太陽にはなれない
肌を刺すような日差しが降り注ぐ真夏に、それは起こってしまった。
『続いて速報です。栃木県那須塩原市の向日葵畑にて、二十代女性の遺体が発見されました』
私は素麺をすすっていた手を止めて、テレビを食い入るように見つめた。被害者の名前に見覚えがある。
「……香菜ちゃん?」
高校生の時にクラスメイトだった女の子。今は疎遠になっていたけれど、それなりに仲がよかった。
どうして?なんで?
そんなことを考えている内にも、テレビは報道を進めていく。
『被害者の遺体の傍には切り花の向日葵があり、被害者に向けて添えてあったとのことです。警察は犯人が意図的に置いたものとして捜査を進めています』
向日葵——その言葉に、私は背筋をそっとなぞられたような気持ちの悪い感覚がした。
"誰かに向けられた向日葵"が怖い。どうしても、昔のことを思い出してしまうから。
「茉莉花ちゃんは今日も可愛いね」
あの低い声、あの赤らんだ顔、そして——渡される向日葵の花束。
いつしかそれが怖くなっていた。けれど、別れを切り出したのは彼の方だったから。
私はめんつゆにつけっぱなしの素麺のことを忘れてスマホを開いていた。「向日葵畑 事件」と入力して、事件についての記事を読む。
倉持香菜、24歳。栃木県那須塩原市にて殺害された女性の被害者。何者かに腹部を刺されて失血死。
……記事を読み進めて、私は思わず息を呑んだ。
そこに書かれていたのは——
被害者の眼球が潰されており、強い意志と計画性による犯行とみられている。という一文だった。
「……うっ、う、あ」
誰かに向けられる視線が苦手だったあの子、そして私。じゃあ、この事件は一体なんだというのだろう。
殺害された香菜ちゃん、香菜ちゃんに向けられた向日葵の切り花、潰された眼球。
自意識過剰かもしれない。でも——
この事件は、私に何か関係がある気がしてしまう。
部屋を見回すといつも通りの風景が広がっている。無造作に置かれたクッションが並び、飾り棚には観葉植物があって、ソファに沈む私の前には食べかけの素麺がある。
そんな"いつも通り"が、嵐の前の静けさに似た不安を積み立てていく。気の所為かもしれない、でも気にせずにはいられないようなもどかしさ。
麦茶のグラスに入っている四角い氷が、カランと軽い音を立てて溶けていく。テレビの報道はすでに次の事件へと変わっていて、私だけがこの不安に取り残されてしまった。
向日葵は怖い。大きな花が目玉のようにぎょろりとこちらを見ているようで、たくさんの視線を浴びている気分になるから。
誰かの視線ほど怖いものはない。見られているという事実だけで胸が詰まって、溺れたように呼吸ができなくなる。
——そういえば、香菜ちゃんはSNSをしていた。同窓会の時に交換したから覚えている。
スマホをもう一度開き、先ほどの記事のタブを消して今度はSNSを開いた。指を滑らせて見つけた香菜ちゃんのアカウントのアイコンを押す。
最新の……一番最後の投稿をタップして確認する。一ヶ月前の『彼氏ができた!』という一文が液晶の中で光っている。
それ以外の投稿はカフェの写真ばかりで、何の変哲もないものばかりだった。
いや、私には関係ない話だ。それはわかっている。ただの元クラスメイトなだけで何も関係ない。
なのに、何故こんなにも気になってしまうのだろう。
向日葵畑で起こった事件だから?顔見知りが被害者だから?
——それとも、彼を思い出してしまうから?
