マーダラー
「疲れているな」
マスターが、私にそう声を掛けてきた。こちらを心配そうに覗き込んでいるが、吊り上った眼は、「お前のやった事などお見通しだ」と言っている様にも見えて、怖くなる。被害妄想だ、と考えながら、私はオレンジジュースの残りに口を付けた。
この喫茶店に、どうやって辿り着いたのかさえ、判らない。三日前から、私は殆ど夢遊病者の様な有様で、自分が呼吸をしている事すら疑っている。気が付けば、ここに居た。喫茶。二年くらい前から、贔屓にしている喫茶店だ。
「そう見えますか?」
私の声は、消え入りそうだったに違いない。
実際、今の自分の状況を、「疲れている」と表現していいものか、自分自身でも全く判らない。疲れているといえば疲れている。が、もっと深刻な、病の様な状況だ。
私は、人を殺した。それも、赤黒く、冷徹で、確かな殺意を持って。
人殺し。少なくとも一ヶ月前までの私には、無縁の言葉だった筈だ。遠い世界の出来事の様な、人々に刺激を与える為に、季節外れながらやってくるサンタの様な、有り得ない絵空事の筈だった。その私が、人を殺した。信じがたい事実だが、現実だった。世界中の空間という空間が、自分に圧し掛かって来る様な重圧を感じる。
罪悪感だ。間違い無い。罪悪感が、頭の中で鐘を鳴らしている。この三日間、頭が痛くて溜まらない。耐え切れない。
くそ、と私は心の底で、悪態を吐く。私は、悪か?いや、決してそうではない。死んで当然の人間を殺したまでだ、何が悪い。そう考えながらも、人を殺した私もまた、死ぬべき人間の一人ではないのか?という自分の声がする。
「今は、仕事が忙しい時期か?」
マスターがそう言った。羨ましい、と言いたげな口調だった。それから、
「この店を見ろ。いつも閑古鳥が鳴いている。暇すぎて、私も眩暈がするよ」
何か勘違いしているらしいが、「人を殺したんです」と自白する訳にも行かず、「人間は暇でも、忙しくても、眩暈がするものですね」と、曖昧な言葉を返す。「人を殺した後も」と付け加えそうになる。
「そうだな」
カラカラと笑うマスターが、羨ましくて堪らなかった。
「まぁ、たまには仕事を忘れて、ゆっくりしていけ。お前さんがここでゆっくりすればするほど、私の眩暈は治まっていく。お前さんの疲れも取れる。一石二鳥というのは、こういう時に使う言葉なんだな」
マスターはそう言うが、私は仕事の事など、とうに忘れている。そんな場合ではない。
そして、次の瞬間、来客を告げるベルの音が鳴った。カランカラン、と扉が開き、思わず私も来客を確かめてしまう。
入ってきたのは、見慣れた男だった。彼もまた、この店の常連だ。ただ、別に私の知り合いと言う訳でもない。私は直ぐにそっぽを向いた。
「いらっしゃい。って、またお前か」
マスターが、客に対して、げんなりした口調でそう言った。
「アンタは、どんな表情をしても美人だ」
気取った言い回しだ、と私は感じる。
マスターが去った後、急に手持ち無沙汰になり、新聞に手を伸ばした。私の起こした殺人事件の事が書いてあるに違いない。自分自身の罪を、文章で読んで、他人事に置き換えたい、そう思った。ただ、その新聞の見出しの部分には、可愛さが売りの、若い女性アイドルの破局がでかでかと載っていて、目を疑う。私の罪は、端に追いやられていた。
私の人生を変えた、あの出来事が、アイドルの破局に負けたのか?愕然として、遅れて腹が立った。私が今、どれだけ苦しんでいると思っている?笑顔のアイドルが、憎かった。ふざけるな、と怒鳴りつけたいのを必死に堪える。何が破局だ、何が、悲惨な愛の結末だ。
