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風の声が聞こえる町で

作者: のっこりん

人はなぜ、人と出会うのだろう。

誰かと巡り合い、ふとした一言に心が震え、

何気ない日常のなかに、たしかな光を見出す。

そんな瞬間のために、私たちはこの世界に生きているのかもしれない。


 


この物語の舞台は、

四季の移ろいがはっきりと残る、風の吹く田舎町。

山々に囲まれ、川のせせらぎが耳に届き、

夜になれば星が手に届きそうな、静かで、忘れられたような場所。


 


主人公は、心に深い傷を負い、

都会から逃げるようにこの町にたどり着いた青年、水島陽介。

何も信じられず、人との距離を保ち、

孤独という名の静寂に身を沈めて生きていた彼の前に、

ある日、風のように明るく、

しかしどこかに影を宿す少女、柚木澪が現れる。


 


この物語は、ふたりが過ごした、たった一年の記録。

でもその一年が、二人の心を変え、

過去の痛みを包み込み、未来への扉を開いていく。


 


春の風、夏の雷、秋の静寂、冬の雪。

自然の中で呼吸するように、ふたりの感情がゆっくりと育っていく。

言葉にできない想いが、手紙となって綴られ、

風に乗って誰かの心に届くように――。


 


これは、「風の声」が聞こえる町で出会った、

ひとりの青年と、ひとりの少女が紡いだ、静かで深い愛の物語。

最後のページを閉じたとき、

あなたの心にも、静かな風が吹きますように。


 


――風が語る、忘れられない一年の物語を、今からはじめましょう。



序章 風の声を聴いた日

風が鳴いていた。

それはどこか懐かしく、そして痛みを含んだ音だった。


 


四月の終わり。

水島陽介は古びた駅のホームに降り立った。

山あいに抱かれた小さな町「朝日野」。

昔、祖父母に連れられて数度訪れたきりだったその土地に、

十年ぶりに――いや、逃げるように帰ってきた。


 


小さなスーツケースをひとつ転がしながら、

駅の階段を降りる。

空気は澄んでいた。

街とはまるで違う。

深く呼吸をすると、肺の奥が少しだけ痛んだ。


 


「……誰もいないな。」


駅前にタクシーも、迎えの人影もない。

だが、陽介にとってはそれでいいと思った。

できるだけ静かに、誰にも見つからずに、

人としての音を立てずに暮らしていけるのなら、それでよかった。


 


駅から町まで、徒歩二十五分。

山沿いの道を歩いていくと、田畑が広がり、

その向こうにぽつんぽつんと、民家が見える。

誰かが畑を耕している音、鳥のさえずり、

そして、風――。


 


耳をすませば、風の音はときおり人の声のように聞こえた。

それは亡き祖父がかつて言っていたことだった。


 


「朝日野の風ってのはな、昔から“言葉を運ぶ風”って言われてたんだ。

想いが強ければ強いほど、風が運んで、誰かの胸を揺らす。そんな風だ。」


 


当時、陽介は笑っていた。

けれど今は――その言葉の意味が、なんとなく分かる気がした。


 


祖父が遺した古民家。

裏山のふもと、柿の木のそばに建っている。

静かに開け放たれた玄関。

畳の香り、陽の光の温もり。

都会での暮らしでは、もう忘れてしまった感覚だった。


 


陽介は、靴を脱ぎ、ゆっくりと土間を踏む。

どこかで風鈴が鳴った。

それは季節外れの音だったが、不思議と心に染み込んでいった。


 


彼は、この町で生きると決めた。

誰にも知らせず、もう一度だけ、

世界を信じ直してみようと――。


 


数日後、陽介は町の一角にある古い小屋を借り、

「古書室 えにし」と小さな看板を掲げた。

売る本は、祖父が遺した書棚の蔵書と、東京から持ち帰った少しの文庫本。

客は来なくていいと思っていた。

できれば、風と文字だけで生きていたかった。


 


そんな彼のもとに、

ある日、風と一緒に、少女が現れた。


 


