洋式トイレのタンク
M子が階段を駆け上がってくる慌ただしい音と、「奥さん!」と叫ぶように言う声が聞こえてきた。
私は驚いて部屋のドアを開けて
「どうしたの!!」
M子の顔は正常じゃない。私も緊張して顔を見据える。
そしたら
「トイレのタンクが落ちた!」
M子が階段を駆け上がってくる慌ただしい音と、「奥さん!」と叫ぶように言う声が聞こえてきた。
私は驚いて部屋のドアを開けて
「どうしたの!!」
新型コロナウイルス感染拡大が始まってからというもの、何事にも驚いたり余計なことを心配したりするようになった。
M子の顔は正常じゃない。私も緊張して顔を見据える。
「トイレのタンクが落ちた!」
「えっ!?」
と、びっくりしたがすぐに分かった。
なあんだそんなことかと、幾分かほっとしながら
「びっくりするじゃないの!トイレのタンクが落ちたぐらいで何だよ」
スペイン語でcisterna、水洗トイレの水を溜めておくタンクのことである。日本では見かけないが、便器の上部1メートル50センチ位なところに設置してあるプラスチック製の水槽。横にぶら下がっている紐を引っ張ると、排水弁が開いて便器に水が流れ込むようになっている。安くて場所をとらないのでよく使われている。
こういうのハイタンク式トイレというらしい。
ほんとは、トイレのタンクが落ちたら大変なんだけど。
第一トイレが使えない。
M子は
「水がジャージャーまけた!」
「それで止めたの?」
「うん、止めた」
M子にしては気が利いている。トイレにある水道の元栓を閉めたのだ。
「奥さん、なおして!」
「えっ!?」
「なおしてよ!!」駄々っ子のように言う。
と、言われても私になおせるわけがない。梯子にも上がれないし力もない。
食堂のテーブルの所で、定年退職して暇になった御亭主が、アイパッド(タブレット)を覗き込んでいる。毎日半日はアイパッドで野菜の育て方を見て研究している。
実戦やらないと、頭の中で野菜植えたってしょうがないだろう、と思うのだが。
耳が遠いので傍まで行って、大きな声で
「M子ちゃんのトイレの水のタンクが落ちたって。こないだ買ってきたでしょう。買ってきて取り換えてよ」
こないだもどっかのトイレのタンクが落ちて、取り換えたばかりだ。プラスチックで出来ているので、何年か経つとネジで止めているところが敗れて落ちるのだ。
御亭主は案外器用でちょこちょこ家の壊れたものをなおしてくれたり、ちょっとした大工の真似事もしてくれるので助かっている。
それで、機嫌よく返事をしてくれるのかと思いきや、私の顔を睨み付けるようにして
「俺が何で買いに行かないかんのや!あれに買いに行かせ!」
と、えらい剣幕。あれとはM子のことだ。
M子の事になると機嫌が悪い。私がいない間、だいぶいじめられたらしい。
(私は2年ほど日本に行っていなかった)
M子はずる賢いので「はい、掃除しました」なんて言って何もしてないのだ。
ここではよくある話。
私は「じゃあ、買ってくるから取り換えて」と言って、時計を見るともう午後4時を廻っている。早くしないと店が閉まってしまう。慌てて財布を持って、階段を下りてM子のトイレに向かった。
トイレの隅に抛られているタンクを見てみると、太いネジが挿し込まれていたところが敗れている。もうこれは完全にだめだ。
床は未だ拭いてないのか濡れたままだ。滑らないように恐る恐るまたいで、タンクを取り付けてあったところを見上げる。ネジは抜けて落ちてしまったのか、ダボだけが口を開けたまま残っている。ちょうど私が手を伸ばした先ぐらいにある。タンクを取り付けるときドリルで壁に穴をあけて、ダボ付のネジを使うのである。
タンクはここから床に直接落ちたか、便器にぶつかって二段階で落ちたか、どっちにしても水が入ったまま落ちたので派手な音がしただろう。タンクから水が便器に落ちる太めのパイプにも支えられているので、一発で落ちることはめったにない。大抵どこかでぶら下がっていて、落ち掛けになっているのを見つけるものなのだが。M子は気が付かなかったのだろう。
水道用フレキパイプも継手の部分が根元でおれて、中に半分ぐらい残っている。
専門用語が分からず、ネットで調べたのだが、水道管からタンクを繋ぐ30センチ程の給水ホースで、自由に曲げられるようになっている。
これは同じメーカーの物を買ってこないとだめだわ。穴の位置が違うと、またドリルで穴開けないといけなくなる。メーカーはTIGREで日本語でトラ。横にかわいらしいトラの足裏の肉球のロゴマーク。
「M子ちゃん、これゴミ袋に入れて。これ持って行って同じのを買ってこないと、穴が合わないから」
と言ってM子に指示した。
「さあ、行こう。店閉まちゃう」