それがキッカケと成ったのか判らないが、突然、目の前が歪んだ。眩暈だ。それも、過去感じた事の無いほどの凶暴さを持っている。私を飲み込もうとしている。
私の罪が、牙を剥いて、私を襲ってくる。
「お金チョーダイ!」
わざとなのか、妙に間延びした声だった。それから、両手を合わせて、ぺろりと舌を出す。その仕草に、私と妻は、言い様の無い恐怖を覚える。私と妻の周りには、目の前で舌を出す男とは別に、格闘家の様な体格の、若者達が居る。
中年を狙った、狩だ。一人の時を狙うものだと思っていたが、そうでもないらしい。いや、この場合、一人の相手を狙うよりも、更に悪質に思えた。私は、妻と一緒なのだ。
「くれないなら、まずは奥さんをやっちゃうかも」
目の前の、恐らくはリーダー格であろう若者が、そう言った。他の連中に比べると、一回りも二回りも小柄だが、その分、ナイフの様に尖った狂気を発散している。実際、ナイフも出していた。他の若者は、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている。
単純に、腹が立った。若造の言いなりに成るのは、ごめんだった。それから、実際にナイフを持っているとしても、まさか本気で刺すまい、とさえ考えていた。甘かった、と今は思う。
「ふざけるな!」
私は怒鳴りつけた。私は、会社でも、怒鳴り声の威圧感では、一位、二位を争っている。という自負が有った。若い社員には、恐ろしい上司、と認められている。同じ要領だ、と思った。私の怒鳴り声で、若者達は退散してくれる。そんな、馬鹿げた妄想だった。最大の失敗だった。
暴力が始まった。若者達は、宣言通り、妻を狙った。私は羽交い絞めにされて、絶叫を上げながら、妻の悲鳴を聞いている。
映画で見るよりも、実際の暴力というものは生々しく、凶暴だった。信じられない光景に、私は気が狂いそうになる。若者達は、奇妙な嬌声を上げながら、妻を殴り、踏みつけ、蹴っている。
やめてくれ!事細かに覚えている訳ではないが、哀れっぽく、私はそう叫んだに違いない。払う!払うから!とも言ったかもしれない。
そして次の瞬間、耳に残る、グシャ、という生々しい音が聞こえて、急に辺りが静かになった。妻の悲鳴が途切れ、若者達の嬌声も消え失せた。
「ちょ、ちょ……おい、ふざけんなよ」
「嘘だろ、おい」
「殺してどうすんだよ!」
「し、死んでねぇって!」
若者達の顔が急に青褪めたのが、印象的だった。その後の事は良く覚えていない。気を失ったのかもしれない。気が付くと、私は妻の亡骸に泣きついていた。
本当に信じ難い事が起こったのは、更にこの後だった。
私が、必死に懇願したにも関わらず、妻が死んだあの忌まわしい事件は、容疑者不明という、なんとも理解し難い結果に終わったのだ。
「私はあいつ等の顔を覚えている!」
一人一人の顔を、鮮明に思い出す事が出来た。とりわけ、リーダー格の若者の顔など、夢にまで出てくる始末だ。ぺろりと舌を出した、あの忌々しい顔を、私は夢の中で何度も殺している。
「いえ、ですから、あの少年達は、無実な訳でして」
気の弱そうな刑事が、そう言った。
「彼らは、あの時間、アルバイトに励んでまして」
「そんな馬鹿な事が有るか!」
あの、リーダー格の若者の父親が、警視庁総監という事実を知ったのはその三日後だった。偶然ではない。私が、自らの執念で辿り着いた答えだ。いかにも胡散臭い探偵に大金を積み、無い頭を振り絞って、自らの足をフルに活用して、その答えに辿り着いた。
まさか、と私は思う。もみ消されたのか?そんな事が、現実に起こりえるのか?
罪には例外無く、罰が与えられるものではないのか?