「ねぇ、ここって……図書館じゃないよね? でも、入りたくなったんだ。」


陽介が顔を上げると、

そこには春の光のような笑顔をたたえた少女が立っていた。


 


その瞬間、彼の中に、何かが確かに吹き込まれた。

音もなく、優しく、そして抗えない風が――。


 


それが、すべての始まりだった。



第一章 花びらの下の孤独

その日、古書室「縁」には風が吹き抜けていた。

木の引き戸を開け放ったままにしていたので、

外の桜の花びらが、ふわりと床に舞い落ちている。


 


陽介は店の奥に腰かけ、文庫の補修作業をしていた。

明治時代の詩集。ページの端がかすれ、表紙は剥がれかけていた。

湿気と紙のにおいが混じったこの空間だけが、

彼にとっては安全地帯だった。


 


その時だった。

カラカラと引き戸が開く音。


 


「……こんにちは!」


明るい声とともに、少女が現れた。


 


「えっと、ここ……お店ですか? それとも……えっと、本屋? 図書館? カフェ?」


「古本屋です。」


陽介は少しだけ間を置いて、答えた。

少女はぱっと顔を輝かせた。


 


「やっぱり! なんかそんな感じがした! 看板の字がいい味出してるもん。」


「どうぞ、ご自由に。」


「ありがとー! あ、私、柚木 澪っていいます。高校三年。ここの町で生まれ育ちました。」


 


陽介は一瞬まばたきして、小さく会釈しただけだった。


 


「……あなたは?」


「……水島です。水島陽介。」


「ふーん、水島さん……うん、落ち着いた雰囲気ですね。すごく。」


そう言いながら澪は、棚の文庫本をひとつずつ丁寧に眺めていった。

物語の背表紙に指先をすべらせるその様子は、

まるで何かを探しているようでもあった。


 


「読書、好きなんですか?」


陽介がふと尋ねると、澪は振り返って笑った。


「うん。特に、だれかの手紙とか、日記のシーンがある小説。人の“心の音”っていうの? そういうの、すごく惹かれるんです。」


 


「……なるほど。」


その言葉に、なぜか胸が小さく鳴った。


 


「でも本って、時々、怖いよね。」


「怖い?」


「うん。知らないはずの気持ちを、“私のことだ”って思わせてくるから。」


そう言ったとき、澪の声にはわずかに震えがあった。

けれどすぐに、それをかき消すように笑った。


 


「ま、それが面白いんだけどね!」


「……そうですね。」


 


陽介は、まだその笑顔の奥を見抜けていなかった。

彼女がなぜここに来たのか、

どうしてあれほど明るさをまとうのか、

その裏に、どんな静かな孤独を抱えているのか。


 


だがそれは、この春という季節がゆっくりと教えてくれるのだった。


 


その日、澪は本を一冊買った。

装丁の美しい短編集。

陽介が、以前自分の棚から抜き出し、読み返したものだった。


 


「これ、気になってたの。なんか、風の話が出てくるよね?」


「ええ。……風が、言葉を運ぶ話です。」


「やっぱり、なんか、そんな気がした!」


 


澪は本を抱え、引き戸の前で立ち止まる。


 


「また来ても、いい?」


「……ええ、どうぞ。」


 


笑顔が、春の光の中で揺れていた。

そのあと、澪は背を向けて、小道を駆け出していった。

風と桜が彼女のあとを追い、

陽介の中にも、ほんの小さな揺れが生まれていた。


 


ひとりでいることに慣れすぎて、

誰かが扉を開けることすら、想定していなかった彼の世界に、

澪という名の“風”が、そっと吹き込み始めていた。



第二章 古書店と手紙と秘密

五月の風はやわらかく、甘い草の匂いを運んでいた。

川沿いの堤防には、黄色いタンポポが群れて咲き、

ときおり子どもたちの笑い声が遠くから響いてくる。


 


古書室「縁」は、相変わらず静かだった。

客足はほとんどない。

だが、毎週水曜日と土曜日、必ず現れる客がいた。


 


