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響く音色に想いを乗せて

作者: 国先 昂


「リヴェラ。最近ピアノの音色が聞こえないと皆が言っている。何かあったのか?」


 第一騎士団で忙しく働く義兄とは週に一度顔を合わせるかどうかになっていた。


 父が死に、家督も継がなければならなくなった義兄は第一騎士団の仕事の引き継ぎと伯爵家の領地経営のため寝る間をおしんで働いていた。


「……いえ、何も。お義兄様こそお疲れなのではないですか?」


 そんな忙しい義兄がわざわざ私の部屋を訪れて話をするなど、ここ最近は全くなかった。

 

 ……小さな頃は別として。


 だから、きっとかなり心配をかけているのも分かっていた。


「ああ。……まぁ、俺の方は騎士団の仕事を引き継ぐまでだから父の追悼コンサートの頃には落ち着いているだろう……それよりもリヴェラこそどうしたんだ?実際あまり弾いてないだろう?俺が仕事から帰ってきたのに気づかないくらい夢中で弾いていたのに、最近はピアノの音色を聞いたことがない」


 義兄の目はどこまでも真っ直ぐに私を見つめる。


「………………」


 私が貝のように口を閉ざすのを見届けると、静かにため息をついた。


「……父の追悼コンサートまで時間が無い。娘として恥じない演奏だけはするように」


「お義兄様……私はどうなりますか?」


「心配する必要はない……。今は忙しくてゆっくり話ができないが、コンサートが終わったらゆっくり今後についても話をしよう」


 私はその言葉にこくりと頷いた。


 義兄は私の頭を一度撫でた後、静かに部屋から出て行った。


 義兄が出て行く姿を見届けた後、そのまま鏡に写る自分が目に入る。


 真っ黒な髪に、やせ細った青白い肌。銀糸の髪に引き締まった体つきの義兄とは似ても似つかない。


 追悼コンサートまであと1週間。


 私はじっと左手を見つめた。


 このコンサートだけは失敗できない。


 だってこれが……。


 私は頭を振ると、静かに譜面を見つめた。


 考えても仕方がない。今できることをするだけだ。


 それができなければ私はここにいる価値を失うのだから。


 私は深夜まで譜面を眺めていた。



 ◇  ◇  ◇

 


「ごきげんよう、リヴェラ様。少しよろしいかしら」


 学園の授業終わりの放課後、荷物の片付けをしていると、見慣れた2人が目の前に立っていた。


「……ごきげんよう。シルヴィア様、クリシア様」


 シルヴィア様は筆頭公爵家のご令嬢。クリシア様も公爵家のご令嬢である。2人とは同じピアノを嗜むということでコンクールやサロンで一緒になることが多かった。


「最近サロンに顔を出さないけれどどうかされたの?……別に気になってるわけじゃなくてよ」 


「もう。シルヴィアったら。素直じゃないんだから。リヴェラ様が最近ピアノを弾いたところを見たことがないから何かあったのではと心配していると素直に言えばよろしいのに……」


「別に心配してるわけじゃ……ただ、私がライバルと認めた貴方が落ちぶれたら私の評判にも傷がつくから……」


 シルヴィア様は外見はキツめの美女に見えるが、少しでも付き合えば情に厚い優しいご令嬢ということが分かる。王太子から溺愛されるのも納得の外見にも内面にも優れたご令嬢だった。