殺すしかない。そう思った。自分の為や、妻の為だけではない。これはもはや、世界の為に、だ。やはり、私はこの時既に、狂っていたのかもしれない。世界中でテロが起こっているのは、あの若者の所為に違いない。戦争が終わらないのは、あの若者の所為に違いない。
世界が終わりに向かっているのは、あの若者の所為に違いない。
私は、夜、あの若者の家に侵入して、趣味の悪い灰皿をあの若者の頭に打ちつけた。達成感も、開放感も訪れなかった。直ぐに、恐怖が自分の身体を蝕んでくる
元来なら、若者を殺した後、父親の帰りを待って、父親も殺す予定だった。息子の亡骸を見せて、映画の様な決め台詞を吐いて、怯え、慌てふためく父親に、同じ灰皿を打ち付けてやるつもりだった。
だが、実際には、私は直ぐに逃げ出した。灰皿を打ちつけた、余りに生々しい感触に怯えて、走り去ってしまった。覚悟はしていた。その筈なのに。
突然、眩暈が消えた。目の前には、《ライブラリ》の壁と、とっくに空になっているオレンジジュースが有る。慌てて時計を見ると、二分程しか経っていなかった。ただ、その空白の二分間で、客の殆どが居なくなっていた。
奥の席に、赤い髪の若者が居る。それから、後ろを振り向けば、アイスコーヒーを飲んでいる、先程来たばかりの客が居る。他にも、数人。満席には程遠い。
その、アイスコーヒーを飲んでいる男と、眼が合った。不覚にも、背筋が寒くなる程、その眼光は鋭かった。「お前のやった事はお見通しだ」そう言っている様に見える。慌てて眼を逸らして、再び俯く。
程なく、後ろから携帯の着信音が聞こえた。どうやら、例のアイスコーヒーの男の携帯電話から鳴っているようだ。「もしもし」とアイスコーヒーの男の声が聞こえる。
「仕事?やってますって」
アイスコーヒーを飲んでいるだけじゃないか、と叱り付けたくなる。不良社員に違いない。
「え?戻れって、どういう……はぁ、判りました」
男は電話を切って、「まだ来たばかりなのに」と愚痴をこぼした。
「マスター、悪い。お勘定だ」
男はそう言い残して、そそくさと去っていった。再びドアを開けて、熱気溢れる外の世界に飛び出していく。
そして、入れ替わる様に、若い男女が入ってきた。こちらは、余り見た顔ではない。
私は、興味無く、俯いたままだ。ただ、マスターと親しげに話しているのを鑑みると、どうやら彼らも常連らしい。
サンタがどうのこうのと言っているが、興味が無かった。それ所ではない。サンタが何だと言うのだ、私は、人を殺したのだぞ。
罪悪感が、再び唸りを上げる。身体中が、軋んでいる様に痛かった。執拗で、狡猾だ。まるで私のひび割れている部分を知っていて、そこを集中して叩いてるかの様だった。
限界だ。と私は思った。これ以上は耐えられない。爆発する。危険だ。掌に爪が食い込む程固く、拳を握る。凶暴な自分が、直ぐ後ろに迫ってきている。彼は、誰彼構わず暴を振るうだろう。そうに決まっている。
私は人生から零れ落ちたのだ。私の世界は壊れた。私も壊れなければ、耐えられない。
いやだ!そう叫ぶ自分と、どうにでもなれ、と脱力している自分が居る。
そして、事が起こったのは、次の瞬間だった。
先程入ってきた若い男女の内の男が、突然立ち上がって「あ!」と叫んだ。
私は思わず呆気に取られ、振り向く。若い、とは思っていたが、良く見ると、まだ少年と呼んでもおかしくない程の年齢だった。十六、十七程度だろうか。連れの少女は、それよりも更に若い。中学生程度だ。
私は、少年を見る。少年の視線の先には、マスターが居た。そういえば、私はマスターの名前を知らないな、と今更気づく。
「アイスティーを、もう一杯」
そう言って、少年は自嘲気味に笑いながら座った。
ただ、私には判った。直感、いや、妄想なのかもしれないが。少年が愛を伝えようと、一瞬だけ立ち上がったに違いない。そう思った。
