空亡
空亡は闇そのものだった。
空亡の存在するところに光は無く、光のあるところに空亡は存在しなかった。
この世に存在する魑魅魍魎すら空亡の闇を嫌い、百鬼夜行すら空亡の前に恐れをなして散った。
空亡はこの世ともあの世とも着かぬ光の無い場所でただうぞうぞと禍々しい闇を纏っていた。時たまにそこから災いが生まれることもあったし、闇に迷い込んだ人や魂を飲み込むこともある。
空亡は光の無い場所から動くことは無かった。そこから出ようなどと言う感情など持ち合わせていなかったのだ。
しかし、八百万もの時は、空亡に羨望の感情を植えた。やがて空亡は光の世界に思いを募らせ始める。
光が羨ましかった。誕生と希望に満ち溢れた光が羨ましかった。何より空亡は光とは真反対に居るのだ。
あれを、飲み込んでみたい。あの光を。
「私も、光の世界を見てみたい。私も、そこへ行きたい」
そうしてついに、ゆっくりとその闇を動かし始めた。
神々はそれを恐れた。もし空亡が光の世界へと足を踏み込めば、あっという間に太陽を飲み込むだろう。それは光の世界の死をも意味する。
しかし、神々は空亡を武力を持って制する事はできなかった、闇を取り払おうと過去に幾多もの神が空亡に戦いを挑み、飲まれていた。光の象徴、太陽の化身である天照大御神も、闇そのものである空亡には及ばなかった。
やがて神々は光無き世界と光の世界の狭間に、一人の少女を送る――
「貴様、何者だ?」
目の前の少女に空亡は問うた。
空亡の前に、空亡以外のモノが現れるのは久方ぶりだった。その少女は華奢な体つきで、目を瞑っており、とても空亡を如何こう出来るものには見えない、それどころか、空亡が少し力を加えればそのまま押しつぶせてしまいそうだ。
しかし、空亡には少女が眩しく見えた、丁度少女の立っている場所が光の世界と光無き世界の狭間だからだろうか。
少女は目を瞑ったまま、少し体を震わせる。
「はい、私はミハルと申します」
澄んだ声だった。
「貴様は何故こんなところに居る? 見たところ魑魅魍魎の類には見えぬし、神でもない」
「私は、神様に命じられてここに参りました。あなた様を、空亡様を止めるようにと」
「神に命じられて、だと」
空亡の心が荒ぐ。
空亡は神に良い感情を持っては居なかった、空亡にとって神とは光の世界を独り占めしている手前勝手な者達、それだけでも十分に憎たらしくあるのに、今度は自らを光の世界に行かせまいとしている。否、それもまだ許そう、しかし、それならば何故、面と向かって止めぬのか、このように華奢で無力な人をよこすのか。
空亡が纏っている闇が、うぞうぞうぞと震える。
少女は毅然を装ってはいるが体の震えは隠せていない、少女自身もそれはわかっているだろう。
空亡は体を思い切り動かし、少女のすぐ傍まで寄る。
空亡の気配を感じているのだろう、少女は目を瞑ったまま少し声を漏らす。しかし、けしてその目を開かない、神に入れ知恵されているのだろうなと空亡は思った。一度空亡を見てしまえば、あっという間に闇に心を奪われるのだから。
「して、どのようにして私を止めるつもりだ」
少女の肌に触れる寸でのところで闇を止め、聞く。
少女は一つ息を吸い、飲み込む。
神への苛立ちからか、空亡には少女の一つ一つの動作さえ闇とは正反対のものに思えた。
「この私の体を、空亡様に捧げます」
それを聞いて、空亡は高らかに笑った。心底馬鹿にしたような笑い。
「貴様の体ごときで、私の意志を捻じ曲げることが出来るわけなかろう。最も、私がもう少し若い頃ならばそれで納得していたかも知れんが」
昔の空亡、ただひたすらに自らを膨張させることだけに幸せを感じていた頃の空亡なら、すぐさま少女に食らい付いていただろう。
だが、今の空亡を動かしているものは自らを、闇を膨張させると言う欲ではない。光の世界への羨望、興味。
「人、諦めろ。今ならまだ返してやらんことも無い、もと来た道を辿り、光の世界へと帰れ。何も私は光の世界全てを破壊しよう等とは思っていないのだ」
空亡は自らの中にある良心すべてを使って少女に提案した。
神に踊らされた少女に対して、少しだけだが同情したのかも知れない。
しかし少女は動かなかった、少女はその場に跪き、頭を地面につける。