きっとそうだ。だって、私と彼は結婚を誓ったのに、彼の方から私を切ったんだから。
考えるのをやめようと思っても、不安は加速するばかり。思い出すのも億劫なあの記憶が、勝手に頭の中を流れていく。
高校生の夏のこと。部活帰りに校舎の裏で告白された私は、彼——健一くんと恋人になった。
暑さと緊張でお互い真っ赤になりながら、手を繋いで帰ったことを覚えている。
防波堤に並んで座り、初めて男の子の唇を知ったあの日。彼は私にこう言ったのだ。
「僕たち、大人になったら結婚しようね」
たかが高校生の口約束。私はそう思ったのか「結婚?」とオウム返しをしていた。
「うん。特別じゃない愛は偽物だと思うんだ、だから結婚という契約を交えて初めて僕たちは愛を手に入れられる」
私は何を言われたのか理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをしていたと思う。でも、私も健一くんが好きだったから「うん」とだけ返していた。
その日から、健一くんは向日葵の花束を私に送るようになった。毎日欠かさず行われ「結婚しようね」という言葉付きだったそれは、クラスメイトからの好奇の視線の的だった。
「ねえ、健一くんと茉莉花ちゃん見てよ」
「ラブラブじゃん」
——怖い、と思った。
品定めするような視線も、結婚をせがむ健一くんも。
でも一番怖かったのは、あの向日葵だった。
あまりにも大きくて、まっすぐで逃げ場がなくて。まるで"見ていること"をやめてくれないみたいだった。
——だから、私は少しずつ距離を取った。
連絡の頻度を減らして、部活のあとも一緒に帰らなくなって。それでも健一くんは怒らなかった。ただ、いつもと同じ顔で言うのだ。
「大丈夫。茉莉花ちゃんはちゃんと僕のものだから」
その言葉の意味を私は深く考えなかった。
……いや、考えないようにしていたのかもしれない。
*
スマホの画面を見つめたまま、私は動けなくなっていた。香菜ちゃんの投稿。『彼氏ができた!』
その文字列の下に、小さなハートの絵文字が並んでいる。
——その“彼氏”は、誰?
何かがひっかかった。理由はわからないけれど、スクロールする指が止まらない。
一つ前の投稿。二つ前。三つ前。全部、どうでもいい日常の写真なのに。
——最後から二番目の投稿で、指が止まった。そこには、向日葵の写真があった。
『もらったの!やったー!』
それだけの短い一文。写っているのは数本の向日葵の切り花。どこにでもある、ありふれた花束。
なのに。どうしてか、その写真が——
“私がもらっていたもの”と、同じに見えた。
「……そんな、まさか」
喉が引きつって、調律が狂ったピアノのように不安定な母音しか出ない。
ありえない、これは偶然だ。向日葵はよくある花だから。そう思おうとしても、うまく呼吸ができない。
だって——健一くんは、別れる時に言っていた。
「特別じゃない愛に価値はないよ」
じゃあ、もし。
もし、彼が“次の特別”を見つけていたとしたら?
そう思ったその時、画面の上部に小さな通知が表示された。
『新着メッセージがあります』
差出人の名前を見た瞬間、私はスマホを取り落としそうになった。机がずれて麦茶の結露が飛ぶ。
健一。
震える指で画面をタップする。開かれたトーク画面には、たった一行だけ。
『久しぶり、元気にしてる?』
なんで、なんでなんで。
私は連絡先を彼に教えてないのに、なんで。
恐怖と困惑が綯い交ぜになって、クッションを引っ掴んできつく抱きしめた。
スマホの画面がまた光って、通知の間抜けな音が鳴る。
『最近暑いよね、向日葵が見頃だ』
『茉莉花ちゃんはお花好きだよね、まだ飾ってたりするの?』
だって、あの時私を振ったのは健一くんなのに。
「僕は子供だから、この関係はずっと続けられない。」
そう言って、私を放課後の廊下に置いていったのは、彼なのに。
また通知が鳴って、反射的に画面を見た。
『向日葵、まだあるのかな』
『ちゃんと顔の向き揃えて飾ってる?』
息を吸いすぎて肺がツンツンと痛い。でも、それを感じている余裕なんて少ししかなくて。痛覚でさえすぐに恐怖で埋め尽くされてしまう。
ふと、またテレビの報道が聞こえてきた。香菜ちゃんの事件がまた放送されている。
香菜ちゃんは同じクラスで、どちらかというと大人しい子で。特に目立つところもない普通の女の子という印象だった。
私と彼女はたまに話していたくらいの仲で、彼女も人の視線が苦手で。
「茉莉花ちゃんは優しいね。私にも話しかけてくれるし、なんだか安心するの」
ふと、彼女との会話を一つだけ思い出した。教室の隅っこでお昼を食べていた時のこと。
「そう? よくお母さんみたいとは言われるけど」
私がそう言うと、香菜ちゃんは困ったように眉を下げて笑うのだ。少し間があってから、
「うん。なんか、分け隔てないというか。皆に優しいから……」
と言って、またお弁当へ視線を戻していた。
あの間は何か言葉を飲み込んだ間だって、今ならそう思う。彼女は私に何を言いたかったんだろう。
私が優しいのは、皆からの視線を受けないためなのに。だって、優しい子になれば皆はそれ以上の印象を持たないから。
あの子は——香菜ちゃんは、誰かに花をもらってたっけ?