次の瞬間、理由も無く、穏やかな波に成っている自分の心に気付いている。こんなにも些細なキッカケで、私は救われていた。
カエルが鳴いたからから家路に着く様に、私は、少年が立ち上がったから自首しよう、と決めていた。正確には、子供が拗ねているかの様に、もう止めだ、馬鹿馬鹿しい、と考えていた。我ながら信じがたいが、事実そうなのだから、仕方ない。
自首。それが唯一の、打開策に思えた。罪には例外無く、罰が下るべきだ。そうだろう。全てをやり直して、また零から始めよう。
私は不意に訪れた安寧に、軽やかな一歩を踏み出している。
外の熱気にさらされながら、私は警察署に向かっている。その途中、不思議なものを目撃してしまった。
サンタが、警察に捕まっている。
立ち止まって、暫くその光景を唖然と見ていた。遠目からだったので、詳細は良く判らないし、捕まっているサンタが何者なのかも判らなかったが、とにかく、捕まっているサンタが突然大声で叫んだのは、聞いた。
「ふざけんな!サンタを捕まえる国なんて聞いた事ねぇぞ!」
大勢の人間が、サンタと警察の乱痴気騒ぎを見守っていた。一体、どっちを応援すれば良いのだろう。と皆困惑している。
「いや!君、サンタじゃないでしょうに!」
「どこに眼ぇ付けてんだ!良く見ろ、今の俺が、サンタ以外の何者に見えるんだ!―――ああくそ!袋も担ぐべきだったのかよ!」
「とにかく!話は署で聞くから!」
一体、なんの冗談なのだ、これは。私は困惑しながらも、笑っていた。
もしや、と私は思う。もしやこの茶番は、自分に送られたものではないか?これから長い時間を塀の中で過ごす予定の私に送られた、神様からの最後のジョークではないか?
捕まったサンタには悪いが、酷く愉快だった。
「ハ、ハハ。アハハハハ!」
突然笑い出した私を見て、隣に居た女性がビクっと肩を震わせて、それから奇妙なものを見る時の視線を私に送ったが、何も気に成らなかった。腹が痛くなる程、笑った。不快な痛みではない。むしろ、その心地良さに、涙した。
そして、私は失念していた。
人生は、二転三転するものだと。
涙を拭った私の眼に、あの男が飛び込んできた。サンタと警察を取り囲む人垣の中、まるで汚いものでも見るような視線をサンタに送っている。
見間違いでも、人違いでもない。正真正銘、あの、私が殺した若者の、父親だった。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
男は、颯爽としていた。息子が殺されたにも関わらず、それがどうした、と言わんばかりの雰囲気が、身体を包んでいる。息子が人を殺したというのに、それがどうした、と言わんばかりでも有る。
罪悪の鐘が、再び鳴り始めた。先程まで静かだった海が、突然荒れ狂う海と化す様な心の変化に、私は、頭を抑える。「何てことだ」と知らず、呟いていた。
奴は、私の妻を殺した。いや、実際に殺したのは奴の息子だが、最後のトドメ、魂の消滅は、奴の所為だ。だが良く考えろ、奴の息子を殺したのは誰だ?他ならぬ、私じゃないか。
考えるな。私は、自分を叱咤する。
もう、終わりだ。止めよう。全て、忘れるんだ。飲み込め。
全て忘れて、やり直すんだ。
「―――どこだぁ!」
私は周りの眼など気にせず、叫んでいた。男を、見失った。逡巡している、一瞬の間の出来事だった。気が付けば男の姿は無く、私は狂った様に、いや、狂いながら叫んでいる。
私の只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、人々が怯えて道を開けた。
「どこだ!畜生!逃げるな!逃げるな!逃げるな!逃げるな!私は、貴様の息子を殺したぞ!」
アスファルトを蹴って、走る。男の姿を探す。殺す。凶暴な自分が、顔を出して叫んでいる。
これで全て終わりだ。私の人生も、貴様の人生も、終わりにしようじゃないか。もはや私は、自分がこの為に生まれてきたんじゃないだろうか、とさえ考えている。
