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無理矢理な描写が苦手な方は、ご注意ください。

 


 両腕を横に投げ出して眠るしゅうの背中をみて、のろのろと立ち上がった。稲光が走る空のせいか、視界は灰をまぶしたみたいにくすんでいて、夢から急に覚めたときみたいに、頭も働かない。それでも手と足は冷静に、白いボウタイを探すために動いた。

 なにかを足で踏んだと思ったけれど、とくに痛いとは感じなかった。丸くて、ころころしていて、小さい……ああ、そっか、ボタンだ、と多分口に出していたんだろう。

 だいじょうぶ、替えがあったはず。ファンシーケースの小物入れの中だったかな、それとも、この間のボーナスでやっと買った裁縫箱にしまったっけな、似たようなボタンは何個かあるし、悩むこともないか……と、この場面ではどうでもいいことを考えていた。

 それより、ボウタイ……、と多分また声に出して言っていた。

 あれは気に入っているんだ、このブラウスにはあれがないとさみしい印象になるし、あれは探さないと。ボウタイをリボンの形に結んだら、鎖骨が隠れるから、ちゃんと結ばないと。首元も少しおおってくれるから、隠してくれる、見えなくしてくれる、だから探さないと……。


 無意識にブラウスの前をき合せていて、窓に走った稲妻で、右腕に鬱血うっけつ痕があるのをみとめた。

「……っ!」思わずぎゅっと目をつむった。永遠に続くかに思える行為が繰り返された光景がよみがえって、両手で口元をおおった。


 ――――や、めて、集、おねが……


 懇願は最後までつむがれることはなく、乞うたびに彼の口の中に消えた。集は、息もできないくらいにわたしの唇をふさいで、シーツを掴むことも許さないとでもいうように、身体のすべてでわたしを拘束した。集の体躯たいくにわたしは到底敵うわけもなかった。声を出すのも辛くて、彼を見上げるしかなす術はなかった。

 集は一言も口を聞かなかった。力の入らないままゆるゆると首をふるわたしを見る表情は、能面のように血の通わないものだった。


 集、と小さく呼んだわたしの顔を見て、集が一瞬目を見開いたように思った。気づかなかったけれど、わたしはそのとき少し泣いていたようだった。それがなにかのリミットを外したのか、集は狂ったようにわたしの身体を揺さぶった。

 苦しくて、必死で呼吸をしていたわたしは、でもその瞬間に全身の血の気が失せるがわかった。集の息遣いが異様なほど荒くなり、身体が壊れてしまうくらいの衝撃のなかに、何かおかしいと思ったときには遅かった。どこにそんな力が残っていたのかと自分でも驚くほどだったが、雷の火が身を打ったかのようにわたしは泣き叫んだ。


 やめて、やめて、集! いや、やめて、お願い、いやぁっ――――


 喉が潰れるほど叫んでも、集はやめてくれることはなかった。激情に憑かれたかのような時間が繰り返し過ぎた。呆然とするわたしに集がみせた顔は、ひどく自嘲的だった。


 ――――帰れよ。


 その言葉通りにしようとしたわけではないけれど、わたしはふらふらと浴室へ向かっていた。疲れ果てて、なにもせずそこで眠っていたらしい。目が覚めたとき、けれどわたしを包むひどくあたたかい体温に、胸の潰れる思いだった。集はわたしの腰に腕をまわして眠っていた。

 街を二人で歩いていたとき、人にぶつかってよろめいたわたしを、集はしっかりと受け止めてくれたことがあった。そのときの温度となにも変わらないものだった。

 細くはない体型のわたしは冗談めかして、わたし、重いでしょう? と彼に聞いた。彼はぶっきら棒に、普通だろうと言った。お前を抱えて百メートルを全力疾走したってどうってこともない、とも。それはただの自慢じゃないのと返すと、女ひとり満足に楽させてやれなくてどうすると、不機嫌そうに、でもその後、不遜な言葉とは裏腹になぜだか少し嬉しそうに微かに笑った。それが小さい子どもがする態度のようで、その一瞬だけ幼くみえた顔と、わたしを組み敷いたときの能面のような色のない表情、それでも変わらない腕のあたたさかに、わたしは叫びたくなった。


 ねえ集、こんなことをされても、あなたの腕が優しいと感じるのは、どうして?


 きっかけは、本当に些細なことだった。理由も思い出せないくらいに。些細な齟齬そごをお互いに埋めようとした。けれどすれ違いはすれ違いを生み、わたしたちは沼の対岸に互いをみつめる、足をとられた鳥だった。進もうとすればするほどずぶずぶと深みにはまり、飛び立つ羽さえ身動きのする方法がわからなくなった。行く先は、暗澹たる視界に呑まれる沼にしかない。互いの姿など、とうに見えない。けれど助けを求め、相手をうことを、やめることはできない。ますます、羽は沼に沈んでゆく。


 わたしは集の腕を解いて、力の入らない身体を起こした。立ち上がって、スカートをはいて、やわらい生地のブラウスに袖を通した。


*** *** ***


 ボウタイを拾い上げて、リボンの形に結った。きゅ、という布の引き締まる音が、辛うじて隠れた鎖骨と、首元の鬱血痕に似つかわしくなくて、口元がいびつに上がった。結った左の輪が少し大きいことに気づいて、直そうとした。

