煙草を捨てるのは、つまりそういう事だよ」
「何?」
「俺は世界を終わらせたいんだ。だから、煙草を捨て続ける」
変わった人間というのは、思いの外居るものだ、そう思いながら、俺は男を見る。赤い髪が風に揺れている。「あの」と男は口を開いた。
「あの、マスターの弟」
「ああ」
「死んだらしいな」
「そうだな」
お前が殺したのだろう。そう言い出すのかと、俺は気が気でなかった。実際、俺が殺した様なものだ。
「マスターは、大丈夫だろうか」
人は時折頑丈で、時折脆い。生まれて初めての罪悪感に、俺は戸惑いながら、そう呟いた。
「どうしてお前がそんな事を気にするんだ?」と言いたげな怪訝の視線で、男は俺を見る。ただ、俺が黙ったままでいると、男は、
「大丈夫だろうよ」
と、根拠も無い癖にそう言った。
そして赤い髪の男が去り、俺は犬を撫でている。神の掌から逃れた、犬だ。この犬はこれから、きっと、何者よりも自由なのだろう。
いつまでもここに居てもしょうがない。その事に気付き、俺は歩き出す。
「わん!」
と犬が吼えた。俺は振り返る。犬は、真っ直ぐとこちらを見据えていた。これは、俺の妄想なのだが、その仕草は、「どこに行くんだ?」とこちらに向かって問うている様に見えた。
「これからちょっと」
言いながら、俺は空を見た。改めてその広さに驚き、眼を細める。
「神様を殴りに行ってくる」
俺に出来る奇跡といえば、これくらいものだ。聞かれてもいないのに俺はそう答え、広い空に向けて足を一歩踏み出した。「神様を殴る」もう一度呟くと、胸の奥が痒くなった、成る程、これは中々愉快だ、と笑う。
<ライブラリシリーズ>完結でございます。最期まで眼を通してくださった方々、それから評価、応援してくださった方に感謝を。
どなたでもお気軽に感想、評価など頂けたら幸いです。