『視線って平等じゃないとだめだよね』
再度鳴った通知によって、私は現実に戻された。返信せず既読だけつけているのに、彼は送るのを諦めない。
『平等って難しいんだよ、特に人間は皆を分類してランクをつけたがるから』
『だけど、もし見る対象が一つしかなかったら、それは幸福だと思うんだ。その人しか考えないで済むから』
指が震えていた。返信なんてしたくない、関わりたくない。そう思っているのに——画面から目を逸らせなかった。
ここで逃げたら、きっともっと怖いことになる。私は誤字を修正しつつ、たった一言だけ打ち込んだ。
『……どういう意味?』
送信ボタンを押した瞬間に心臓が嫌な音を立てた。既読がつくまでの数秒がやけに長く感じる。
そんな不安をよそに、すぐに既読がついた。
『簡単だよ』
送ってから十秒、返事は間髪入れずにくる。
『平等ってこと。みんな同じように見られないとだめなんでしょ?』
『それが君の根幹だよ、茉莉花ちゃん』
顔中涙に濡れていて、喉からは引きつった嗚咽しか出てこない。孤独感が急速に増していって、誰かに助けを求めたかった。
『香菜ちゃんだっけ。残念だったね』
矢のように返信が飛んできて、私の心を確実にえぐる音がした。
『彼女も、ある意味君の被害者かもね』
そんな文面を残したまま、健一くんのメッセージはパタリと止んだ。スマホを握る手の震えが止まらなかった。
——被害者かもね。
その一言が、頭の中で何度も反響する。
「……違う」
小さく呟いたはずなのに、一人の部屋ではやけに大きく聞こえた。麦茶のグラスに入っていた氷はとっくに溶け切っている。
違う、違うよ。香菜ちゃんが死んだのは私のせいなんかじゃない。
そう思おうとして、ふと指が動いた。
香菜ちゃんの"彼氏"。
先ほどからその言葉がささくれのように引っかかっている。
私はもう一度香菜ちゃんのSNSを開いてみる。今度は写真じゃなくて、コメント欄を開いて覗いてみた。
『優しそうな人!』
『どこで知り合ったの?』
そんな友達らしきアカウントとのやり取りの中に、一つだけ気になる返信があった。
『同窓会だよ〜!覚えてない?』
——同窓会。
心臓が壊れそうなほどに鼓動している。
私も行った。もちろん香菜ちゃんもいた。でも、誰かに"見られている"気がしてすぐに帰ったのを覚えている。
じゃあ、その"彼氏"もいた?
画面をスクロールする指が止まらない。さらに過去の投稿、さらにその前を。
そして、ようやく見つけた。ぼやけた写真を。
数人で写っている集合写真の端。顔ははっきりしないけれど、その輪郭にどこか見覚えがあった。
「……誰」
健一くんじゃない。でも、知らない人でもない。私は彼を思い出せないだけで、ちゃんと"知っている"。
涙はもう枯れたはずなのに、また喉の奥がひくりと引きつった。
その瞬間、またスマホが震える。
『思い出した?』
知らないアカウントからの短い一文。まるでこちらの思考を覗き込んでいるみたいに的確な文字列。
『君は覚えてないだろうけどさ』
『君に平等に扱われた人間は、君のことを忘れないよ』
比喩なんかじゃなく、私の呼吸がピタリと止まった。
平等。その言葉が急に別の意味を持ち始める。
『特別にされなかった側の気持ち、考えたことある?』
——ぞわり、と。背中を何か得体のしれないものが這い上がっていく。
私はようやく理解し始めていた。
視線、向日葵。平等。
その全部がどこかで繋がっているのだと。
そして、その中心にいるのは——
「……私?」
*
あの恐ろしい時間から数日が経った。私は同級生の友達と一緒に喫茶店にいる。
天井から照明が吊り下げられ、暗い赤色のソファに体が沈み込む。珈琲の香ばしい匂いと軽食の食欲をそそる匂いが、あたたかみのある店内に充満していた。
友達——明美ちゃんは、香菜ちゃんと仲がよかった子でもある。だから連絡をとってここに呼んだ。