「空亡様、どうか、どうか」
闇が蠢く、空亡は声を荒げた。
「無駄だ、何者も私を止める事はできないだろう。貴様がこれ以上私の前に立ちふさがるのならば、お前は苦しむことになる」
「それでも構いません、私が犠牲になることで私の父や母や、光の世界の人々が一寸でも長く生きられるのならば」
空亡はフン、と闇を鳴らした。
「下らぬ」
そして、空亡はわざと少女を取り込むようにして、光の世界へと一歩足を踏み入れた。
空亡が、太陽を飲み込み始める。その証拠に、地上からは太陽が欠けているのがよく見えた。
「おぉ、素晴らしい、これが光、これが闇ではないもの」
空亡が感嘆の声を挙げる。
しかし、光の世界は空亡には眩しすぎた。本来ならば一気に歩を進めようとしていたが、少しずつ、少しずつ歩を進める。
暇をもてあそんだ闇は少女の周りにまとわり付く、闇がどろどろと笑い、少女に囁く。
「人よ、目を開け、そして私を見ろ」
少女は首を振る。
闇は更に囁く。
「不安ではないか? ずっと目を瞑ったままでは怖かろう?」
光の世界の者が闇に不安を覚えるの事を空亡は知っている。
そして目を閉じると言うことは、その闇に身を投じることと同義。やがて不安と恐怖を覚え、その目を開く。だがその時少女の目の前にあるのはただ純粋な闇。心奪われるほどの闇。
少し、空亡が歩を進める。その分だけ太陽を飲み込み、欠ける。そしてその分だけ、地上に闇が射す。
地上の者達はこれ以上ないほどに混乱していた、己達の象徴、太陽が闇によって侵食されているのだから。
それぞれ闇を恐れ、願い、助けを懇願する。もちろんそれらは神々に伝わる。しかし、神々にはどうすることも出来なかった。神々もまた、少女に願う。
「明るい、これが明るいと言うことか、神が独り占めするわけだ」
地上を見下ろした空亡は、これ異常ない感動を感じていた。やがて空亡はその感動を誰かと共有したくなった、否、もし誰とも出会わなかったらそんなことは思わなかったかも知れぬ。だが空亡は狭間に立っていた少女をぐいと引き寄せ、握りすぎて潰してしまわぬようにそっと支えた。
「人よ、見ろ、これが私の求めていた光景だ」
しかし少女は首を振った。
空亡は侮辱されたような気になり、声を荒げる。
「貴様に光との最後の別れをさせてやろうと言うのに、何だその態度は。貴様のような軟弱な人を騙すほど私は卑しくは無い」
そのまま押し潰してしまおうかと思ったが、それはあまりにも卑しく下級だと考えを改め、歩を進める。
空亡はついに太陽の半分を飲み込んだ、ここまで来ると地上に降り注ぐ光も限られるようになり、空亡は少し楽になった。
「人よ、もうすぐ私はこの光を飲み込むだろう。そうなればこの世界はすべて私の作り出す闇が支配することとなる。今の内に一目でも見ておかぬか? 何も今貴様の命を取ろうと言う事はしない」
それを聞いた少女は体を震わし、瞑った目から涙をこぼす。
「怖いか」
無責任にも空亡が問う。
「いえ、怖くありません。私は空亡様の気遣いに感謝しております。しかし、その気遣いに答えることが出来ない私の不甲斐無さに涙しているのです」
「目を開けばいいだけではないか」
一つ、決心するかのように息を吐いて、少女は静かに目を開いた。瞳は薄茶色で大きさは変化しない。
「空亡様、私は生まれついた時より、光を知らないのです」
空亡は驚嘆して返す。
「光を知らぬ?」
「はい、まだ私が母の胎内に居たころ、病に目を冒されたようです。だから私は光を知りません」
「ならば、貴様が闇を怖がらぬのも」
「私は常に闇の中で生活していました。ですから空亡様に取り込まれることは無いでしょうし、今更闇に恐怖は覚えません」
空亡は歩みを止め、少し考えた後、少女を闇で包んでみた。しかし少女は目を開けているにも拘らず、闇に取り込まれることはなかった。
空亡は闇そのものではあるが、光を感じることは出来る、光に憧れることはできる。それゆえに光を感じることが出来ぬ少女が何思っているのか分からなかった。
そもそも、光の世界の人々にとって、光は全てではなかったのか? 光を感じることが出来ぬ者は自然とこちら側、闇の方の住人になるのではないのか?
