機巧人形が開けた箱は
「いたぞ、女だ! 逃がすな!」
大粒の雨が闇夜を叩きつける中、怒声が静寂を破った。建物の軒先から滝のように滴る雨が、濡れた地面を激しく打ちつけ、泥水が跳ね上がる。
すぐさま、霧の中から周囲の影から兵士たちが湧くように現れ、雨に濡れた石畳を激しく叩く足音と、銃に弾を込める金属音が重なり合った。濡れた銃身が雨粒をはじく音すら、緊張感を帯びていた。
リディアは、木陰に隠していたバイクへ駆け寄り、びしょ濡れの体で一息に飛び乗った。
目当てのものは手に入れた。建物の脱出までは完璧だった――上階から外壁を伝って降りる最中、普段はいないはずの見張りに見つかるまでは。
(まずい……やらかした)
急いで防風帽を被り、魔力を注ぎ込んだ。バイクのエンジンが水飛沫を巻き上げながら唸りを上げる。雷鳴のような轟音と共に加速し、追っ手を引き離す。
だが、背後からは銃声。怒号。容赦のない弾幕が豪雨の中を貫き、リディアを襲う。
「ッ……!」
とっさにコクピットを操作し、防御装置を展開する。弾丸が水を切って飛び、火花を散らしてはじけた。
サイドミラーには、雨を切って迫る軍用車両とバイク。数は少なくない。
――警備が強化されている。なぜ……。
防風帽の中で汗が頬を伝う。容赦のない雨粒が身体にまとわりつく。とにかく、逃げ切らないといけない。
(それでも……手に入れた。絶対に逃げ切る!)
鞄を胸に抱え、魔力をさらに注ぎ込む。バイクは悲鳴のようなエンジン音とともに、水たまりを弾きながら加速した。
――木を隠すなら森の中。人混みに紛れるなら歓楽街だ。この時間ならまだ賑わっている。
ミラーの向こうで、追っ手との距離は開いていた。逃げ切れる。確信したそのとき――。
「止まれ!!」
不意に、横道から一台のバイクが飛び出した。スリップしそうになるタイヤを必死に制御し、咄嗟にハンドルを切る。辛うじて衝突を避けた。
目の前に男が現れた。軍服と銀の腕章、何よりもゴーグル越しでも伝わる、鋭い眼光。
その姿には見覚えがあった。――”碧翠の災厄”だ。
(厄介なのに目をつけられたな)
夜の街に差しかかり、街灯の下で雨粒が銀色に輝く。魔素の光る靄がきらめいていた。
車と人が増えてきた中、バイクは猛スピードで通行人と車の間をすり抜けていく。
他の追っ手はミラーから消えた――だが、あの男だけは違う。まるで獣のような勘と技術で、ピタリと背後につけている。
(しつこい……!)
歓楽街の端、広場が見えてきた。
人影は疎ら。滑走には十分だ。この手は使いたくなかったが仕方がない。絶対に逃げ切る。
だが――次の瞬間、横合いから一台のバイクが飛び出した。
スリップ寸前に体勢を立て直す。視界の端、銀の腕章が閃いた。
「待て!」
怒声と同時に、濡れた革の手袋がリディアのコートの裾を掴んだ。咄嗟にハンドルを切る。肩をひねり、バイクが傾く。
その拍子にポケットが跳ね、何かが宙に舞った。
――カンッ。
雨音の中、小さな金属音が耳に届く。かき消されそうで、でも確かに、響いた。
(……識紋!?)
目が、自然と地面を追う。
石畳の上、街の明かりを反射した銀色の小さな塊が雨に濡れ、転がっていく。
(だめ……拾えない!)
胸が一気に凍りつく。喉が詰まり、呼吸が止まりそうだった。
あれが見つかれば――所属、身分、すべてが割れる。局の人間だと、確実に。
(もう、戻れない……!)
歯を食いしばる。
覚悟を決めて、ハンドルの隠しレバーを押し込む。
魔力が走る。機体が震え、バイクが跳ね上がる。
「な……おい、待て!」
空気が変わった。重力が抜けた。
リディアのバイクが、地面を離れた。魔力推進が噴き上がり、宙を駆ける。
雨と風、稲光が視界を裂く。闇と光が交錯する。
ふと振り返ると、指先で何かをなぞるように触れていた。
濡れた前髪が額に張り付いている。彼はそれを無造作に掻き上げ、視線をリディアに向けた。
暗く霧がかった雨の中で顔は見えなかった。だが、視線がぶつかった気がした。
リディアは視線を逸らす。
ただ、加速するしかなかない。後戻りは、もうできない。