――柚木澪。


「こんにちは、水島さん。」


「……こんにちは。」


「今日はね、風がすっごく気持ちよかったの。駅前の桜、ぜんぶ葉桜になっちゃってたけど、それもまた好き。」


 


そんな風に、彼女はいつも自然の話をした。

季節のこと、空の色、鳥の声。

それはまるで、自分の心の中を説明する代わりの言葉のようだった。


 


「この前借りた本、すごくよかったよ。風の手紙が届く話、あれ。」


「……気に入ってもらえて、よかったです。」


「ねえ、私も、風に手紙を託してみたいな。」


澪はそう言って、小さな便箋を取り出した。

手書きの文字が並んでいる。


 


「これ、私の“風手紙”。日記みたいなもの。」


「……誰に向けて?」


「うーん……“まだ会えてない誰か”かな。」


 


そう言って笑う彼女の顔は、どこか遠くを見つめていた。

陽介は、それを見て、ふいに自分の過去を思い出した。


 


――二年前。

東京の編集プロダクションに勤めていた陽介は、あるインタビュー記事の掲載で大きなトラブルを起こした。

掲載した言葉が“ねじまげられた”と訴えられ、取材相手から訴訟寸前まで発展した。

社内での責任の所在が曖昧なまま、陽介は退職。

その過程で、仲間だと思っていた同僚にも裏切られた。


 


それ以来、人との距離が分からなくなった。

信じることも、心を開くことも、うまくできなくなっていた。


 


だからこそ、澪の手紙は眩しかった。

まだ誰にも届いていないその“言葉”たちは、

失うことを恐れず、世界に向かって放たれていた。


 


ある日、澪が尋ねた。


「水島さんは、なんでこの町に来たの?」


陽介は一瞬、答えに詰まった。


 


「……静かだから、です。」


「うん、それは分かる。でも、違うよね?」


「……何がですか。」


「“静けさ”が欲しかったんじゃなくて、“誰にも触れられたくなかった”って感じ、する。」


 


陽介は言葉を返せなかった。

けれど、不思議と、その問いを否定しようとも思わなかった。


 


「私ね、実はここに来るとき、少し緊張してたんだ。」


「……どうしてですか?」


「本当はね、家に居場所がないって思ってて……誰かに“見つけてほしい”って、ちょっとだけ思ってた。」


 


その言葉を聞いたとき、陽介の胸に淡い痛みが走った。

そして、ぽつりと口にした。


「……見つけましたよ。」


「え?」


「……あなたのこと。」


 


澪は、何も言わなかった。

ただ、ほんのわずかに顔を伏せ、

唇を噛み、そして――微笑んだ。


 


それは、心に小さなひびが入り、

そこから柔らかな光が差し込んだような瞬間だった。


 


その日以来、澪は「風手紙」を店に置いていくようになった。

帰り際に、小さな封筒をカウンターに置き、

「いつか読んでくれてもいいし、捨ててもいい」とだけ言って帰っていった。


 


陽介は、それらを読まずに封を閉じたまま棚にしまった。

けれど――その一枚一枚が、店の空気を少しずつ変えていった。


 


風が吹く。

その風は、まだ届かぬ想いを運んでいた。




第三章 夏嵐と約束の影

六月の終わり、町は蝉の声に包まれていた。


梅雨明け前の空は、昼も夜も重たく湿り、

空気はじっとりと肌にまとわりついて、

遠くの山並みも、どこか息を潜めているようだった。


 


陽介の店は、午後になると蒸し暑さが増して客足がさらに遠のいた。

それでも澪は、変わらずやってきた。

暑い中でも元気そうに笑い、冷たい麦茶を両手で受け取っては、


「この店、冷房ないのに、なんでこんなに落ち着くんだろうね」

と冗談めかして言った。


 


陽介は、彼女が来るようになってから、

少しずつ、自分の“輪郭”を思い出している気がしていた。

都会の喧騒に飲まれ、誰かの言葉で潰されてしまった自分。

でも、ここでは言葉がそっと置かれ、ただ響くだけだった。


 


ある日、澪はこんな話をした。


 