 同じくクリシア様も、文武に優れた落ち着きのある美女で同じく孤児で養子に迎えられた私を色眼鏡で見ず、正当に評価をしてくださる数少ない人だった。


「ここ最近貴方がサロンにも来ず、裏町に通いつめていると噂が立っているから少し心配しているの。何かあるんじゃなくて?」


 クリシア様が心配そうに話しかけてくださる。


「これでも筆頭公爵家の娘だから、大体のことは解決できるわ。……だから何かあるなら言ってちょうだい」


「そうよ。……昔の知人に何か言われてるのではなくて。何か力になれることなら遠慮せずに言ってくれて構わないのよ」


「大船に乗ったつもりで相談なさい」


 シルヴィア様が自信満々に告げる。


 私はどう口を開けばよいのだろう……お二人は本当に心配してくださっているのが分かる。 


「……いえ……少しスランプ気味で……」


 少し考えた後、私の口からはそう言葉が出ていた。


 お二人は顔を見合わせると、静かにため息をついた。


「……そう。それなら貴方の父上の追悼コンサートで恥をかかないように練習なさい」


「……何か話したいことがあれば、いつでも相談してくれて構いませんから」


 その言葉にいろいろな想いが溢れ出しそうになるのを右手を握りしめてぐっとこらえる。


「……行きましょうクリシア」

「ごきげんよう」

「……私はサロンにいるから、いつでもいらっしゃい」


 そう言い残すと、二人は教室を出て行った。


「シルヴィア様もクリシア様も放っておけばよろしいのに」

「お二方ともお優しいから」

「リヴェラ様、ピアノの才能に恵まれているからビンセント家の養子なったんでしょう?」

「それなのにピアノも弾かずに裏町を遊び回るなんて……やはり生まれは変えられませんわね」

「ええ、しかも義理の父上が亡くなってからでしょう?きっとうるさく言う方がいらっしゃらなくなって羽目を外されているのではなくて」

「クロノス様がお気の毒ですわ。あんなお荷物だけ残されて」

「あら、役に立たないなら養子縁組を解消なされば良いのよ。きっと遠くない未来の話ではなくて」


 お二人が去ったのを見届けると、クラスメートは私を見ながら口々に話し出した。


 シルヴィア様とクリシア様は私に対しても公明正大だが、クラスメートは違う。孤児から伯爵家の養子になった私をいつも見下していた。義兄もここの卒業生で、在学中は義兄に憧れていた人も多かったらしく、その妹の私が孤児だというのも気に食わなかったらしい。


 悪く言われるのもほぼ毎日のことで特段気にもならなくなっていた。


 それに彼女たちの言葉も一理ある。


 それは自分でも自覚していた。


「本当にクロノス様がお可哀想」

「はやく、元の場所に戻ればよろしいのに」


 私はカバンを持つとそのまま教室を後にした。



 ◇  ◇  ◇



「……おう、来てたのか」


 髪ははね、服はよれよれ、身なりに一切頓着しないむさ苦しい風貌の男が現れた。


「まだ、こっちが終わらないから少し待っていてくれ」


 男はそう言い残すと、必要な道具を取り物置部屋を出て行った。


 裏道に古くから建つあるあばら家のうちの一つに、私はお邪魔していた。


 物に溢れたこの部屋に来るのも毎日になり、雑然とした部屋で待つのも慣れっこになっていた。


 少しは片付けでも……と思いやりかけたこともあるのだが「物の在り処が分からなくなるから、余計なことをするな」と男に怒鳴られてからは、極力物に触らないようにしていた。


 実際、危なそうな道具が多そうだし……。


 小さな家なので、隣の声も筒抜けである。


「痛ぇ……痛ぇよ……もっと優しく……」


「大の大人が何を泣き言言ってんだ!もう少しで終わるから我慢しろ」


「ひ――!!!!」


 ゴキッ


 何かがはまる音とともに、辛そうな声が途絶えた。


「これではまったから大丈夫だろう。念の為、しばらく包帯で固定しておくから外すなよ」


「先生!!痛くねぇ。相変わらず腕は良いな。ありがとう!!」


「くれぐれも無茶するなよ。また外れるぞ」


「分かった。ありがとな」


「おう。お代はちゃんと置いていけよ」


「分かってるよ。じゃあ、またな先生」


 そう言うとガタイの大きな男性が部屋を出ていった。それと入れ替わるように男が物置部屋に戻ってくる。


「待たせたな。……見せてみろ」


 入るやいなや、私の左手を掴む。


「握ってみろ」


 差し出された手を握る。


「少しずつ弱くなってるな……あと1週間って言ってたな?」

「はい」

「とにかく極力使うなよ。じゃないと1週間持たないぞ……」

「……分かっています」

「なら良い。じゃあ痛み止め打ってやるから、服をまくれ」


 私が服をめくると注射をためらいもなく左手に打った。相変わらず鮮やかな手際である。注射の効果か、少しずつ痺れが治まってくる。


「痛み止めは言葉の通り痛みを、痺れを紛らわすだけだからな、早いところ手術するほうが良いぞ」


「……………………」


「ま、お前の身体でお前の人生だから好きにすればよいが、いざとなったら俺は医者としてするべきことを行うぞ」


「はい……ありがとうございます。先生」


 目の前のむさ苦しい男は裏町で名の知れた腕の良い怪我専門の医者だった。


 男に出会ったのも偶然……いや、もしかしたら義父が巡り合わせてくれたのかもしれない。

 