否、そもそも。
そもそもそれならば何故この者は光の世界を守ろうというのか、その行為に意味など無いではないか。私が光を食らおうと食らわぬともこの者にとっては何の意味も。
再び少女を傍らに引き寄せ、問う。
「ならば貴様は貴様にとって意味の無い光の世界を護る為、その身を私に差し出したのか?」
少女は表情を曇らせた、空亡が何を言っているのかよく分からなかった。
「私にとって光の世界は意味の無いものではありませんでした」
「しかし、貴様は光を知らぬのだろう?」
空亡の問いによって、聡明な少女は空亡の意図を読み取った。そして答える。
「この世に生まれて、始めて自分が他の者とは違うと気付いた時、私はとても怖かった。それと同時に、光を感じることが出来る皆に少しだけ嫉妬もしていました」
それはそうだろうなと空亡は頷く。己も似たような者なのだ。
「だけど、私は愛されて育ちました。恐らく私の知っている人すべてに私は愛されていました。もちろん、私も全ての人々を愛しました。やがて、私は光を感じることが出来ぬことなどどうでも良くなったのです。愛され、愛す事で十分に満たされていました」
胸に手を当てて続ける。
「光のためではありません、光の世界の人々への愛のためなのです」
空亡は、愛という単語がよくわからなかった。無論意味は知っているが、それが果たして自らの身を捧げてまで護るべきものなのか分からなかった。
「空亡様、どうか――」
少女の懇願を遮って空亡は再び歩を進め始めた。自らの中に新しい感情が生まれそうで、尚且つそれが怖かった。また、苛まれなければならぬのかと、光に対する感情が何なのか分からず、それが憧れという感情だということを理解するのに何年も何年も苦しんだ。
少女は続けて懇願する。
「空亡様、お考え直しを、空亡様っ」
空亡はもう聞く耳を持たなかった。
昔の様に、ただ自らの欲求を埋める事だけに全てを注いでいた。
ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ。
少女の声が耳に入るたび、空亡は自らの理性を削った。自らが知らぬ事を、少女は振りかざす。得体の知れないそれが怖くて怖くて仕方が無かった、普通の人間や、神であればとっくの昔に押しつぶしていただろう。しかし、少女を押しつぶす事は出来なかった、少女を押しつぶすことによって、その少女以外の何かが失われるような気がしていたのだ。
空亡の動揺を示しているかのように、闇はけたたましく鳴き、暴れた。とにかく光を、光を飲み込んだ。
やがて、少女のすすり泣く声で理性を取り戻した時、空亡は太陽の殆どを飲み込んでいた。光の世界に、永遠の闇が訪れようとしていた。
それは八百万の時から望んでいた光景であった。しかし空亡にとって思っていたほどのものでも無かった。
光の世界では、光こそ全て、空亡はそう思っていた。
だが、目の前に居る少女は光を知らぬと言う。なのに自らの身を捧げ、光の世界を護ろうと言う。
いっその事、全て飲み込んでしまおうかと思った。光も、世界も、少女も、己の感情さえも。昔の空亡に戻ればこの苦しみから解放される。しかし、感情を失いたくは無かった。感情がある今こそ、感情を持っていなかった頃の愚かさがわかる。
邪念を払うように、空亡は歩を進めた。ついに、ついに空亡は太陽を全て飲み込み、光の世界は光を失った。
しかし、完全に闇に包まれたわけではなかった。何らかの光が薄っすらと光の世界を照らしていた。
空亡は、光を探した。そして地上にはいずれ消えるであろう灯火しか無いのを確認するとはるか上を見上げた。
「おぉ……」
思わず声をあげる。
