第1話
束の間の平静に終わりを告げた、煩わしい始業のベル。気付くと辺りは学生達で溢れかえり、閑散としていた講義室は一転、喧騒に塗れていた。
「おはよ〜」
「課題やった?」
「単位ギリだわ」
馬鹿の一つ覚えの様に己の愚鈍さを露呈する有象無象。良い加減聞き飽きたそのやり取りに内心舌を打ちながらも、彼等の前では笑みを浮かべて同調してやるのだから、結局は自分も同じ事。毎度同じ流れを繰り返す阿呆に他ならない。
授業そっちの気で身内話に花を咲かせる愚友達に辟易しながら、ただ耳を貸すだけの講義。期末試験も期末レポートも、普通に授業を聞いていれば問題なく片付けられる。ならば、必要以上に労力を割く必要はない。そう、いつも通り気怠げに講義を受講していた、ある日の授業中の事であった。
「あ、あの子」
後方に座る女がとある学生を顎で指し、周りの学生らと噂話を始める。示された先に居たのは一人の男子学生。名前は 鷲見遥 と言うらしい。
特徴的なのは、モデルの様に華奢なシルエットと艶かに輝く黒い髪。その他、目を引くものと言えばその肌の白さ。その質感は童話の姫君達も見劣る程。額はやや長めの前髪に隠されているが、恐らく整ったものだろう。そんな彼が一体どうしたというのか。
「同高生の人から聞いたんだけど、あの子ゲイなんだって」
女が言うには、彼は高校在学中に一つ上の先輩に恋焦がれ告白。その後フラれたのだとか。他人の恋愛など心底興味のない話だが、自分の周りを囲む様に集まった馬鹿共にとっては良い話題になったらしい。授業中だというにも拘らず、彼等は良いネタを得たと言わんばかりに彼是と話し始めている。
全く、普段と変わらぬ声の大きさで話すものだから五月蠅くて敵わない。
「早乙女はどう思う?」
「どう思うも何も、誰を好きになろうと個人の勝手だし、それに対して僕等が彼是言うのはおかしいだろ。それに、噂は噂。実際とは違うかもしれねぇぞ?」
本人にも聞こえてしまっているであろう話を、よく平然と出来るなと感心してしまう。一体何処まで愚かなのか。折角話を振られない様にと気配を消していたというのに。そんな努力も虚しく同意を求め声を掛けられると、いつもの当たり障りのない反応とは異なり、不快感を滲ませながら返答する。要は誰もお前の意見は求めていない、という話だ。だが、俺の意見を聞いても彼等に気にする様子はなく。何事も無かったかの様に話を続けるのを見れば、心の内にて大きな溜息をついた。
── きっと今朝の運勢は最下位だったに違いない。復習と称し、前回の講義と変わらぬ内容を話し続けて時間を無駄にする教師。他への迷惑も考えず、他人のゴシップを楽しそうに話す馬鹿共。何もかもが不快であり、その全てに腹が立つ。そして、そんな俺の気も知らず、先程から頻繁に話しかけて来る後ろの女も、周囲に座る女子生徒から送られる視線も鬱陶しくて堪らない。
「人気者は大変だね〜」
「うっせ」
隣に座る幼馴染の言葉に、彼の横腹を突いてやれば直ぐ様謝罪が飛んでくる。全く、ただでさえ機嫌が悪いというのに何をしているのか。
… だが、これが終われば今日は終わり。あと少し耐えるだけ。不快感のみが募る時間を手っ取り早く終えるには寝るのが一番。始まったばかりの講義に溜息を溢し机に頬杖を突くと、彼等の会話を微塵も耳に入れる事無くその瞳を閉じ。徐にその身を襲う眠気に身を任せては、夢の世界へと旅立った。
── キーン コーン カーン コーン
周囲を満たす雑音を割き、終業のベルが鳴り響く。ざっと1時間程度は眠れただろうか。寝起きの身体を気怠げに起こし、教壇に立つ教師に目を向けるが、その口が止まる事はなくもう数分は終わりそうにない。話の内容が自分にとって学びとなる様なものならまだしも、例の如く同じ事の繰り返しとなれば時間の無駄。これ以上は蹉跎歳月である。
ここらで抜けたとて何ら問題はないだろう。時間は有限なものであり、貴重な休み時間まで此奴等にくれてやるつもりはない。そうと決まればする事は一つ。傍らに座る幼馴染へ先に抜ける旨を伝えては、独り講義室を抜け出し、気に入りの休息地へと向かった。