 半年前、義父が馬車の事故に巻き込まれ急死した。


 その知らせを聞いた私は、現場へと急いだのだが、その現場で処置をしていたのが今目の前にいる男である。


 義父は残念ながら助からなかったが、他にも怪我人がいたため、目の前の男が懸命に処置をしていた。


 私は目の前で息絶えた義父を見つめ呆然としていたのだが、「何ぼーっとしてんだ!!まだ、死んでないヤツがたくさんいるんだ。お前も手伝え!!」と怒鳴られ、男に言われるがまま、救命処置を手伝った。


 全員の処置が終わる頃には辺りは真っ暗になっていた。亡くなった義父の身体は一緒に来ていた執事が一足先に家へと送り届けていたため、現場には私一人が残っていた。


「……助かった。俺は裏町で医者をしているカイン。……父親が亡くなったばかりなのに怒鳴って悪かったな。しかもお前、貴族のご令嬢だろう?暗くもなったし馬車を呼ぶよ」

 

「……いえ。私も手伝えて良かったです」

 

 ただ義父の亡骸を呆然と見つめるよりも、できることをした方が正直気が紛れて良かった。


 義父か亡くなった。


 これから私はどうなるのだろう?


 義父が死んだことよりも、これからの自分がどうなるのか考えている醜い自分を直視しなくてすんだ。人助けはその罪悪感を少しの間、紛らわせてくれた。


「リヴェラ!!」


 ちょうど医師が馬車を呼ぶ前に、憔悴した様子の義兄が私を迎えに来てくれた。


 義兄の姿を見た途端、目から涙が溢れてきた。


 ゆっくりと義兄は私を抱きしめる。


「……帰ろう」

 

 私は号泣して返事もできず、ただただ頷いた。


 この涙は何の涙だろう。


 大好きな義父が亡くなった。


 ピアノの師としてはとても厳しい人だった。


 厳しい言葉に幼い頃は陰で泣いてばかりいた。


 そんな時はいつも義兄が慰めてくれた。「自分に才能が無いばかりにごめんね」と。


 義父は義兄の前では全く義兄を褒めなかった。


 そのくせ私の前では文武両道に優れた義兄のことを自慢気に話すような不器用な人だった。


 私が成長し、定期的に行うようになった中庭でのコンサートは義兄と義父が観客になり、言葉はなかったけれど2人の間に穏やかな時が流れるようになっていた。


 義父は孤児院でピアノを弾いていた私を孤児院から連れ出して娘にしてくれた。


 温かい家と温かい食事。何より大好きなピアノを与えてくれた。


 そして歪ながらも家族としての温もりを与えてくれた。


 私は……私は……。 


 悲しくて辛くて、どうしようもなくて。


 ただ、ただ義兄の胸の中で子どものように泣いた。


 葬儀は義兄が取り仕切り、つつがなく行われた。その場で生前の父の関係者から父を弔うコンサートを開くことを告げられ、父の義理の娘の私ももちろん演奏することになった。


「……あまり根を詰めないようにな」


 義父が亡くなってから、取り憑かれたかのように寝る間を惜しんでピアノの練習に励んでいる私を心配して、義兄が部屋に顔をだした。

 

「……お義兄さまこそ」


 騎士団の仕事に加え、慣れない領地経営もこなしているのだから義兄の負担は計り知れない。


「お前のことはきちんと考えてある……だから心配するな」


 そう告げると義兄はいつものように私の頭をひと撫でして部屋を後にした。

 

 孤児として引き取られた私だが、この十年で義兄とは確かな絆を育んできたと自負している。義兄は私にはほかの人に見せない顔を見せてくれる。

 