「……ねぇ、私、小さい頃から身体が弱かったの。今も、薬を飲んでる。だから、高校卒業しても、すぐには町を出られないんだ。」


「……病院に?」


「うん、通ってるよ。けっこう長く。でもね、もう慣れちゃった。私の中に、少しだけ“雨雲”が住んでるの。」


 


その言葉は、明るい顔に似合わず静かだった。

陽介は返す言葉を選びあぐねたが、

澪は逆に言った。


 


「水島さんは? 前に、ここに来た理由、少し話してくれたよね。…静けさを求めてって。」


陽介は少しだけうなずいた。


「……僕は、東京で記事を書く仕事をしてた。あるとき、大きなトラブルがあって、責任を取って辞めました。というより……逃げました。」


「逃げるのは、悪いことじゃないよ。」


「……そうかもしれません。でも、今でも後悔してる。あのとき、もう少し違う言い方ができたら……守れた人もいたかもしれない。」


 


陽介の言葉に、澪はふと真顔になった。

そして小さな声で、言った。


 


「じゃあ、私に約束して?」


「……何を?」


「もし、また誰かに出会って、何かを伝えるチャンスがあったら……“逃げない”でほしい。ちゃんと、自分の声で伝えて。たとえそれが怖くても。」


 


陽介は、彼女の目を見た。

逃げずに、まっすぐに。


 


「……わかりました。」


 


そう答えたとき、不意に店の外で雷鳴がとどろいた。


 


あっという間に空が暗くなり、

稲光とともに、大粒の雨が屋根を打ちはじめた。


 


「すご……! まさに夏嵐。」


澪が立ち上がり、軒先に出る。

袖が濡れていくのも構わず、空を見上げた。


 


「風だ。……来るよ、たぶん。」


「何が?」


「私の手紙が、きっと誰かに届く。」


 


彼女は雨を恐れなかった。

濡れることより、伝えないことを恐れているようだった。


 


その姿に、陽介の胸は締めつけられるような痛みと温もりを覚えた。


 


彼女がいなくなったらどうしよう。

――そんなことをふと思った自分が、怖かった。


 


「澪さん。」


「ん?」


「……また、来てくれますか?」


「うん、もちろん。」


 


そう答えた彼女の声は、

雷の音にも、風のざわめきにも負けないほど、強くて優しかった。


 


だがこの夏の終わり――

その約束が試されるような出来事が、彼らの前に立ちはだかることになる。


それは、突然で、容赦がなかった。


 


そして陽介は、

初めて本気で、誰かを失いたくないと願うことになるのだった。




第四章 紅葉とためらいの中で

夏が去ったあと、町に静けさが戻ってきた。

セミの声がぱたりと止み、代わりに鈴虫の音が夜を支配しはじめる。

日暮れも早くなり、澄んだ空には高い雲。

季節は確かに、秋の気配を運んでいた。


 


古書室「縁」の入口にも、紅葉した葉が舞い込むようになった。

陽介は、それを拾い集めては一冊のノートに挟んでいた。

理由はなかった。ただ、失いたくない“何か”を形にしておきたいと思った。


 


けれど、九月に入ったころから、澪はあまり姿を見せなくなった。


 


「……来なくなったな。」


それが自然な流れのようでいて、どこか不自然だった。

まるで、風のない日が続くように、店内の空気が沈黙をまとっていた。


 


三週間が経ったある午後。

カウンターの上に、一通の封筒が置かれていた。

誰が持ってきたのか、分からなかった。

差出人の名は書かれていない。けれど、陽介にはすぐに分かった。


 


――澪の「風手紙」だった。


 


封を切ると、青いインクでこう綴られていた。


水島さんへ


こんにちは。もう秋ですね。風が冷たくなってきた頃だと思います。


ごめんなさい、会いに行けなくて。

少し、体調を崩してしまいました。お医者さんは「この季節の変わり目がいちばん危ない」と言ってたけど、まさかこんなに苦しくなるとは思わなくて。


でも、心配はしないでください。私は、ここにいます。まだ、この町のどこかで、風の音を聴いています。


本当は、あなたに会いたい。

でも、もう少しだけ、自分の弱さと向き合いたいんです。


また風が変わったら、顔を出します。


柚木澪より


陽介は、手紙を胸に押し当てた。

確かに“声”がそこにあった。

澪の筆跡が、手のひらに温もりを残していた。


 