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喧囂からの解放。舞台からの脱出。煩わしい空間から脱した今、他の目もなく素で居られる時間が酷く心地良い。
俺が居るのは図書館の最奥。現代文学などが並ぶこの場所は数少ない安息の地。大学生が図書館に立ち寄る目的は史料や文献集めが殆どである為、態々小説や漫画を借りに足を運ぶ者など居らず、此処は一人になりたい時にはうってつけの場所であった。
本棚に隔たれた、一人だけの世界。聞こえて来るのは、微かに窓を揺らす風と鳥の囀りのみ。暖かな日が眠りを誘う様な、そんな穏やかな時間が過ぎて行く。
今日の授業は先程ので終わり。バイトまでは数時間程空いている。丁度図書館に居る事だ。文献指定のレポートでも片付けてしまおう。そう席を立つと、目的の書を探すべく自分の城を離れた。
足を運ぶ先は、館内のPCにて示された場所。レポートの期限は大分先の事であり、文献指定とは言え幾つかの候補から選ぶ形であった事から、既に誰かに借り占められている事は無い筈。さっさと見つけて城に帰り、バイト前に終わらせなくては。
検索結果を元に目的の書棚を見つければ、本の背を視線で辿り目当ての本を探し当て。手早く貸し出し申請を済ませると、早々に城へと戻る。
「あと … もう少し … 」
漸く得られた自分だけの静かな時間。それは早くも終わりを迎え、我が城に帰還するとそこには先程の男子学生の姿があった。
俺の荷物が置かれた机の、正面に位置する棚の裏。彼は上段にある本を取りたいのか、背伸びした状態で懸命に手を伸ばしている。
手が届かないのであれば脚立を持って来れば良いものを。横着しているのか、他人に声を掛けるのが面倒なのか。その意図を知る由はないが、その様は傍から見ていてとても危うい。このまま見なかった事にして、不干渉を貫く事も出来る。だが、此処で素通りし後々何か起きてしまったらと考えると無視する事は出来ず。
小さく溜息を溢しながらも彼の元へと近寄れば、本が抜き取れそうになるのと同時に後方へ倒れかけた彼へ、背後から手を差し伸べた。
「 … はい。次からは脚立使いな? 此処ら辺は人も居ないし、何かあっても助けてくれる人が居ないだろうから。」
「あ、ありがとう … ございます。その、すみません。御手を煩わせてしまって。ご迷惑を … 」
「別にこれくらい大した事無いって。」
本棚を背に自身と棚とに挟まれた彼は、蹌踉めく身体を俺に支えられるとその身を固くし。勢い良く振り返ると、髪の隙間からその頬に朱が走るのが見えた。
上半顔を隠す長い前髪と言い、人慣れしていないのだろうか。将又、自分のドジを他人に見られた事に恥じらいを感じているのだろうか。その反応の原因を此方から察する事は叶わず、しかし、助けてもらった事に対し過剰に礼を述べるのは、他人に迷惑をかけてしまったと感じているからだろうというのは想像に容易く。普段他人から向けられる態度とは異なる何とも珍しい彼の反応に対して、思わず素のままに声をかければ、手に取った本を彼に渡して苦笑交じりの穏やかな笑みを溢した。
「… あ … その … では失礼します。」
笑みを向けた瞬間、彼は何かに驚いた様にその肩を揺らすと、改めて礼をした後早々にその場を去って行った。
… 何か変な事をしただろうか。ただ、本を渡しただけ。それだけの筈。笑みを向けた際の彼の反応は何故のものなのか、皆目見当が付かない。
「… もしかして、馬鹿にしたと勘違いされた?
だとしたら悪い事しちゃったな。」
何か引っかかる気はするものの、原因が分からない以上考え続けた所で時間の無駄。強いて言うならば、あの笑みが嘲笑に取られてしまった可能性くらいだが、此処で悩んでも仕方がない。辺りに誰も居ない場所で一人「ま、良っか」と小さく呟くと、借りて来た本を手に自分の城へと戻り、一人黙々と課題に着手した。