 その手に、なにかがぽつりと落ちた。

「な、で……、ここで、泣いたって……」

 もうその後は続かなかった。


 いつの間にか、泣きじゃくりながらわたしはどしゃぶりの雨の中を走っていた。川が決壊したかのような雨だった。

 ドォン、と大きな音がして、とっさに明かりのある所へ逃げ込んだ。

 ざらざらとした壁に身を預けて、ひゅぅひゅぅ、と細く息を吐き出した。唸る雷と雨の音が耳を通り過ぎていく。

 うなだれた視界に、しおれたようになったボウタイが垂れ下がっていた。嗚咽おえつがとまらなかった。

 多分、一番かなしかったのは、この服のボタンが散ったときだった。あまり身体が細くないわたしが、なるべく着やせして見えるようにやわらかい生地のブラウスを好んで着ることを、彼は知っていた。その中でもこれは、とくに好きだったブラウスだった。

 集はなにも言ったことはなかったけど、わたしがボウタイでリボンを結ぶ姿を、いつもじっとみていた。わたしが綺麗な形にリボンを結えるのを、集はきっと好きなんだろうと思った。それは密かなわたしの自慢になった。


 いつからだろう、わたしたちがこんな関係になってしまったのは。苛立ちを抑えきれないといったような集の態度は、わたしが冷静に距離をおこうとすればするほど激化していった。その苛立ちは、集の力の限りわたしに向かったんだろう。今日のようにああ・・されたことは、初めてだったけれど、結局わたしは、それ以前から、集にほとばしる激流を甘んじて受け入れていたのだと思った。

 

 突然、声がした。

「さ、酒井さんっ!?」

「海藤さん……」

 雫がぼたぼたと滴る傘を持って、その人の身につけるスラックスは色が変わるほどであった。なにか信じられないものをみる目で、職場の同僚は唖然と佇んでいた。

 海藤さんは、こちらに駆け寄って、「何をしてるんだ」とか「こんな時間に、それよりいや、そんなに濡れて風邪を引くんじゃないか」とかひどく慌てていた。

「……どうしたんですか? こんなところで」

「それはこっちの台詞だよ、とにかく、そんな様子だとまずいな。俺の部屋に……いや、タオルを持ってこようか。ああ、ここ、俺が住んでるんだ。とりあえず、身体を拭くだけでもしたほうがいい」

 改めて見回すと、ここはマンションのようだった。そういえば、集の部屋の近くに住んでいると聞いたことがあったかも知れないなと、親切な言葉をかけてくれる同僚を眺めた。

 集がこんな気遣いをみせてくれる人であったなら、わたしはもがいて羽を散らすこともなかったのだろうか。最近の乱暴な態度のなかにも、あまね、とわたしの名前を丁寧に呼ぶ声の優しさは、昔から同じだった。腕のあたたかさも、いや、それは、こんな関係になってむしろより深く肌に浸透していった。わたしに触れる集の手は前よりずっと熱をもち、わたしを包む腕の荒々しさと態度の偏りに、胸の奥がきしみをあげる。



 たすけて、集。わたしには、この恋の行方がみえない。


 

「酒井さん、それ……」幾分、顔を青くした海藤さんがわたしを、正確には首のあたりを凝視していた。思わず、ぱっとその場所に手を当てた。

「……」

 わたしはとてもひどい格好をしていると思った。全身が濡れていて、ブラウスのボタンは所々なくて、紺色のボックススカートからは雫がぽたぽたと床にはねている。隠した首元だけではなく、腕にも脚にも、鬱血痕が散っていた。

「想像なさってるようなひどいことは、ないですよ」

「いや、それは……」

 笑えたかどうか自信がなかったけれど、取り繕う気にはなれなかった。

「……だいじょうぶです、帰れますから」

「酒井さん、正気?」

 海藤さんはとても嫌なものをみるかのように顔を歪ませた。

「平気ですよ」

 海藤さんはわたしの姿をまじまじとみたあと、唐突にわたしの両肩を掴んだ。

「ねえ、大体想像はつくけど、君をそんな目に遭わせるような男とは別れたほうがいい」

 びっくりして、声が出せなかった。一体なにが起こったのかわからなかった。

「なっ……」

「酒井さん、最近辛そうだったよ。周りが心配してるの気づかなかった?」

「ちょっとした心配事があっただけです、それより、離してください」

 海藤さんの、わたしの両肩を掴む手にますます力がこもって、濡れた布から伝わる熱がとても不快だった。肩が痛くて、身をよじったけれど、背中に当たったのは壁だった。

「酒井さん、その、こんなときになんだけど、そいつと別れて俺と付き合ってくれないか」

「いきなり、なに言うんですか、あの、離してください」

 急な同僚の変化についていけず、足が震えた。

「酒井さん、俺、前から君のことが――」

「いやっ!」

 あまりの展開に、怖くなって手を振り払おうとしたときだった――――


 ダァン! と身のすくむような大きな音がした。この壁を、どのくらいの強さで打てばそんな音がするのだろうと、その音をさせたものの感情の激しさを知って、わたしは息を飲んだ。集が、そこに、いた。



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