彼女は、どこかで闘っている。

それがどれだけ孤独なことか、陽介には分かる気がした。


 


だからその日から、陽介は手紙を“返す”ことにした。

言葉にして、想いをつなぐのは怖いことだ。

けれど、それを知っているからこそ、彼は書いた。


澪さんへ


風が止まった日も、

僕は、あなたのことを想っていました。


会えないことが寂しいのではなく、

何も伝えられないことが、寂しいのです。


あなたの言葉は、今も僕の中に残っています。


だから――またいつか、

「ただいま」と言ってくれる日を、

僕はここで待っています。


便箋を封筒に入れ、町の小さなポストに投函した。

宛先は書かない。ただ、風に任せた。

それがきっと、あの子に届くと信じていた。


 


数日後、店の引き戸が静かに開いた。

そして、懐かしい声がした。


 


「……ただいま。」


振り返ると、そこに澪がいた。

少しだけ痩せて、髪が肩にかかるくらい伸びていた。


 


「来たよ。ちゃんと……約束、守った。」


 


陽介は言葉を返さず、

ただ、深く息を吸ってから言った。


 


「……おかえり。」


 


それだけで、すべてがつながった。

沈黙の季節を越えたふたりの距離は、

再び、やわらかな風に乗って、重なりはじめていた。




第五章 白い町と沈黙の手紙

十二月の朝日野町は、すっかり冬の装いだった。

古書室「縁」の前にも霜が降り、店の軒先には小さな氷柱がぶらさがっていた。

風の音は低く、地面をなぞるように静かに吹いていた。


 


澪が再び店に通うようになって、一ヶ月が経っていた。

体調は万全ではないと言いながらも、

笑顔は変わらず、いや、それ以上にやわらかくなっていた。


 


「ねえ、水島さん。」


「はい。」


「私……春になったら、町を出るかもしれない。」


 


陽介の手が、開きかけていた文庫のページの上で止まる。


「町を……出る?」


「うん。療養をかねて、都会の病院に行くことになりそう。お母さんと話したんだ。進学は無理でも、少しでも元気な未来をつくるために、治療に集中したほうがいいって。」


 


言葉は静かだったが、覚悟がにじんでいた。

彼女の中にはずっと「時間」が刻まれていた。

限られた日々と、やり残したこと、そして残せるものを考えていたのだ。


 


「……すぐ、ですか?」


「早ければ一月中。寒さがきつくなる前に。」


 


陽介はそれ以上、言葉が出なかった。

ただ、喉の奥で息が詰まるような、どうしようもない焦りだけが広がっていった。


 


その夜、澪は一通の手紙を置いて帰った。

「風手紙」とだけ書かれた白い封筒。


 


店を閉めたあと、陽介はそれを開いた。


水島さんへ


あなたと出会って、私は“時間”の重さを初めて感じました。

一緒に過ごす日々が、ただ過ぎていくだけじゃなく、

一瞬一瞬が、胸に刻まれていく。そんな感覚。


あなたに会う前、私は“治る”ことばかり考えていました。

元気になれば未来がある。

でも、今は少し違います。

“誰かと過ごす今こそが、未来なんだ”って、そう思えるんです。


だからもし、私がいなくなっても、

この町に、風が吹いていたら――

それは私の言葉です。


それだけ、伝えたかったんです。


柚木澪


陽介はしばらく、手紙を持ったまま立ち尽くした。

静かな夜だった。

雪が降り始めていた。


 


その翌朝、澪は町を去った。


知らせはなかった。

店の扉も開かなかった。

ただ、川沿いの道に、ひとつの赤いマフラーが置かれていた。


澪がいつも巻いていたものだった。


 