 ……だからこそ欲が出てきた。


 自分でもピアノを頑張れば義兄の横に並べるのではないかと。現に義兄は未だに婚約者がいない。年齢からしても誰かと婚約しても良さそうなのに……それはきっと……。


 自分に良いように考えながら、私はその日も遅くまで練習に励んだ。


「あれ……」


 左手がなんだか痺れている気がする。


 ここ最近は確かに練習ばかりだったから指が痙攣しているのかも……。


 とりあえず寝てまた明日。


 焦る気持ちを抑えて布団に入る。その時はまだ、指の痺れが一過性のものだと考えていた。


 ところが、次の日から左手の痺れは収まるどころか日々、激しくなっていった。


 最初に痺れを感じてから1週間後、ついにピアノの練習に支障をきたしだした。父の追悼のためのセレナーデを上手く弾くことができず、その事実に愕然とした。


 焦燥に駆られ、とにかく何とかしないとと頭に思い浮かんだのが、あの医者の姿だった。


 私は学園が終わるとすぐに裏町に繰り出した。


 医者が告げた裏町は、もともと暮らしていた孤児院の近くにあった。


 寂れた古い建物が立ち並ぶ。日もあまり当たらず日中でも薄暗いこの場所は、普段なら足を踏み入れるのに躊躇しただろう。


 ただ、この時の私はとにかく必死だった。

 

「……あの、お医者様のカイン様のお宅はどちらでしょう?」


 通りかがりの女性に声をかける。


「先生ん家かい?ここの通りの突き当たりだよ。お嬢さん身なりが良いね。……この辺は治安があまり良くないから、用が終わったら早く家へ帰んな」


 女性は私の姿を見て心配そうに声をかけると足早にその場を後にした。


 とりあえず、教えてもらった場所へ足を進める。


 突き当たりの家は看板も何もなかったが、ドアが明けっ放しになっていた。


 思い切って、家の中に足を踏み入れる。


「ごめんください」


「……今は休憩時間だぞ。急患か?」


 奥から以前見かけたボサボサ頭にヨレヨレの服を着た男性が顔を出す。


「助けてください!!」


「……なんだ?……お前……あの時のお嬢ちゃんか……ま、とにかく入れよ」


 そう言うとカイン医師は私を診察室に招いてくれた。


「で、どこが悪いんだ?」


 カイン医師はすぐに私の診察に入る。

 

「左手が痺れて……」


「見せてみろ」


 私は言われるがまま、左手をカイン医師に差し出した。


「……曲げると痛むか?痺れはいつ出る?」

「曲げると痛むことはありません。左手をよく使った後に……」

「よくってどんな?」

「ピアノを弾いた後……」

「ふむ。普段の痺れは?」

「たまに出ます。いつ出るかは分かりませんが」

「採血するからそのまま左手を出せ」


 カイン医師は採血すると、隣室にしばらくこもった。そして、カルテを持って戻ってくる。


「こりゃあ、左手首の関節症だな。手首の中に腫瘍ができていてそいつが痺れの原因だ。手術すればすぐに治るぞ」


 治るという言葉にとりあえず安堵する。でも、手術……?


「手術ですか?」

「おう。心配するなこれでも腕利きだからな。日常生活に支障は出ないように治してやる」

「あの……ピアノは弾けますか?」

「うん?ピアノ?弾けるっちゃ弾けるが……お嬢ちゃんピアニストになりたいのか?」


 私はその言葉にこくりと頷く。


「……俺は隠しごとはしない主義でな。日常生活に支障はないが、正直ピアニストになれるほど回復するかは分からん。今までの例でいくと難しいと思う」


 その言葉に目の前が真っ暗になる。


 ピアニストになれない?


 ピアノが弾けなくなる?


 それじゃあ、私が今の家にいられる理由がなくなってしまう。


「他に方法はありませんか?」


「……ないな」


 カイン医師の言葉が静かな病室に響き渡る。


 方法はない。


 ピアニストになる道は閉ざされようとしている。


 でも……もしかしたら。

 

「あの、手術せずに治す方法はありませんか?1ヶ月後に父の追悼コンサートがあるんです。それだけは何とかして出たいんです」


「……治すことはできんが、痺れや痛みを抑えることはできる。ただ、日々腫瘍は大きくなるから早く手術するほうが良いんだがな……。どうしてもというなら、痛み止めを処方してやるよ」


「お願いします!!」


 1ヶ月後、コンサートの後に義兄との話し合いがある。その日に正直に話せば、もしかしたらそのまま私がいることを許してくれるかもしれない。


 そのためにも義父のコンサートだけはなんとしても成功させたい。


「それじゃあ、普段はこの薬を朝と晩に飲むこと。痺れがひどくなったら、薬が効かなくなってきているから直接病院で痛み止めの注射を打つしかない。腫瘍も大きくなるから1ヶ月がそれこそリミットだ。1ヶ月後には手術するぞ。それでも良いか?」