M子はタンクの入った黒いごみ袋を提げた。縦横40センチぐらいに幅が10センチぐらいで、プラスチックなのでそんなに重たくはない。
「なんで落ちたんだろう。M子ちゃん来てから一度も換えてない?」
「壊れたの初めてだよ」と、M子。
ということは、10年位は経ってる。M子は10年ぐらい前に家に来ている。
もう朽ちてしまったのだろう。
2月の末でアスンシオン市は夏の終わりだが、夕方のせいもあってあまり暑くはない。
店まで500メートルぐらい。200メートルぐらい歩いて気が付いた。マスクしてない!マスクしてなかったら50万ガラニー(約1万円)罰金とられる。コロナウイルスよりそっちの方が頭をよぎった。
「M子ちゃん、マスク忘れてきたよ!そこらへん警察いない!?」
と、周りを見回す。
「ここは警察いないよ」と言って、自分もマスクしてないのに平気で歩いている。
「マスクしてなかったら50万グアラニーとられるんだよ!」
「大丈夫だよ」
度胸ええなぁ。くそ!帰るのも面倒くさいし、コロナがうつっても困るし、手で口を塞いで行こ。と、私は手のひらで口を塞いで辺りをキョロキョロ見ながら、なるべく人と近ずかないようにして歩いた。
大通りに出ると、すぐの所にサニタリオ(トイレ用品、蛇口、上下水道管、タイルなどを専門に売っている店)が一軒。三軒ほど先にもある。最初の所では、これと同じメーカーの物がないかと、M子がきくと「ありません」と即座に断られた。後から考えてみるとどうも、マスクをしてなかったので、すぐに追い出したかったのかも。
次の所にいくと、まず「どうしてマスクしてないの?」
M子が「忘れてきた」と言いながら持ってきたタンクを見せる。
応対に出た店員がそそくさとデスク(自分用の机と椅子が置いてある)に戻ると
「別のメーカーならありますよ」と言った。
丁寧な応対はしない。客とも距離を置いて話をする。もし感染者が出ると何日か閉めることになるので、ピリピリしているのだ。
大抵の店はマスクなしでは入らしてくれない。
私は店員の様子を横目で見ながら
「M子ちゃんだめだよ。同じのじゃないと」
もともとこの店では買いたくなかったのだ。
実はうん十年前の事だが、下水管を高い値で買わされたことがある。後でわかったのだが倍の値段だった。あの時の店員はもういないようだが、ちょうど家を建てている時だったので、何本も買ったので大損した。それ以後めったにこの店には寄り付かない。
その日はちょうど土曜日だった。「それじゃアサード(焼肉)の肉でも買ったんじゃないの」と言って、友達が笑っていたけど。
そんなことをしたらお客さんが来なくなるなんて先のことは考えない。
と、店の奥に立っていた白髪頭の男が振り向いて目で笑いかけてきた。マスクで顔半分覆われているので、誰かわからない。あれ、誰だったかな?私は口を手で塞いだまま男の顔を見上げる。それとも、マスクの代わりに手で口を塞いでいるので可笑しかったのか。
外に出て思い出した。あそこの店員で、家の近くに住んでいて時たま出会うと笑顔で挨拶をしてくる。それでまたこの店に、騙されたといいながらたまには来ていたわけだ。
最近では考え方も改善されて、店のシステムも変わってきた。とはいっても買い物する時は気を付けて買わないと。またアサード代払わされたんじゃ堪ったものではない。
それで、大通りを渡ってすぐの道を50メートルほどのところにある金物屋に行った。ここは金物、ペンキ、水道の蛇口やら、トイレの水タンク、色々売っている。
店の入り口に顔も身体も細長い若い店員が、見張り番のように立っている。
M子が「このトラのメーカーありますか?」と言って、持ってきたタンクを見せている。例の店員が、何か言っているが聞こえない。
「なに!あるの?」と、私。
「あるって!」後ろを向いて嬉しそうな顔で言った。それから
「マスク買えって」
「ええっ!あそうか、気が利いてるね。ちゃんとマスク用意してあるんだ」
マスクなしで出かけたのは今回だけではない。家ではマスクを付けてないので、そのまま出かけて、慌てて薬局へ駆け込んだことが何度かある。その度にマスクが溜まっていく。
でも、金物屋でマスク?そういえば果物屋でもマスク売ってたな。もう、どこでも売ってる感じ。
店員が持ってきたマスクをして、まず洗剤で手を洗う。
次にピストル型の検温器を、腕のあたりに充てて
「6度5分大丈夫ですね。どうぞこちらでお待ちください」
こちらでといっても椅子が置いてあるわけではない。お客さんは歩道の方に2メートルほど間隔をあけて並んでいる。
ここは15人に一人が新型コロナウイルスに感染しているという。
2021年2月現在の状況である。