風が、雪を巻き上げる。

言葉はもう届かないのだろうか。

それとも、今も彼女の中で生き続けているのだろうか。


 


それから、陽介は毎日、手紙を書くようになった。

封をして、火鉢のそばに置く。

届けるあてはなかった。

けれど、そこに彼女が生きていた証が、確かに宿っているように思えた。


 


冬の町は、静かだった。

けれど、沈黙は絶望ではなかった。

ただ、次の風を待つ、そんな時間だった。


 


やがて、冬の終わりが近づいてくる。




第六章 春の再会、風の中で

三月。

山の雪がとけ、川音が少しずつ高くなってゆく。

町の空気が柔らかくなり、梅の花がそっとほころび始めていた。


 


陽介は相変わらず、古書室「縁」を開けていた。

澪がいなくなってから二ヶ月。

毎日、誰かの気配を感じるように扉を開け、風の音を聞きながら、本の整理を続けていた。


 


「……もう、戻ってこないのかもしれない。」


そう思う日もあった。

けれど、心のどこかでは、まだ彼女の「声」が残っていた。

店の片隅に積まれた封筒の束。

澪が遺していった「風手紙」と、自分が書き続けた返事たち。


 


その朝も変わらぬ静けさだった。

陽介はカウンターに腰かけ、手紙を書いていた。


 


すると――カララッ、と引き戸が開く音。


 


顔を上げると、そこに、見慣れた影が立っていた。


 


「……お久しぶりです。」


 


マフラーも巻かず、少しやせた身体を風にさらして、

けれど、笑っていた。あのときと、同じように。


 


「……澪さん。」


 


言葉が、喉に詰まった。


彼女がそこに立っている。それだけで、胸が苦しかった。

夢を見ているようだった。


 


「帰ってきたの。」


「……元気に?」


「ううん。まだ完全じゃない。でも、ちゃんと自分の足で歩いて来た。」


 


陽介は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。

ふたりの間には、風の音だけがあった。

あの日と同じ春の風。けれど、今はもう、何も遮るものはなかった。


 


「……待ってました。」


「うん、知ってた。風が教えてくれた。」


 


澪がそう言って笑うと、

陽介の胸の奥で、何かがやわらかくほどけた。


 


「でもね、私……この町にずっとはいられない。病気のことも、未来のことも、全部まだ途中なの。」


「わかってます。」


「それでも、いいの?」


 


陽介は頷いた。

それは言葉以上に強い、約束のしるしだった。


 


「ここに、あなたが残してくれたものがある。

 この町の風に、あなたの声が混じってる。

 僕は、これからもそれを聴きながら生きていける。」


 


沈黙の中、ふたりはただ、向かい合って立っていた。

その間に流れる風が、何よりも雄弁に語っていた。


 


そして、陽介がふと懐から一枚の便箋を取り出した。

手書きの手紙。今日、彼女が来るとも知らずに書いていたものだった。


 


「……これ、あなたに。」


澪は受け取った。


 


『あなたがいない日々に、何度も手紙を書きました。

それは返事ではなく、祈りだったのかもしれません。


あなたがどこにいても、風が届く場所にいてほしい。


そして、あなたがまた、風を信じてくれる日が来たら――

僕は、ここで「おかえり」と言いたかった。』


 


読み終えた澪の目に、光が浮かんでいた。

そして、そっとささやく。


 


「……ただいま。」


 


陽介はその言葉を胸の奥に吸い込み、

春の空を見上げた。


 


もう、何も言葉はいらなかった。

ふたりの間に吹く風が、これからも彼らをつないでくれると、信じられた。



終章 永遠の風が吹く場所で

春の風は、あの日と同じ匂いがしていた。

草木の芽吹きの香り、遠くの山から届く土の香り。

そして、どこか懐かしい誰かの記憶がそっと胸に触れてくるような――そんな風だった。


 


あれから、何度目の春になるのだろう。

水島陽介は、相変わらず古書室「縁」のカウンターに座っていた。

棚の本は少しずつ増え、入れ替わり、季節ごとに表紙の色が変わる。

けれどこの店には、変わらないものがあった。


 