「……はい」


 1ヶ月。この1ヶ月全身全霊を注いでピアノを弾こう。義父に教えてもらった全てを出し切れるように。


「よし。じゃあ、これが薬だ。後、ここに来る時はこの通り以外は通るなよ。一応ここは俺の睨みがきいてるから、喧嘩や揉め事は御法度になっている」


「分かりました。お金はこれで足りるでしょうか?」


 持って来ていた、金貨の袋を差し出す。


「十分、手術代も入れて賄える。本当はお釣りも出るが、お前金持ちなら寄付してくれないか。ここは貧しいヤツが多くてなかなか診療費がもらえずに苦労してるんだ」


「もちろん構いません。ただそのかわり、私のことは内緒にしていただけないでしょうか?」


「良いぞ。じゃあ、契約成立だな。……痛みや痺れがひどくなったらいつでも来い。人に見られたくないなら、隣の物置部屋で待っていたら構わない」


「分かりました。先生、ありがとうございました」


「おう!これも何かの縁だからな。ま、無理せず何かあれば来い」


 それから1週間は薬の効果で何とかピアノを弾くことができた。でもそこから薬の効きが悪くなり、毎日カイン先生のところに通いつめるようになった。


「お前、ピアノを弾くのしばらく禁止な。本番前に使えなくなるぞ」


 本番まであと、十日あまりになった頃カイン医師に告げられた。


「……でも、練習しないと……」


「いや、気持ちは分かるが左手は限界だ。無理して弾けても後一回ぐらいだ。本番弾きたいんだろう?」


 私は先生の言葉にこくりと頷く。


「今まで十分に練習してるんだろ?なら、本番1回で成功させてみろよ。それまでは何とか持たしてやるから、毎日学園終わりに来い」


 そして、試練の日々が始まった。


 できるだけ左手は使わない生活。


 ピアノを弾かなくなり、学園終わりに裏町に寄っていることを、いろいろな人が心配してくれたり非難めいた目で見たりするようになってきた。


 私自身詮索されるのが嫌で、もともと人付き合いはあまりしてこなかったが、知り合いの人と会ってもなるべく避けるようになった。


 それでも、何とかあと少し。


 私は焦る気持ちを隠して譜面を見つめた。


 何とか義父のコンサートだけは、自分の手でピアノを弾きたい。


 それが私を見出し養子にしてくれた義父への餞になると信じて。


 私自身の道が開けることを信じて。


「……失礼します。お嬢様、夜食をお持ちしました」


 私が夜遅くまで譜面を眺めていると、決まって執事のミハエルが差し入れを持って来てくれた。


 ミハエルは祖父とも言える年齢で、義父の前の当主からここに仕えているらしい。一切私の詮索をせずにしたいことをさせてくれる。


「……ありがとう」


「いえ、あまり根を詰められませんように……左手は大丈夫ですか?」


 その言葉にギョッとする。


「……どうして?」


 どうしてバレたのだろう。


「ずっと仕えていれば左手の違和感に気づきます。裏町のお医者様からの薬もいただいているようでしたし様子を見させていただいておりましたが、今週になり今までとはご様子も違うので、僭越ながらお声をかけさせていただきました」


「お義兄様には言わないで!!」


「はい、承知しております」


 激昂する私の声とは対照的にミハエルは静かに答える。


「……コンサートが終わったらきちんと自分で言うから」


「お嬢様、大丈夫ですよ。貴方のお義兄様は立派な方です。どんな貴方であっても受け入れて下さいます」


「……でも、私が嫌なの」


 このまま何も残さずに消えていくのは。


 私が持っていただった一つの物をただ失うだけなのは。

 

「……ですが、早いほうがよろしいのでは?」


 ミハエルはどこまで見通しているのだろう。


「……お医者様からはコンサートがリミットだと言われてるの」


「……そうですか。それならば私にできることがあれば遠慮なくおっしゃってください」


「……ありがとう」


「いえ、失礼しました」


 そう言うといつものような静かにそ場を後にした。


 もう少し。あと少しだから……。


 そしてミハエルの助けを借りながら左手を極力使わずに日々を何とか過ごした。お義兄様とは私の部屋で話をして以来忙しいのかすれ違いのまま特に話をする機会もなく、本番の日がやって来た。


 念の為、コンサート前にカイン医師に診てもらう。

 今回で痛み止めを打つのも最後になる。


「よし。よく我慢したな。これなら1回くらい無茶しても大丈夫だ。行って来い」


 カイン医師にも背中を押され、私は診療所を後にした。後は家に帰って着替えたら本番である。コンサートは家の中庭に特設会場を作り、そこで行われることになっていた。


 はやる気持ちを抑え、家路を急ぐ。


 急いでいたあまり、普段使わない道に出たのも天の采配なのかもしれない。


 みすぼらしい女の子と出会い頭にぶつかる。それ自体は大したことではなかった。


 私とぶつかった拍子に尻もちをついた女の子に手を差し出す。


「大丈夫?」


 その子が怯えた目で私を見つめた。


 いや、その瞳は私を映してはいない。


 見つめる視線の先はもっと上……?


