機巧人形はまだ知らない_3
「ちょっと、勝手に入らないでください!」
だが彼は我が物顔で進み、アトリエのドアを開く。その視線が、机の上に止まる。
隠したつもりの設計図。重ねた資料がずれて、端から鷹の軍判が覗いた。
その下には、持ち出しを禁ずる禁搬の朱印が、薄く滲む。
彼は無言で近づき、図面の端を指でめくる。
「……制御補助回路の設計図。なぜ君の家にこれが?」
息が止まった。
返す言葉が出てこない。それだけでは保管庫にあったものと断定できるものではないが、もうすでに嘘でごまかせる段階は、とっくに過ぎていた。
「……軍に報告しないのですか?」
震える声で問うと、カイルはしばし沈黙したまま、視線を設計図からリディアへ戻した。
「できない」
「……は?」
「報告する気はあった。だが……その前に、どうしても確かめたかった」
カイルはゆっくりと、前髪をかきあげた。
リディアは身動きひとつせず立ち尽くしていた。
「なぜ、これを盗んだ?」
静かな声。けれど、それは確実に逃げ道を塞ぐものだった。カイルの存在が、空気を張り詰めさせる。
リディアは唇をわずかに噛む。けれど、すぐに視線を上げ、静かに語り始めた。
「少し前、父が亡くなったあと父の名で書き換えた資料を見つけたんです。……内容にどうしても違和感があり、自分の権限で閲覧できる関連文書を確認しました。でも、やっぱり不自然で……書き換えられているように思えて」
「……意図的な改変の可能性、ということか」
「はい。でも、それが何のためなのかまでは、まだ……」
リディアは息を詰めるように言葉を切る。
「確かな証拠はありませんでしたが、どうしても確かめたくて。だから、原本を……保管庫から……軍が何かを隠していると、そう思ったので」
本来なら軍人に話すべき内容ではなかった。だが、軍服を着ていないカイルに対して、どこか気持ちの緩みがあったのかもしれない。
短くも濃密な沈黙。リディアは逃げずに、正面からカイルを見つめる。
「……納得はされないかもしれませんが、それが私の判断です」
カイルはしばらく返事をせず、やがてゆっくりと頷いた。
「それで盗みに入ってあの逃走劇を起こしたのか。随分なものだ」
意外にも責めるような声音でなく、優しさのある物言いだった。
「少佐も?」
思わずこぼれ出たリディアの問いに、視線をそらされる。碧翠の瞳が一瞬、揺れたような気がした。
「……そうだ。だから今夜、ここに来た」
窓際に歩み寄るカイル。夜の街を見つめるその横顔は、静かで――どこか、苦悩を湛えていた。
その横顔があまりに美しい造形で、リディアは思わず息をのんだ。
「少し前、北で隣国との小競り合いが多発していただろう」
カイルは壁に背をもたげて、腕を組み話を続ける。
「ドラヴェムですか?あの、鉱山の多い……」
「そうだ。私も何度か出向した。それがある日を境に妙な異名で呼ばれるようになった」
「えっと……碧翠の災厄ですか?」
「ああ。そう呼ばれる前日。戦場で気づいたら、敵部隊が全滅していた。私の手には銃があった。自分がどう動いたか、どうやって倒したか、何ひとつ覚えていない。ただ、気づいたら死体の山の上に立っていた」
「……覚えてないんですか?」
「ああ。後続の隊の記録では、命令を無視して、敵の陣形を一人で抜けたらしい。反応速度が異常で、誰もついていけなかったとか……。記録を見たが、あれは……まるで自分のこととは思えない」
「……極限状態だったとか、記憶が飛ぶような衝撃を受けたとか……?」
リディアが並べた理由に、カイルは何も言わず、ほんの一瞬だけ目を伏せた。どこか遠くを見るような視線だった。
「さあ、どうかな。ただ頭がどうかしてるだけかもしれない……」
どこか自嘲気味なその言葉に、リディアの心もわずかに揺れた。
「同じように記憶を無くしたと報告していた兵士が何人かいたが、全員その後すぐ死亡している」
「え……? 死因は?」
「記録では皆、戦場で亡くなっていた」
思わず指先に力がこもる。背筋を冷たいものが撫でていくようだった。
軍の技術者である以上、こういった話には慣れているはずなのに――。
「軍の記録で追えたのはそこまでだ。……君なら、当時の装備や従軍端末の解析ができないか?」
兵士が身につける魔道装備は多岐に渡る。武器も、盾も、通信装置も、そのひとつだ。
「……少佐は、それらの装備に何かあると?」
「私の頭が、まだまともなら――そうとしか思えない」
リディアは言葉を飲み込む。しばらく目を伏せ、長い沈黙ののち、そっと息を吐いた。
軍人など信じられるわけがない。
父を奪ったのは、あの組織かもしれないのに。
……それでも、目の前のこの人が嘘を吐いているようには、思えなかった。
ほんのわずかに視線を上げ、彼の横顔を見た。
「わかりました。調べます。……技術者として」
声は、かろうじて震えていなかった。
カイルは深く頷くと、「遅くにすまなかった」とだけ告げて、静かにアトリエをあとにした。
静かに夜の街に溶け込んでいく、その後ろ姿が何かに似ている、とぼうっとリディアは考えていた。
まるで、夢から覚める前、消えていく幻のように。
カイルが帰ってからも、リディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
***
翌朝。リディアはほとんど眠れないまま、いつもより早く魔技研に出勤した。
カイルとのやり取りが脳裏から離れず、目を閉じるたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる気がした。
(少佐のこと……協力するとは言ったけど……)
ルーシーと他愛ない会話をしながら、リディアは件の設計図の一部を複写し、自分用の解析ノートを作り始める。
手だけは動かし続けるも、気持ちはどこか上の空だった。
「それで、リディア。で? 昨日のルーペンス少佐との面会はどうだったのよ」
ルーシーはジトリとした目でリディアを見た。
平静を装って、髪を耳にかける。
「……ただの業務連絡よ。報告書の修正があっただけ」
「またまたぁ〜! あのルーペンス少佐よ? 冷徹で有名な碧翠の災厄が、わざわざ魔技研の新人呼び出すなんて、何かあるに決まってるでしょ!」
ルーシーは目を輝かせて、机の上に肘をつく。
「ほんとになにもないって。ただの仕事の話よ」
「え~! 今まで浮いた噂なんてなかったのよ~!」
どうやら彼女の中では、「憧れの軍人とのメロドラマ」扱いらしい。
けれど現実は、そんなふうに笑って語れるものじゃない。昨夜の彼の横顔を思い出すと、胸が締めつけられる。
ルーシーの思い描くような甘い空気などは微塵もなかった。
唇を尖らせるルーシーの視線から逃げるように、リディアは資料の束を引き寄せる。
「はいはい、真面目なこと。……でも、変な事言われたならいつでも相談してね。仕事のことなら尚更。リディアは大事な友人なんだから……ね?」
ルーシーはにこっと笑って、言葉を添えた。その言葉が、思いがけず胸に染みた。
(……大事な友人、か。ルーシーまで巻き込む訳にはいかないから、言えるわけなんてないのだけど……)
それでもここ数日の焦りや緊張感が少しほどけた気がした。
「わかったわよ。……ありがとう」
ふと、リディアは昨夜、街へと消えていく大きな背中を思い出した。
(ああ、……あの夜に似ていたんだ)
父が帰ってくるのをずっと待っていた、あの夜だ。