今ここに店員よせて20人位いる。ということは、この中に一人は感染者がいるということだ。誰だろう?隣の若い男だろうか。いや、あいつかな。それとも少し離れて立っているあのオジサン。などと思いめぐらしていると、順番が来た。
中に入るとカウンターの手前1メートルほどのところに、ロープが張ってある。店員と客の間は約2メートルと規定の距離を守っている。でも入ったのはM子だけで、私は外で待つように言われた。
ともかく同じメーカーがあったので「やっぱりあの店はなんでもあるね」などと言いながら、嬉々として足早に家に向かう。
帰ってみると、機嫌の悪かった御亭主も降りてきて、M子のトイレを覗き込んでいる。
さっそくビニール袋を開けて取り付けにかかった。と、思ったらすぐに
「これはいくか!反対だよ」
「ええっ、何が?」
水道管は右側にあるのに、タンクへの給水ホースの継手は左側になっている。本当だ。気が付かなかった。一応左右どちらにでもつけれらるように、反対側にもボコッと飛び出した部分がある。
御亭主は「ここを切って出来ないこともないけど、下手に切ったら水漏れが止まらなくなる」と、言いながら切ろうかどうしようかと迷っているようだ。
それから
「それに、これは継手の所が割れてるぞ」
「ええっ!」私はびっくりして割れたナットの部分を覗き込む。給水ホースを付けてナットで閉めるようになっているのだ。よくよく見てみると確かにナットの所は割れているし、華奢で貧弱でプラスチックも弱そう。
私は「換えてくるよ」と言ってすぐにさっきのビニール袋に入れて、先ほどの金物屋へ。
M子がまた黒いごみ袋を提げて先を行く。今度はマスクはちゃんとしている。ところが家を出て50メートルも歩くと息苦しくなってきた。
「M子ちゃん先に行って。私ちょっとしんどいわ」
「うん、私一人でいいよ。わかるよ」などと言いながら、どんどん歩いて行った。
M子はもうすぐ60歳だというのに元気のいいこと。ついでに私の年齢も白状すると70代前半。御亭主は70代半ばで、いつの間にか老齢家族になってしまった。
私は立ち止まって、マスクを外して大きく息を吸い込んだ。マスクで口が塞がれていると正常に息が出来ないようだ。それに新型コロナウイルス対策が始まってからほとんど歩いていない。今は緩和されて通常に戻っているのだが、感染者が毎日千人を超える勢いで怖くて外に出られない。皆年寄りは引き籠りになって、隣の年寄りだって何か月も見たことがない。
やっぱり運動不足かと思いながら、ゆっくり歩いて大通りまで出ると落ち着いてきた。大通りを渡ると金物屋が見えてきた。M子はあの細長い顔の店員ともめている。
私の方を見て、店員に「来たよ」などと言ってるようだ。
やっと金物屋に着いて
「どうしたの?換えてくれないの?」
「うん、別のメーカーがあるって。でも、ここ切ったらいいって言ってるよ」
と例のボコッと飛び出た部分を見せた。
私は店員に「どうやって切るのよ。それにここ割れてるよ」と、反対側のナットが付いている方を見せる。
「これはこんなんですよ」
ほんとかよ。なんか怪しげな返事。そして反対側の方を見て
「これは金切り鋸で簡単に切れますよ」
「じゃあ、切れる人いるの。切ってよ!」
と、店員に渡すと
「うん、ちょっと待ってください」と言って困ったような顔で突っ立っている。
「換えてよ。こんな華奢なのいらない!痩せてるじゃないの。これトラじゃないよ。ネコだよ」
トラならもっと強くないといけないのに、いつの間にネコに化けたんだ。
店員は苦笑しながら、店の中にいる店員に渡した。
「あそうだ、あのさっき持ってきたのはどうしたの?」
あの落ちたタンク案外使えるかも、で取ってあるかと思ったら、ごみ箱に放り込んだという。ごみ箱を除いてみたらあったので、給水ホースをはずして持って帰ることにした。このホースは太くてしっかりしている。
「ホースももっとごついのないの?こんなの」
と、外した給水ホースを見せると
「いえありません。みんなこんなですよ」
と、カウンターの奥にいる店員が持ち上げてみせた。長さはあるけど細い!
なによ!皆痩せて貧弱になったんじゃないの。
無ければしょうがない。
換えてもらったタンクをよく見てみるとプラスチックも強そうで丈夫そう。
「よかった。これの方がいいわよ。M子ちゃんこれ持って先に帰って」
早くしないと日が暮れてしまう。
私はM子より少し遅れて家に帰りついて、すぐにトイレに行ってみる。
もう御亭主は梯子の上にいて、タンクをの取り付けが始まっていた。そして
「これはいいよ。なんでこれ最初から買ってこなかったんだ」
「ええっ!だってここにあったのはトラだったよ。ねえ、M子ちゃんトラだったよね」と、念を押すと
「うん」と言って頷いた。
取り付けは30分位で終わった。やれやれ。