フレンズ
学生の夏休みというものは、退屈だ。どれくらい退屈かというと、妹の買い物に付き合ってしまう程度には退屈だ。僕自身には買い物などないにも関わらず、電車で二十分は掛かるアーケード通りまで出てしまった。
CDショップに入り、最近のヒットチャートに付いて要らない心配をして。本屋に入り、週刊誌を立ち読みする。服屋に入れば、「何かお探しですか?」と聞きに来る店員に、「いえ」と首を振って申し訳ない気分に成る。
広漠な空では、たまにはリラックスしても良いよ、と窘めたくなる程、太陽が熱気を放っている。正面、真っ直ぐに伸びるアスファルトの道路の先に、水溜りの幻影が見えてしまう。歩いているだけで、汗がしっとりと身体を濡らした。
「暑いなぁ」
僕のぼやきが、天使に聞こえて、ほんの少しでも涼しくしてくれれば良いのに。そんな妄想をしてしまうほど、暑かった。だから、
「お兄ちゃん、ライブラない?」
妹の提言は、飛び跳ねる程では無いにしても、嬉しかった。ライブラない?《ライブラリ》で、冷たい飲み物でも貰おうよ、を略した妹の造語だ。
喫茶は、友人の姉、御船さんが女手一つで切り盛りしている、若干大人向けの喫茶店だ。いつも煙草の匂いと、怪しい常連客がたむろしている。
「良いけど、御船さんの仕事の邪魔をするなよ」
「そういえばお兄ちゃん、御船さんの事好きでしょ?」
妹の突然の発言に、僕はたじろぐ。
「な、なんだよ、それ」
びっくりさせないでくれ。
「だって、子供の頃、そう言ってたじゃん」
「いつの話だよ」
「あれ?今は違うの?」
いや、そう言う訳じゃないけどさ。自分自身にさえ、良く聞こえないほど小声で言う。
《ライブラリ》へ向かう途中、不思議なものを目撃した。
「兄ちゃん兄ちゃん、サンタだ、サンタだ」
「サンタ、だね」
この、真夏の日差しが、燦々と降り注ぐ中、ベンチに座って本を読んでいるサンタが居たのだ。あの、真っ赤な服に、白いヒゲは、サンタ以外の何者でもないだろう。
当然の事ながら、真夏の日本に現れたサンタは、人々の注目を集めていた。が、サンタはそれをまるで意に返さず、本の頁を黙々と捲っている。それどころか、サンタだ!と声を挙げながら近付いてくる子供を面倒臭そうに手で追い払っている。
「なんだあれ……?」
口に出すまでも無く、なんだあれ……な状況だった。慌て者のサンタクロースにしては、イマイチ愛らしさというものが欠けている。
「判った!」
と、妹が声を上げる。
「あの人、きっとサンタに扮装した刑事だよ。で、誰かを見張ってるんだよ。張り込み刑事だ!」
「パンダより目立つ扮装は不味いと思うけど」
「じゃあ、なんだと思うの?」
「僕には、サンタの格好をした変質者にしか見えない」
「兄ちゃんは夢が無い!」
そう叫ぶや否や、妹がサンタに向かって駆け出した。止める間もなかった。聞けば早いじゃん!と捨て台詞の様な言葉を残す妹を、僕は追う。
「すいませーん、何やってるんですかー?」
妹が本当にサンタに声を掛けたので、僕は悲鳴を上げそうに成る。こういう手合いには関わらない方が良いという教育を、今は亡き父と今も存命中の母は施さなかったのか。
「うるせーな、見りゃ判るだろうが」
と、聞きなれた声が返ってきた。あれ?と僕と妹が同時に首を傾げる。
「あれ?灰音ちゃん?」
「あ?」
友人の、灰音だった。御船さんの弟、と言い換えても良い。吊り上った細い眼に、白い肌。小柄で、女性の様にシルエットが細い。
サンタの格好をした灰音が僕達を睨む。次の瞬間、表情が綻んだ。
「なんだ、何やってんだよ、こんな所で」
「お前こそ、何やってるんだよ」
「何って」
怪訝そうに眉を潜める灰音の顔は、やはり御船さんにそっくりだった。しかし、怪訝なのはむしろ、こっちなのだが。
「サンタだ」
「いや、それは見れば判る」
「じゃあ聞くなよ」
「判らないのは、どうしてサンタの格好しているかなんだ」
「うるさいな。俺がサンタの格好したって、別に構わないだろうが」
確かに、構わないのだが。
「そんな事より、どうだ?今の俺、中々サンタに見えるか?」
と、妙な事を気にする灰音。おもちゃの白髭が、風に吹かれて何か言いたげに揺れる。
「サンタとしては、ちょっと細すぎるね」
妹がそう助言した。すると灰音はマジかよ、と慌てる。僕としても、サンタに抱いているイメージ像というのは、恰幅の良い朗らかなオジさん。なので、控えめに言っても零点を付けたい所だ。控えめに言わないので良いのであれば、お前サンタ舐めてるのか?と怒鳴りつけたい。
「ひょっとして、アルバイトか何かか?」
いくら灰音とはいえ、日常的に理由も無くサンタの格好をしているとは思えない。
「このクソ熱い中で、こんな暑苦しい格好をしないといけないバイトなんてやらないっつーの」
確かに、暑そうだ。どころか、熱そうだ。
「良いから、俺に構わずさっさと行けよ。ジロジロ見られて喜ぶサンタなんか居ないっての」