 そう思い後ろを振り向いた瞬間、頭を鈍器で殴られた。


 そして世界は暗転した。




 目を開けると見慣れた顔が私を覗き込んでいた。

 

「……お嬢ちゃん気がついたか?」

 

「……先生……あの子は?」

 

「大丈夫。騎士団に保護してもらった。お前を殴った犯人も無事に捕まえた」


「どうやって?」


「近所の女連中が倒れているお前と泣きじゃくる子供を見つけてな、それで俺のところに飛んで来てくれた。犯人は子供から話を聞き出したらしい」

 

「……そうですか。今何時ですか?」

 

 窓から見える景色は薄暗い。もう間に合わないことを半ば承知の上で聞いてみる。


「……頭の傷自体は大したことがないが、お前の意識が戻らなくてな。念の為ベッドで寝かせていたんだ。……もう夕方だ。すまなかった」


 カイン医師は私の目を見て頭を下げた。

 私はゆっくり頭を横に振る。


 先生が謝る必要は全くない。

 普段通るなと言われていた道を通った私が悪いのだ。


 あの子。

 昔の自分を見ているようだった。

 きっと義父に出会わなければ、私も同じような生活をしていたかもしれない。


 それが先生を始め、たくさんの人に心配してもらいこうやって助けてもらえている。


 もう十分である。


 本当は今日のコンサートも義父の追悼と言いながら自分のために出たかっただけだ。


 きっとそれを神が見咎めたのだろう。


 自分自身が招いた結果だった。


「……帰ります」


「送ろう。事情も話したほうが良い」


 私はもう一度ゆっくり首を振った。


「……1人で話をしたいです」


「……分かった。とりあえず喧嘩になったら家に来い。ついでに手術してやる」


 ……喧嘩。できるだろうか。

 お義兄様の何とも言えない悲しげな表情が頭に浮かぶ。


「……ありがとうございました」


 私は静かに診療所を後にした。

 


 家はいつもと変わりがないように見えた。


 昼に行われた追悼コンサートの客も既に家路につき、残っているのは我が家の家人だけだろう。


 ドアを開ける前に、そっと扉が開きミハエルが招き入れてくれた。


「クロノス様が音楽室でお待ちです」


「……分かりました」


 私はドアをノックし、音楽室へと入った。


 音楽室では義兄が1人ピアノの横にたたずんでいた。


「……なぜ来なかった?」


 義兄は私の方を振り向きもせずに淡々と言葉を発する。


「……申し訳ありません」


「理由を聞いているんだ!!」


「私の個人的な理由としか……本当に申し訳ありませんでした」


「お前は……父のことを慕っていると思っていた。うぬぼれかもしれないが私のことも……」


「それは……」


 私は思わず言葉に詰まる。


「なのになぜ来なかった?理由はなぜ言えない?お前にとって俺はそんなに信用がないのか?」


 表情は分からないが、義兄は何かに耐えるかのように言葉を絞り出す


「いえ……そんなことは……そんなことは決してありません」


 私も必死で答える。


「……ではなぜ……いや、答えられないんだな」


 そして寂しそうにそっと呟く。


 どんなに望んでも時は戻せない。


 義父の追悼コンサートに出られなかった事実は消せない。


 でも今までお世話になった人のために私ができることはまだ残っている。

 