闇に覆われた空には、数え切れぬほどの光があった。それらはすべて大きさ、形、色全てが違って見え、不規則に並んだそれらは何らかをかたどっている様にも見えた。
それらの美しさに心打たれた空亡は少女にあれらは何なのかと問おうとした。しかし、少女が光を感じることができぬ事を思い出し、閉口する。
それでも、何とかそれらの事を少女に伝えようと、空亡は必死に考える。しかし、それらを上手く伝えることはできなかった、空亡も光を目の当たりにしたのはつい先程なのだ。
その時、空亡は生まれて初めて、己が、孤独、である事を知った。
闇はモノを寄せ付けず、もし万が一寄ってきたモノがあろうとも、それらは全て空亡に飲まれていった。しかし、今の今まで、空亡はそれが孤独とは思っていなかった。空亡はずっと、ずっと、一つだったのだから。
しかし、少女が現れた。少女は闇に飲まれなかった。そして少女は二三言の言葉を交わすだけで空亡にその身をもって愛と孤独を説いた。
今の空亡なら、何故少女が身を挺してまで光の世界を護ろうとしているのか漠然と分かる気がするのだ。
今からでも間に合うだろうか、空亡はそう思った。今、この場で、少女を押し潰してしまえば、孤独から解放されるだろうか。否、そんな事をすれば余計に孤独になってしまう。そして、彼女のような存在が再び空亡の前に現れるのは何時になるだろうか。
空亡は、少女をそっと抱きかかえた。それまでに比べて優しく、暖かかった。
その感触に少女は泣くのを止め、空亡の声のするほうに顔を向ける。
「人よ、喜べ。私はもと居た場所に帰る」
「空亡様……」
「光の世界、大したモノでは無かった。そもそも光と言うものも、大したモノでは無かった。また少し懐かしく思えた頃にちょっと覗いて見る程度で良い」
それを聞いた少女は表情を明るくさせ、空亡に感謝の言葉を言う。
「空亡様、ありがとうございます」
「ただし、条件がある。人よ、私を永遠に愛せ。二度と私を孤独にするな」
聡明な少女は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに空亡の求めているものを理解し、答えた。
「はい、私でよければ幾らでも」
空亡は太陽を吐き出しながら闇の世界へと向かう、地上では人々が神の奇蹟に歓喜し、丁度天に召された少女に祈った。
闇の世界に足を踏み入れ、空亡は少女に囁く。
「ここから先が、闇の世界だ。闇は寂しいところ、何も感じないし、誰とも会えない。時折貴様を連れて光の世界を覗くことはあるかもしれないが、それも少しの時間だけ、光の世界のものとは会わせないし、また直ぐ闇に帰る。それが永遠に、永遠に続く。元々人であった貴様には辛いかもしれない」
空亡は少女に永遠の命を与えた。空亡の傍に身をおいている限り、少女は永遠に生き続けることになる。
そして、空亡は少しぶっきらぼうに言った。
「だが案ずるな、いつでも貴様の傍には私が居る。そして、私も貴様を愛す」
空亡の傍には、いつも少女が居た。とは言っても闇の世界は暗闇ゆえに空亡が確認する事はできない。それでも、空亡の傍には、いつも少女が居た。
少女は空亡を愛し続けた。同時に空亡も少女を愛した。最も、漠然としか愛する事を知らなかったので、それは逐一少女に問うた。
時折、と言っても人間の時間にすればかなりの期間を置きつつ。空亡は少女を連れて少しの時間だけ光の世界を訪れる。その時は、太陽が欠けるのだ。
空亡は好きな場所を覗き、そこに何があってどうなっているのかを少女に伝えようとする。支離滅裂で感情的ではあるが、空亡は一生懸命伝えようとする。
少女はその時ばかりは少し困った顔をするが、直ぐに満足げな笑顔になるのだ。
そして、空亡もそれを真似ようと――