恋するS君~夏のプールにて~
ナルシストの語源はギリシャ神話の美少年であり、水面に映る自分自身の姿に恋をしたナルキッソスにあるという。
この話を聞いた時、僕は同級生のS君のことを思い出した。
S君は今でいうスクールカースト最上位とか陽キャみたいな感じで、大勢の友人に慕われるクラスの中心的存在だった。
いわゆるイケメンじゃないがいつも笑顔で、見るからに優しく人の良さそうな顔立ち。全身から明るいオーラが滲み出ている、爽やか系男子。生徒でも教師でもよっぽどひねくれ者じゃないとS君を嫌う人なんていないだろう。そう思わせるような、明るく活発な少年だった。
そういう奴だから、大人しく目立たないタイプの僕もS君とは仲良くさせてもらったのだが……そんな彼が変わってしまったのは、ある夏の日のことだった。
S君のようなタイプの男子というものはだいたいスポーツ万能で、S君もやはり運動神経抜群。特に水泳が好きで、その日も腕を車輪のように大回転それはもう見事にプールの中を泳ぎまわっていた。クラスのみんなはそれを、キャーキャー言いながら見守っていたのだが……その動きが急に止まったかと思うと、いきなり水の中に沈み泡だけが湧き上がってくるようになった。
「何あれ、ヤバくない?」
「先生に言わなきゃ」
動揺がさざ波のように広がり、やがて学校全体に響き渡る悲鳴へと変わる。僕がどうすればいいのかわからず、オロオロしていると男の先生が必死の形相でプールの中へと入っていった。
「S! しっかりしろ!」
水中からS君を救いあげた先生が必死に呼びかければ、S君はゆっくりと目を開く。肌は青白くなり、唇は紫になっていて明らかに危険な状態だった。
だが、らんらんと光る目は熱を帯びていて――S君はうっとりしたように言った。
「先生。僕、恋をしました」
それ以来、S君は暇さえあれば水を見つめるようになってしまった。
水泳の授業になるとプールから離れようとしないし、休み時間もバケツに水を汲んではじっとそれを覗き込んでいる。以前までの明るかったS君は見る影もなく、日に日にS君の周りからは人が離れていった。
僕はそんなS君を見ているのが悲しかった。だが――それ以上に、興味が湧いてしまった。
「S君、水の中にはどんな人がいるの?」
その日も水たまりを見て、じっとしていたS君に僕はそう尋ねる。子どもらしくストレートな質問に、S君は頬を赤らめつつもどこか楽しそうな笑みを浮かべる。その顔はまさしく、「恋」をしているようにしか見えなかった。
「えっと、笑顔がすごく素敵な人で……明るくて、優しそうな人なんだ……」
恥ずかしそうに、だけどその目はしっかりと水面を見つめたままのS君。その視線につられて、僕も水の中を覗き込むが――そこには何も映っていなかった。
「ただの水たまりじゃん」
思わず僕がそう言ってしまえば、S君は射殺すような視線を僕に向けてきて……そこから先は、何も言えなくなる。
どうやらS君は、もう以前のS君じゃないらしい。
恐ろしい視線に言葉を失ったものの、恋するS君の姿を見て僕は漠然とその事実を悟ったのだった。
S君が夜のプールに忍び込んで亡くなった、と聞いたのはそれから数年後の夏だった。
あれからS君の行動は常軌を逸していき、学校にも行かずとにかくたくさんの水があるところばかり見るようになった。川、池、水族館、貯水槽……S君の両親は学校やカウンセラーにも相談したがどこに行ってもS君の水に対する執着はなくならず、しまいには自宅の浴槽で顔を突っ込もうとしたこともあったらしい。
「S君は水の妖怪に魅入られた」
「溺れた時に、良くないものに取り憑かれた」
「幽霊にあの世へ引きずり込まれた」
そんな噂が流れ、学校の怪談として語り継がれるようになったが――きっとそのどれも真実かどうかはわからなくて、真相は闇の中なのだろう。
……ただ僕は、S君は自分が恋したという「彼」の元へ会いにいったのではないかと思う。
S君が恋に落ち、心を奪われたという場所はあの学校のプールだったから。彼の心を奪ったというその相手が、S君に姿を見せたのはあのプールの水の中だったから。
S君の恋した相手――S君が語る「笑顔がすごく素敵な人で、明るくて、優しそうな人」は紛れもないS君自身のことでもあるから。
夏のプールの中に現れた幻覚。死の間際に見た蜃気楼、人を狂わせる何か。
S君はそんな相手に恋をし、再び水の中に入って会いに行こうと思ったのだろう……。