「お義兄様。今、ピアノを弾いてもよろしいでしょうか?」


 私の言葉に義兄はそっとピアノから離れた。


 私は椅子に腰掛ける。


 今なら。


 今なら、弾ける気がする。


 私の生涯の想いを傾けたセレナーデが。


 そして私は全身全霊の想いを込めてセレナーデを弾いた。


 義兄しかいない音楽室にピアノの美しい音色が響き渡る。


 最後の一音を弾き終わり、私は静かに鍵盤から指を離した。名残惜しいけれど、これが私の最後の演奏である。


「……これだけの演奏ができるのに……なぜ……しばらく、顔を見たくない。俺の気持ちが落ち着くまで顔を見せるな」


「……分かりました」


 私はピアノの椅子から立ち上がるとそっと義兄だった人にお辞儀をして音楽室を後にした。


 義兄だった人は最後まで私の方を見ることはなかった。


 

「……はやまりませんように」


 ミハエルが玄関を目指す私を呼びとめる。


 私はゆっくり首を振った。


「クロノス様は事情をご存知ないだけです。お嬢様がお話されれば分かって下さいます」


「……お義兄様は分かってくださるわ。でも、他の方は?何も持たない私が隣に立つのを許してくれて?」


 その言葉にミハエルは言葉を詰まらせる。


「私はこれまでお義父様からもお義兄様からもたくさんの物をいただきました。もう十分です」


 そう目に見える物も見えない物もたくさん与えてもらえた。だからきっと大丈夫。


「……それでは、老婆心ながら一言。お亡くなりになった旦那様が以前演奏旅行で行かれた田園地方はのどかで暮らしやすいようです。そこの孤児院で教師のなり手を探していると誰かが言っておりました」


「ミハエル……ありがとう」


 私は思わずミハエルに抱きつく。ミハエルもしっかりと私を抱きとめてくれた。


「お体に気をつけて、路銀を用意しております。餞別と思ってお受け取りください」


「何から何まで本当にありがとう。……除籍届とお義兄様への手紙を部屋の引き出しに入れているから……お義兄様の気持ちが落ち着いたら渡してちょうだい」


「承りました。どうか……お元気で」

「ミハエルも……本当に今までありがとうございました」


 私はそのまま家を後にした。


 まず向かうは診療所である。


「おっ、スッキリした顔してるな。話ができたみたいだな」

 

「いえ、話はできなかったので手紙を置いてきました。後、人生で一番のセレナーデが弾けました」

 

「……そうか、じゃあ後悔は無いんだな」

 

「はい。だから手術をお願いします」

「承った。すぐに始めるぞ」


 そして手術は無事に成功し、翌々日私は田園地方行きの馬車に乗った。

 


 ◇  ◇  ◇



「先生、今日は何の授業するの?」

 

「今日はお歌を歌います」

 

「やった――!!先生のピアノ僕好き」

「私も」

「歌うのも好き」

「私も」


 笑顔の子どもたちと笑い合う。


 こんな日が来るなんて、手術前は思いもよらなかった。


 田園地方に来て、飛び込みで孤児院に突撃した私を院長先生は温かく迎えてくださった。無事に教師の職を得てから早いもので1年の月日が立っていた。


 はじめは動かしづらかった左手も、何度も動かす練習をするうちに日常生活には困らないくらいに動かせるようになった。


 ピアノも簡単な曲なら弾くことができるようにまで回復した。


「先生、今日は何のお歌を歌うの?」

「何の歌が良いかしら?」

「春の歌!!」

「良いわね、じゃあ、春の歌を歌いましょう」


 この曲は、義父が最初に私に教えてくれた曲だ。簡単で誰でも弾きやすいし、どこか馴染みのあるメロディ―で覚えもしやすい。


 以前は私1人で弾いていたピアノを、今は子どもたちと一緒に奏でる。


 ピアニストにはなれなかったけれど、きっとそれ以上に充実した日々を送っていた。


 一曲終わったところで、院長先生が呼びに来た。


「リヴェラ先生、お客様がお見えです。応接室にお通ししたから行ってらっしゃい。ここは私が見ておくわ」


「私にお客様ですか?」


 一体誰だろう?


 ここのことはミハエルしか知らないはずだけど……。


 貴族籍を除籍するにあたって、学園にも退学届けを提出しておいた。その頃の知り合いとは一切連絡を取っていない。シルヴィア様が大々的に皇太子様とご結婚したニュースは新聞で読んだけど。


