第4章 新しい顔
死体損傷の場面があります。閲覧ご注意願います。
昭和末期だった当時はカーナビもまだ普及していなかったため、救急車が現場に到着するまでは、現在よりもはるかに時間がかかるものでした。
ユキちゃんの顔から剥がれ落ちた福笑いのセットを畳に並べると、私はあえて目隠しをせずに大きな瞳の描かれたパーツを手に取りました。そのそばで、静かに横たわる彼女のうつろな両眼から、心なしか恨めしい視線を感じます。苦悶に引きつった口元が、風神雷神のようにいかめしく怒っているようにも見えます。死体のそばで福笑いをするなんて、楽しいどころか恐怖でしかありません。彼女の真っ黒な瞳のパーツを持つ自分の指が、ワナワナと震えて止まりませんでした。
そこで私は、部屋を暖めていた石油ストーブの上に、ヤカンが置かれていることに目を留めました。ヤカンの中に熱湯が入っていることを確認すると、私は小さく「ごめんなさい」と言ってから、ユキちゃんの顔にヤカンの中身を浴びせました。顔に熱湯がかかった瞬間、ジュウッと音がして湯気がもうもうと立ち昇りました。彼女の青白かった顔が真っ赤に膨れ上がり、生前の美しさは無残にも踏みにじられて醜い肉の塊へと変貌しました。
ユキちゃんは自分が見下していた相手によって美しさを損なわれて、これからその美しさを乗っ取られるのです。
「神様お願いです。正しい位置に置けますように」
のっぺらぼうな顔の紙に瞳のパーツを置くとき、私は全神経を指先に集中させました。恐怖に負けて位置がズレたら、私はこれから先、そのズレた顔立ちで一生を生きていかなければならないのです。どうせ別人の顔になるのなら、少しでも綺麗でありたい。そのときの私が握りしめていたのは、殺人の罪から逃れられるだけではなく、自分が今まで抱えてきた暗いコンプレックスから解放される、唯一無二のチャンスでもありました。
緊張で手汗をかいたせいか、紙の瞳が湿り気を帯び始めました。息を止めてそれを顔の上に置いたとき、瞳が潤んでこちらをにらみつけているようにも見えました。ユキちゃんの人形のような死体よりも、ずっと生々しくて気持ちが悪かったのを、今でも覚えています。
やがて、そばに死体があることも気にならなくなるほど、私は福笑いに没頭していきました。眉や鼻も一つずつ、ゆっくりとですが適切な位置に追加されて、ユキちゃんの美しい顔が少しずつ姿を現していきました。
「できた……」
ユキちゃんの形の良い唇にそっくりなパーツを福笑いの顔に置き終わると、私は人知れず身震いしました。それは恐ろしかったからではありません。見事に再現されたユキちゃんの顔の美しさを直視して、戦慄めいた魅力を感じたのです。そして、それをもうすぐ自分の物にできる喜びから、私の全身に鳥肌が立ったのです。
ユキちゃんと同じ轍を踏まないよう、私は彼女の学習机の引き出しからカッターナイフを取り出すと、鼻の穴の箇所とくちびるの上下の間に切れ目を入れました。これで呼吸困難に陥る危険から逃れられます。
完成された福笑いを顔につける瞬間、私の脳裏には自分を産んでくれた母親の顔がよぎりました。母一人子一人の貧しい暮らしではありますが、私のことを愛して、私の顔を「天使のように可愛い」と言ってくれました。この福笑いをつけたら最後、私はもう、母の娘ではいられなくなるのです。それを思うと、自分の胸を熱い釘で打たれたような、鋭い痛みが突き刺しました。
ウーウー ウーウー
救急車の音が遠くから聞こえてきて、私は感傷的な気分から我に返りました。もう時間は残されていません。
(人殺しだと疑われてお母さんに迷惑をかけるくらいなら、いっそのことユキちゃんの家の娘として幸せに暮らす方がずっといい。お母さんの姿を見たくなったら、家は近いのだからこっそりのぞきに行けばいい。)
そう考えて自分を納得させると、私は、世にも美しい福笑いの紙を手に取り、慎重に顔にかぶせました。福笑いの顔が自分の顔に重なるとき、まるでタコの吸盤のように強く吸いついてくる感覚がしたかと思うと、紙と私の顔は寸分離れずくっついた状態となっていました。こうして私はユキちゃんの顔を乗っ取ったのです。
「あれ? どうして暗いの?」
福笑いの顔をつけたあと、私は目の前が真っ暗なことに気づきました。さっきまで明るかった部屋の中から、光が跡形もなく消えてしまったのです。
「なんだか、目の前を何かでふさがれたみたい……」
私はこのときになって、自分が重大なミスを犯したことに気づきました。そう、福笑いの目の中心に穴を開けるのを忘れていたのです。でも、こうなった以上はもう手遅れでした。福笑いはすっかり私の顔と同化していたからです。さすがに、自分の瞳に刃物で穴を開ける勇気はありません。
「そんな……」
絶望に打ちひしがれた私は、目頭を熱くしました。これはユキちゃんが私にかけた呪いだったのでしょう。他人の美しさを奪った者には、世界の美しさどころか、自分自身の美しささえも見ることが叶わないという皮肉な呪いです。
でも、ユキちゃんがかけた呪いは、一つではありませんでした。
不意に肩をトントンと叩かれて、私は心臓をギュッとつかまれたように驚きました。
「誰? 誰なの?」
私は何度も大声で叫びましたが、何も返事はありません。肩を繰り返し揺さぶられて私が逃げ出そうとすると、がっしりとした腕に押さえつけられました。その腕から消毒液の匂いがしたとき、これは救急隊員かと私は思い当たりました。
「ねえ、なんで、どうして返事してくれないの?」
自分の問いに対して、水を打ったような静けさが続くことに気づいたとき、私は福笑いの耳にも穴を開けるのを忘れていたという、もう一つの致命的なミスを思い知ったのです。
(最終章へ)
第4章までお読みくださり、誠にありがとうございます。続きの最終章は明日更新の予定です。