構わないので良いのなら、さっさとこの変人から離れるべきだ。僕はそう思った。妹の腕を引き、じゃあな、と言い残して、灰音に背を向ける。
「灰音ちゃん灰音ちゃん。警察とか、気をつけてね?」
「判ってる。確かに、子供を追い払うのはやりすぎた」
それ以前の問題なんだが。とは、口に出さなかった。
●
喫茶。ぼろっちい外観と、狭い入り口は、まさに穴場の喫茶店という雰囲気を醸し出している。実際、この店の事を知る人間は、そう多くない。「珍妙な常連客でなんとか持っている」と御船さんが自嘲気味に笑ったのを思い出す。
ドアノブに手を掛けると、突然ドアが中に開き、僕はドアに引っ張られる様な形で前に倒れる。ドン、と誰かにぶつかった。
「うわ!」
「お」
見上げると、そこにはこの喫茶店の常連の顔が有った。名前も知らないし、話した事も無いが、いつもアイスコーヒーを頼んでいるので、アイスコーヒーの人、とだけ覚えている。
「すまない。怪我は?」
僕を引き離しながら、アイスコーヒーの人がそう言った。幾多の死線を乗り越えたスナイパーの様に鋭い眼。尖った顎には、売れないロックンローラ−の様な無精ひげを生やしている。いや、死線を乗り越えたスナイパーも、売れないロックンローラ−も、直接見た事が有る訳じゃないが、大体こんな感じだろう。
「ああ、えっと、大丈夫です。すみません」
思わず謝ってしまう。大丈夫です。堪忍してください。
「アイスコーヒーの人だ」
妹が、遠慮も容赦も無く、男に向かってそう言い放つ。
「何?」
「いえ、ほんと、すみません」
謝ってばかりの僕を尻目に、妹は、
「いっつも、アイスコーヒーを頼んでるじゃない。だから、アイスコーヒーの人。OK?」
僕はこの段階で、目の前の男が襲いかかってきたら、どうやって戦おう、とすら考えていた。だが、意外な事に、男は、くすくすと笑って、
「オーケー。中々、愉快な妹さんだな」
と、僕の肩を叩いて、その場を去っていった。最後に振り返り、「そうそう、地球の温度調整は管轄外なんだ。一応知り合いに頼んでみるけど、期待はしない方が良い」と妙な事を言い残した。
僕は、ホっと胸を撫で下ろした後、妹を睨む。
「あの人、仕事とか大丈夫なのかなぁ、殆ど毎日ここに来てない?」
「僕は、あの人よりお前が心配だよ」
《ライブラリ》に入った瞬間、涼やかな風が僕の頬を撫でた。余りの心地よさに、一度足を止めて眼を瞑る。それから、一歩を踏み出す。
「お、いらっしゃい」
直ぐに御船さんがこちらに気付いて、そう挨拶をしてくれた。
「御船お姉ちゃん、いらっしゃったよー」
「こんにちは」
挨拶も程々に、椅子に座って、アイスティーを二つ頼んだ。「お前らは、アイスティーばかりだな」と指摘されて、そうだったかな、と記憶を手繰る。
「そうか、学生は夏休みか」
アイスティーを運んできた御船さんが、羨ましそうに言った。
「ん?ということは、灰音の奴も夏休みか?」
「ああ、アイツなら、さっき会いましたよ」
「そうそう、なんか、サンタの格好してた」
「サンタ?」
「ええ、何か、知ってます?」
「奴が店の手伝いをサボった事しか知らない」
「アイツ、手伝いなんてしてるんですか」
灰音に接客は無理だろう。と、僕は眉を潜める。いや、それを言うのなら、御船さんも接客に向いているとは言い難いかもしれない。と失礼な事も考えた。
「ここ最近だな。手伝ったり、邪魔したり。ふん、しかしアイツめ、何をしてやがるんだ」
「サンタだよ、サンタ」
「わが弟ながら、アイツの考えている事は良く判らん」
実際、僕も灰音とは十年来の付き合いだが、いまだに灰音のペースを掴めずに、困惑する事の方が多い。
「まぁ、良いか。ゆっくりしていくがいい」
妙に偉そうな口調で、御船さんが去っていく。こういう所は、灰音とそっくりだなぁと感心してしまった。
室内は暗く、客はまばらだった。カウンター席に、暗い表情をした中年の男と、奥の席に赤い髪の若者が居る。それ以外にも数人、影が見える。ジャズの音と、御船さんがコップを洗っている音が良く聞こえる程、静かだ。僕は、うっとりとジャズと水が流れる音を聞いている。
「そういえばさ」
と、妹が不意に、声を出した。
「いつ、告白するの?」
「な、何が?」
「御船さんに」
一応気を使っているのか、御船さんには聞こえない程度に声を小さくして、妹が身を乗り出してくる。
僕はたじろぎながらも、なんとか兄の威厳を保とうと、平静を装ったまま、
「いつか必ず言うさ」
「いつ?」
「いつだろうね」
「いつだろうねぇ」
厨房で、きびきびと働く御船さんに眼を向ける。綺麗だな、と見惚れて、立ち上がる。
「お、今か!」
突然立ち上がった僕を見て、御船さんが「どうした?」と首を傾げた。
「あ」
「あ?」
「アイスティーを、もう一杯」
勢いで言おうとして、失敗した。それから、自分自身が可笑しくなって、ふ、と笑みが零れた。僕は、ホントに弱いな。と、どこか愉快な心地で自分を笑っている。