棚の隅に飾られた、赤いマフラー。

澪が初めてこの町を離れる日に残していったもの。

そして、澪が残した「風手紙」の束。


 


彼女は今、県外の療養施設で暮らしている。

少しずつ体調を取り戻し、手紙を通じて日々を知らせてくれていた。


「風がやさしくなったよ。」

「今日は小さな公園で読書したの。」

「ねえ、あの本、また読み返したいな。」


そんな何気ない言葉が、確かに生きている証として届き続けていた。


 


ある春の日、陽介はひとつの決心をした。

風手紙をまとめて、一冊の本にすることにしたのだ。


タイトルはすぐに決まった。

『風の声が聞こえる町で』

澪の言葉と、自分が書き続けた返事を綴った、ふたりだけの記録。


 


製本を終えたその日、町の川辺に出ると、風がふっと頬を撫でた。


 


「澪さん……」


彼は空を見上げた。

澄み切った青空に、ひとひらの花びらが舞っていた。


 


あの日、彼女が言った言葉が、耳に蘇る。


「風が届いたら、それは私の声。だから、見えなくても、ここにいる。」


 


目を閉じると、たしかに感じる。

彼女の笑顔。手紙に添えられた温かな筆跡。

そして、春の風が運ぶ静かな希望。


 


やがてまた、澪は町に戻ってくるだろう。

完全に元気になって、あるいはまだ途中のままかもしれない。

でも、それでいい。

陽介はそう思っていた。


 


大切なのは、たとえ離れていても、

“言葉”が“想い”をつなぐことを知っていること。

そして――風が、誰かの心を揺らしてくれること。


 


陽介は店の扉を開けた。

新しい風が、ゆっくりと入り込む。

カウンターの上には、澪からの新しい手紙が置かれていた。


 


『また近いうちに会える気がします。

そのときは、ちゃんと伝えたいことがあるんだ。

風に任せず、ちゃんと、自分の声で。』


 


陽介は微笑んだ。

そして、つぶやいた。


「待ってます。」


 


その言葉に、風が答えたように店中のページがふわりと揺れた。

まるで本たちが、春の訪れを祝福しているかのように。


 


こうして今も、町には風が吹いている。

誰かの想いを運びながら、

静かに、確かに――


 


永遠の風が吹くこの場所で。


〈完〉

あとがき

この物語を最後まで読んでくださったあなたへ。

心から、ありがとうを伝えさせてください。


 


『風の声が聞こえる町で』は、

喪失と再生、沈黙と言葉、孤独と絆をめぐる物語です。

都会の喧騒から離れた小さな町で、

人と人が少しずつ心を通わせ、

それぞれの痛みと向き合いながら、風のように変わっていく姿を描きたいと思いました。


 


主人公・陽介は、かつて誰かの言葉を“伝える”仕事をしていた人です。

けれどある失敗をきっかけに、自ら言葉を閉ざし、静けさの中に身を沈めました。

その彼が、澪という少女と出会い、再び“言葉”に向き合いはじめる姿は、

まさに“風が吹き抜ける”ような変化の連続だったと思います。


 


一方で、澪は常に明るく振る舞いながら、実は深い孤独と向き合っていました。

「風に言葉を乗せる」という彼女の行為は、

誰かに伝えたい気持ちと、怖くて言えない想いの狭間で揺れる姿の象徴でもありました。


 


この作品を書きながら、私自身もたくさんの“風手紙”を読み返すような気持ちでした。

誰かと深くつながること。

その難しさと美しさ。

そして、沈黙のなかにある確かな言葉たちを、

一文字ずつ大切に届けていきたいという気持ちで綴りました。


 


人生において、心が風に吹かれるような瞬間が、誰にでもあると思います。

それが痛みを伴うものであっても、

それを通じて誰かとつながれたなら、

それはきっと、“優しい風”だったのだと思えるはずです。


 


どうかあなたの人生にも、

そんな風が、そっと吹いてくれますように。


 


また、どこかで。

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