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裏手の小屋に入り、ぼくは旅立つ準備を始めた。憂鬱に浸ってばかりなどいられなかった。
ぼくは生きねば、生き延びねばならなかった。
十五歳のぼくは、元々父親がおらず、そして母親は、いるにはいたが、ある重篤な疾病の患者で、物心付いた時には、もう病床の中に横たわって、起きることはほとんどなかった。幸い基本的に健やかに育ったぼくは、不自由を託つ彼女を介護し、看病し、暮らした。必要な勉学は近くの町で書物を買い求めてやり、必要な労働は同じ町で下級の雇員として雇って貰ってやった。賃金は嘆かわしいほど低く、ぼくと病人の二人を養うには余りにも少なく、時には屑籠を漁るというような真似をして、その中より腐敗した食べ物を拾うことはなかったが、買い取って貰えそうな小さな部品を拾うことはあって、それを質屋に持っていって換金して貰った。ぼく等の主食は、硬い乾燥した石のようなパンばかりだった。それでも、空腹に喘いだ日は幸いなかった。最低の生活だったが、辛うじて生活であり、命を存続させていくことは出来た。
ただし、ぼくだけだった。
病床の母は、天寿が尽きた。ある日お迎えがやってきて、彼女の命の花を摘み取っていった。
やつれた顔、青ざめた顔の目は閉じていた。やたらと長く眠るなぁ、とその日のぼくは怪訝にその顔を、家事などの日課をやりつつ、ぼんやり見ていた。
亡くなったことを悟ったのは、その冷たさに触れた時だった。呼びかけの声に反応しない、ぼくは否応なくその安否を知らされることになった。
悲しかったかと問われれば、もちろん、悲しかった。だが、涙は出なかった。
ぼくは外でスコップを持つと、近くの林に入り、柔らかい土壌を探って、見つけると、深い穴を掘り、遺体を引きずってその中に埋葬した。それは凄まじい重労働で、時間は長引いた。
だが、母の埋葬をぼくは、やり遂げねばいけなかった。その埋葬が出来るのは、ぼくを除いて他に皆無だった。遺体を放置するのは、社会のほとんど外側で育ってきたぼくにもある常識、良識に大いに反したし、何より放置することで起こると思われる諸々の問題が身の毛がよだつほどおぞましかった。
掘り返した土を冷たくなった母の上に被せた後、ぼくはその土を固め、小枝で間に合わせで作った十字架を立て、聖書のうろ覚えの、鎮魂の言葉を唱え、歌を歌った。
その夜はひどく静かだった。