せつない話 2
幸盛には四人の息子がいる。それぞれに個性的だが、四人に共通しているのは運動能力が非常に高いということだ。四人ともが、小中学校の保健体育の成績はほとんど5(小学校の場合は◎)ばかりもらってきた。
これはおそらく、幸盛よりも母親の血を濃く受け継ぎ、当時はまだエレベーターがなかった市営住宅の四階に住んでいたおかげだと思う。彼らはろくに歩けない時分から日に何度も階段を上り下りし、しっかり足を鍛えたのだ。
幸盛の父・盛沢山は、ごったがえすカーマホームセンターの駐車場で、やっと空車スペースを見つけて車をねじ込んだ。ところが、幸盛の三男アツシはぐっすり眠りこけている。起こすのもかわいそうなので、アツシの兄二人に言った。
「ステンレスの釘を買ってくるで、車で待っとれ」
「ぼくも行きたい」
「アツシ、よー寝とるで起きへんわー」
と、長男と次男が口をそろえるので、すぐに戻ればいいかと三人で車から離れた。他にも色々見て回りたかったのだが車に残してきたアツシが気になるので、ものの十分ほどで車に戻った。ところが、助手席で眠っているはずのアツシがいない。まさか誘拐されたんじゃないだろな? 三人は手分けして必死でアツシを探し回った。
アツシが目を覚ますと、車の中には自分しかいない。ぼんやりした頭で、なぜこんな場所にいるのかを考えた。すぐに、お兄ちゃんとノリ君とおじいちゃんと三人で名古屋港まで船を見に行き、その帰りに眠ってしまったことを思い出した。どこかの広い駐車場のようだが、とにかく外に出て様子をうかがうことにした。
しかし、どこにも三人の姿は見あたらない。駐車場のはずれを見ると、なんとなく見たことのある建物が見えた。その建物を目指して駐車場を横切って広い道路に出てみると、まわりの風景に見覚えがあった。
左の方には高速道路が走っていて、右に行った突き当たりはパチンコ屋だ。まちがいない。パチンコ屋を右に曲がって信号を五つほど行けば左側に自分が通う千音寺保育園がある。毎日、保育園の送迎バスで通っている道だ。反対に高速道路の下をくぐり抜けてまっすぐ行けば、自分の住む団地があるはずだ。しかし、今日は家に帰っても両親がいないことを思い出した。父母二人だけでどこかへ出掛けたため、兄弟三人はおじいちゃんの家に預けられたのだ。
自分の家とおじいちゃんの家は車で十分もかからない距離だった。何度も行き来しているから道順もわかる。よし、と気合いを入れ、アツシは走り始めた。
車ならものの五分で着くのに走ってみると意外に遠かった。高速道路の下にある信号が青になるのを待って道路を渡り、高速道路の下の道を蟹江町に向かって走る。福田川にかかる橋までのゆるやかな坂を登り、下った最初の信号を左に折れて、突き当たりまで行ってから右に曲がる。しばらく走って美容院の角を左に折れて一本目の道を右に曲がり、百メートルほど行ったところがおじいちゃんの家だった。
およそ二キロに近い距離を、アツシは一度も休むことなく汗だくになって走り通した。玄関の戸を開け「ただいま」と大声で叫び、ノドがカラカラに乾いていたので冷蔵庫から牛乳を出して飲んでいると、おばあちゃんが二階から降りてきてアツシに尋ねた。
「おじいちゃんたちは?」
「ぼくだけ先に帰ってきた。もうじき来るよ」
「そうかね」
のんきなおばあちゃんは二階に戻った。
それから一時間半も過ぎたころ、顔面蒼白の盛沢山と兄二人が慌ただしく玄関の戸を開けた。警察に捜索願を出す前に、万に一つの可能性を恃んで帰ってきたのだった。
アツシは玄関に走り、大きな声で三人を出迎えた。
「おかえり」
盛沢山はアツシを一目見ると、安堵のためその場にへなへなとしゃがみ込んだ。まさか四歳のアツシが、この距離を一人で帰ることができるなんて……。盛沢山はただちにさんざん心配をかけたホームセンターに電話して、孫が無事見つかったことを報告したのだった。
それから三年ほどが過ぎ、幸盛の妻がクモ膜下出血で倒れて二度目の手術を受けたのは、アツシの小学校入学式当日だった。その日、幸盛は朝早く起きて一人で掖済会病院まで行き、全身麻酔をかけるために病室を出る妻を見送った。そして急いで帰宅し、アツシに服を着せ、自分も慣れないスーツを着込んで入学式に参加した。明正小学校のまわりの桜は満開で、これ見よがしに爛漫と咲き誇っていた。
体育館のイスに座って待っていると、六年生に手を引かれて新一年生が次々に入場して来た。その中からアツシを探し出すと、つい二時間ほど前の、生死をかけた手術に挑もうとする妻の覚悟の言葉が思い出されてきた。
「だいじょうぶ、親はなくても子は育つ、ってね」
*文芸同人誌「北斗」 第560号(平成21年9月号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/