 私は応接室のドアをノックしゆっくりと扉を開いた。


 そこにいたのは……。


「……クロノス様?」


 以前より少しやつれた表情をした、クロノス様がそこには立っていた。


「リヴェラ……やっと会えた」


 泣き出しそうな顔で私を見つめる。


「どうしてここが?」


「ミハエルが田園地方に行くことを勧めてくれて……たまたまこの側を通りかかったら懐かしい春の歌が聞こえてきて……もしかしたらと」


 ミハエル。もう、ばらしちゃったのね。


「とりあえずおかけください」


 私の言葉に従い、クロノス様は応接室の椅子に腰掛けた。


「……君に顔を見せるなと言ったあの後すぐに、少し言い過ぎたと思って君の部屋を訪れたら既に君はいなくて……ミハエルに聞いたら手紙と除籍届けを残して出て行ったと言われ……手紙も読んだよ。君が辛い想いをしていたのに気づかずにすまなかった。あれだけピアノに夢中の君が弾かなくなるなんてよっぽどの理由があっただろうに……裏町の男の元に通っているという噂を耳にして、それで頭に血がのぼってしまったんだ」


「あの、裏町の男性ですが……」


「分かっている。君の左手の治療を施してくれていた医者だったんだろう?」


 その言葉に私は頷いた。


「君がいなくなって裏町にいるのではと君を探しに行ったら、カイン医師に偶然出会ったんだ。話をするうちに君のことを教えられて、さんざん叱られたよ。君ほど一途な子に出て行かれるなんて、よっぽど下手を打ったなと」


「いえ……もともと隠していた私が悪かったのです」


「いや、君をそこまで追いつめてしまった俺が悪かったんだ。本当にすまなかった」


 クロノス様は私に向かって丁寧に頭を下げた。 


「本当に気にしていませんから、頭をお上げください。クロノス様。私、ピアニストにはなれませんでしたが、今教師として働いています。教えていただいたことを生かした職業に就けて毎日充実した日々が送れています……だからもう気になさらないでください。貴方とお義父様にはたくさんの目に見えない大切な物を頂きましたから、それだけで十分です」


「……春の歌が聞こえてきた」


「ええ、お義父様に教えていただいた最初の曲です」


「中庭でよく弾いていたね」


「なぜかお義父様によくリクエストされましたから」


「……リヴェラ、君は今幸せか?」


「はい」


 私は忖度なく笑顔でクロノス様に答えることができた。


「……そうか、俺は幸せじゃない。君がいなくなってから心配で仕事も手につかず……とうとう伯爵家を追い出されてしまった。今はただの平民のクロノスだ。だから、リヴェラ、俺と結婚を前提に付き合ってもらえないだろうか」


 えっ?伯爵家から追い出される?今は平民?付き合ってほしい?クロノス様が?

 

 情報が過多すぎて上手く頭の中で処理できない。


「伯爵家はどうなったのですか?」


「……従兄弟に譲った」


「譲ったって……大切な思い出の場所でしょう?」


 簡単に譲れるはずがない。


「……でも君は戻って来ないだろう」


「それは……そうですが……」


「君の隣が俺の居場所だ。小さい頃からずっとそうだった。だから頼む。俺と付き合ってくれ」


「ですが、カイン様。これからどうやって暮らしていくのですか?」


「こちらの騎士団に就職は決まっている。家も小さいが購入済みだ。家では雑用係としてミハエルが働いている」


 ミハエルが雑用係!?それはまた……


「私でよろしいのでしょうか?仕事も辞めたくありません」


「もちろん。家事全般はミハエルが手伝ってくれる、俺もできることは行う……だから頼む」


 こんなに必死なクロノス様を見るのは初めてだった。捨てられた子犬のようにすがるクロノス様の頭に耳が見えるようである。


「私も……ずっとお慕いしておりました。私で良かったら喜んで」


「やった――!!!!」


 クロノス様は私をギュッと抱きしめた。


「幸せにする。いや、一緒に幸せになろう」


「……はい」


 私たちは院長先生が心配になって応接室に来るまでずっと抱き合っていた。


 その後、クロノス様が騎士から領主として田園地方を治めることになったり、シルヴィア様が新婚旅行先に田園地方を選び涙の再会をしたり、クロノス様そっくりの男の子が生まれてミハエルが飛び上がって喜んだりと、いろいろありましたが、とにかく今私は幸せに暮らしています。


 心配していた左手ですが、なぜか年々動くようになり、今では孤児院でピアノを弾きたい子どもに教えることもできるようになりました。


 きっと神の……いえ、お義父様の采配ですね。


 お義父様に教えていただいたピアノのおかげで私は幸せになれました。


 このピアノの音色、お義父様聞こえていますか?


 愛を込めて。







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