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11.予想外のお誘い

 慌ただしい雰囲気に、【アムネシア】は包まれていた。

 二台の大きな荷馬車が店の裏口前に停められて、数人の作業員が店と荷馬車の行き来を繰り返している。今日はドレス制作に使う布地や小物など諸々の大口搬入日だ。


「お姉ちゃん、母さんが手伝ってって呼んでる~!」

「今行くわ!」


 今日は休息日の土の日。

 昨日の夕方から戻ってきているリーチェに声を掛けられたわたしは、刺繍をしていたドレスの裾をピンで留めた。工房自体はお休みだけれど、搬入の手伝いをするついでに刺繍を少し進めようとしていたのだ。

 手首に付けていたピンクッションを外し、ワンピースの至る所に付いている糸くずを払ってから工房を出る。通用口の側にある階段から地下の倉庫に下りると、そこにはロール状の生地が山のように積まれていた。


「こんにちは、フィーネさん」

「ドミニクさん。今日もお世話になります」


 バインダーを開いて品物のチェックをしていたドミニクさんが声を掛けてくれる。挨拶をしたわたしは、生地の山に囲まれて笑みを浮かべている母を見て苦笑いが漏れてしまった。


 母の指示に従って、刺繍関係のものを棚や引き出しにしまっていく。

 空きが目立っていた引き出しの中が、沢山の刺繍糸で埋まっていくのは何とも気持ちがいいものだ。

 賑やかな倉庫内に目を向けると、レース関係のものを託されたリーチェが、検品をしながらわたしと同じような作業をしていた。彼女の口元も綻んでいる。


 この資材で何を作ろう。

 どんな花を形にしよう。


 それを考えるだけでわたしの心が弾んでいく。

 この薄紅色は木蓮にもいいかもしれない。オレンジ色でポピーを作って、緑もこんなに色があるから葉のグラデーションも綺麗に出せそう。


「楽しそうですね」

「わ、っ……!」


 不意に掛けられた声に手から落ちてしまった刺繍枠を、空中でドミニクさんが受け止めてくれる。

 驚きに騒ぐ心臓を片手で抑えて深く息を吐くと、困ったように眉を下げながらドミニクさんが刺繍枠を差し出してくれた。


 それを受け取りながら、気まずさと恥ずかしさを誤魔化すように笑って見せた。


「すみません、驚かせるつもりはなかったんですが……」

「いえ、変な声を出してしまってすみません。逆に驚かせてしまったのでは?」

「可愛らしい声でしたよ」


 そんな事はないだろうと思いながら、刺繍枠も棚にしまっていく。

 後は針とワイヤー、ウッドビーズ、それから様々な厚さの麻布。


「先日、侯爵家のご令嬢にお目にかかる機会があったんですが、【アムネシア】のドレスだとすぐに分かりました。フィーネさんの刺繍花が飾られていましたから。相変わらず素晴らしい出来でした」

「ありがとうございます。でもきっと、まだ足りません。今よりももっと素晴らしい花を作り出したいと思っているんです」

「……その努力が、あなたの花の魅力なんですね」


 思いがけない言葉に作業の手が止まった。

 ドミニクさんへ顔を向けると薄茶色の優しい瞳が細められている。照れたように短く整えられたオレンジ色の髪を掻きながら、彼はゆっくりと言葉を繋いだ。


「正直、アムネシアの刺繍花は他の追随を許さない程に確立されています。それを担っているのですから、あなたはもっと誇ってもいいはずなのに。それをせず、慢心もせず、更に美しい花を目指している」

「……初めて言われました、そんなこと」


 刺繍花を作れば作るほどに、技術が高まっていくのは感じていた。それでもまだ、目指す高みは遠くって。

 それでもこうして評価をしてくれる人がいるのは、純粋に嬉しかった。


「ありがとうございます、ドミニクさん」

「いえ、そんな、お礼を言われる事では……。私は本当の事を言っただけですし、それに……そうやってひたむきに努力をするあなたに、惹かれているんです」


 驚きに、息が詰まった。

 止まりそうになった呼吸を、意識して深く繰り返す。


「フィーネさん、そんな顔をしなくても……」

「すみません、ちょっとびっくりしてしまって……」


 肩を揺らすドミニクさんがあまりにもいつも通りで、さっきの言葉は聞き間違いかと思うくらい。でも、やっぱりそうじゃなくて──


「良かったら、今度食事でもいかがですか」


 ドミニクさんの耳がうっすらと赤く染まっている。

 それを見ながら、わたしは首を横に振った。


「ごめんなさい。今は仕事が楽しくて、他の事を考える余裕がないんです」

「そういうあなたが素敵だと思う私は、簡単には諦められないようです。困らせるつもりはありません。関係を変えるというよりは、食事を楽しむくらいの軽い感じで。それくらいなら一緒に行ってもいいかなと思えたら、また誘った時に頷いてくれたら嬉しいです」


 いつもよりもいささか早口なドミニクさんは、きっと優しい人なのだろう。わたしの逃げ道を残していてくれている。

 何も言えずにいるわたしを責めるでもなく、ドミニクさんは会釈をしてその場を離れていった。


 残されたわたしは、また刺繍糸達と向かい合う。

 色ごとに綺麗に並べられた糸は、それだけで花畑のような賑やかさだ。それでも、先程までの浮き足立つような気持ちはどこかに行ってしまったようで……わたしは小さく溜息をついた。


 (くら)い感情が胸をざわめかす。

 それに飲み込まれたら、もうすべてが嫌になってしまうかもしれない。


 仕事をしよう。他の事を考えている暇なんてないくらいに。

 刺繍関係の全てを整理し終えたわたしは、いくつかの刺繍糸を籠に入れて倉庫を後にした。生地関係はまだ母と事務員さんとで受け入れをしているけれど、わたしはもういいだろう。


 わたしは今世では仕事に生きると決めたのだ。

 だからもしこれから誘われるような事があっても、全て断っていけばいいだけ。


 うん、と一人で頷いてから工房へと戻る。

 先程まで手を掛けていたドレスの刺繍は急ぐものではなかったから、刺繍花を作ろう。


 ファイルからラナンキュロスの型紙を引っ張り出して、刺繍用の布に写していく。

 慣れた作業だけど、だからといって集中を切らしてはいけない。


 夜始(よるはじまり)の鐘が聞こえないくらいに、わたしは刺繍に没頭していた。


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