遥か遠く、人々の視線が並んで私を貫いている、遥か奥。男の姿を見つけた。こちらに背を向けて、歩いている。
終わりだ!私は、叫ぶ。喉が裂けんばかりに。終われ。もう、終わってくれ。
私も、貴様も。
そして私は、空を見ていた。鮮やかで、広漠な青が突然視界に飛び込んできて、私は困惑する。雲一つ無い、青空だった。
「え?」
と、私は誰かに尋ねている。何が起こったのか、判らなかった。
「あ、んぶ」
口の中で、何かが爆ぜた。鉄の味がして、血の泡だ。と遅れて気付いた。私は、倒れているのか。何故。
立ち上がろうとして、身体に力が入らない事に気付いた。かろうじて、右手をなんとか持ち上げる。真っ赤な血が手から零れ落ちて、顔を濡らした。
どよどよと、意味不明な囁き声が、四方八方から聞こえる。視線だけを必死に動かすと、今度は私を囲う様に人垣が出来ているのが判った。
車に、轢かれたのだ。
痛みが無い事が、逆に恐ろしかった。それは、身体が諦めている事に他ならない様に感じた。
身体中から、力が抜けていく。アスファルトと一体化していく様な感覚だった。
終わりだ。
と、私は自分に言い聞かす。不思議な事に、それでいくらかは楽に成った。人間は、いざと成ったら諦めが付く様に出来ているのかもしれない。
ただそこで、私は最後の力を振り絞って、顔を上げた。誰かが近づいてくる気配を感じたからだ。身体は殆ど動かないのに、感覚だけが、恐ろしい程洗練されている。
人垣の中から、一人の男が近づいてきた。見覚えの有る顔だった。いや、ついさっき、《ライブラリ》で会ったばかりの、顔だ。アイスコーヒーの男。
涼しげな顔をしていたが、尋常の様子ではなかった。背中から、純白の羽が生えている。なんだ、これは。と私は自分の眼を疑う。
「間に合った」
男は、開口一番、そう言った。
「お……まえ」
何者だ?と尋ねたかったが、声が出なかった。その代わりに、ごぼ、と口の中から、赤茶けた血が流れた。
「見ての通り、お迎えだ」
こちらを労わる様子など一切無く、むしろ、男は愉快げにそう言った。
「ここ最近、ずっとアンタの監視をしていたよ。今日、あの喫茶店で、アンタが俺の視線に気付いた時は驚いた。中々感が鋭いな」
茶番は、まだ続いていた。ここまで来ると、笑えない。つまらないジョークだ。
「さて、残り三十秒」
男は、時計を見た。残り三十秒というのが、私の残り時間の事だということは、何故か直ぐに判った。
「天使は忙しい」
男は、そう言った。
「忙しいけど、退屈だ。判るか?つまらないという事だ」
そして私は、身体の力を完全に抜いて、全てをアスファルトに任せる。清々しさが身体中に蔓延している。この男は気に入らないが、あの青い空は悪くない。それで十分だった。
「残り、十五秒。―――何か、言い残す事は有るか?」
最期の言葉か。私は、消え入りそうな意識で、必死に頭を巡らす。言い残す事は山ほど有る様に感じた。この後に及んで、せめて最期くらい、何か、世界を動かす様な偉大な一言を残したい、と自尊心が喚いていた。
ただ、不意に、人垣の中に、一匹の犬を見つけた。
私を囲う人垣の中、黒い犬が、こちらを見ている。遠目では有るが、首輪を付けられていない事が判った。飼い主らしき影は見えない。
「犬」
「何?」
「犬、犬が居る。あそこに」
なんだそれは。と私は笑う。陳腐極まりない。ただ、言い終えた後、どこか晴れ晴れとした気分で、私は眼を瞑る。このくらいで、丁度良いんじゃないか?
眼を瞑っても、あの、黒い犬の姿ははっきりと見えた。犬が突然、疾駆を始める。人垣を乗り越えて、どこかへ走る。中々格好良いじゃないか、と私はその犬を眺めている。
つまらない復讐は終わり、私も残念ながら終わる。だけど、空が青くて、犬が走っている。それで、良いじゃないか。私は自分を励ます気分で、言い聞かす。常連が一人減ったくらい、問題無いですよね?私は、マスターにそう声を掛けた。