アイスティーをストローでくるくるとかき混ぜながら、明美ちゃんは私の言葉を待っている。
「……明美ちゃん。あのね、この写真のこの人。誰だか分かったりする?」
私はスマホであの投稿に付けられていた写真を見せた。明美ちゃんはそれを凝視してから、ポンと手をたたいて言う。
「あー……友樹くんだ、これ。いつも教室の隅っこにいた暗い感じの人」
——友樹くんと呼ばれた彼は、人とあまり話さないタイプだった。話しても義務的な会話しかしないから、皆とあまり関わりがないような子。
「……その、友樹くんって。香菜ちゃんの彼氏だったんじゃないかなって」
「え〜?? 香菜ちゃんが?」
香菜ちゃんの名前を出した瞬間、明美ちゃんの表情が曇ったことに気づいた。でも、ここで止まれば私はどうなってしまうのかわからないから。
「あ、でも確かにそれっぽい男の子と歩いてたのを見たような……あれ友樹くんだったの?」
「かも、しれないの」
そう言った瞬間、喉の奥がひどく乾いた。私はそれを誤魔化すようにぬるくなった珈琲を飲む。
明美ちゃんは少しだけ考えるように視線を上げて、それからストローを噛みながら言った。
「でもさ、あの子ちょっと変わってたよね」
「……変わってた?」
そう聞き返すと、明美ちゃんは肘をついて身を乗り出した。
「うん。なんていうか……誰とも距離取ってるくせに、ずっと見てる感じ」
ずっと見てる。その一言に心臓が掴まれたように苦しくなった。
「あとさ、一回だけ話したことあるんだけど」
明美ちゃんは思い出すように眉を寄せた。
「"平等って残酷だよね"って言ってた」
「……え」
思わず小さな声が漏れた。
「みんな同じように扱うってことは、誰も特別じゃないってことでしょ、って。なんか急にそんなこと言い出してさ。ちょっと怖かったんだよね」
平等。その言葉が出てきた瞬間、血が抜けたように指先から冷えていく。
「でも優しい子ではあったよ?香菜ちゃんにもよく話しかけてたし」
「……優しい?」
明美ちゃんは香菜ちゃんを思い出しているのか、少し俯いて続ける。
「うん。なんか、あの子も安心してる感じだった」
私と同じだ。香菜ちゃんは"優しさ'に安心していたから。じゃあ、友樹くんは単純に優しいから彼氏だっただけ……?
そこで視線を感じた私は、反射的に顔を上げる。喫茶店のガラス越し、通りの向こう側に誰かが立っている。
——こちらを見ている。
距離があるせいで顔ははっきりしないけれど、その立ち方に覚えがあった。
動かない。ただ、じっとこちらを見ている。
「……ねえ、明美ちゃん」
「ん?」
空になったグラスの結露をなぞっていた明美ちゃんは、私の指をさした方向を見た。
その人影は、明美ちゃんがそちらへ向く瞬間にすっと視線を外した。まるで最初から何も見ていなかったみたいに。
そして、そのまま人混みに紛れて消えていく。と、同時にスマホが震えた。
画面を見るのが怖くて、それでも見ないわけにはいかない。葛藤の末、私はついに画面を開く。
通知は一件。また、知らないアカウントからのものだった。
『ちゃんと見えてるね』
その下に、もう一つだけ文が添えてあった。
『やっと"同じところ"まで来たね』
「茉莉花ちゃん? 大丈夫?」
明美ちゃんの声で意識が喫茶店に戻ってくる。
同じところってなんだろう、同じところって?
「ごめん明美ちゃん。今日は帰るね」
私はお金を置いて喫茶店を出ていった。背中に明美ちゃんの声がぶつかったけれど、今はそれどころじゃない。
私はあの人が消えていった方向へ走る。サンダルのストラップが肌を擦って赤色に染めていった。
商店街を抜けて、住宅街を走り抜けて。小さな公園で足を休めるためにベンチに座る。
彼は見つからなかった。そうして諦めようとしたその時——
「ねえ、茉莉花ちゃん」
やけに穏やかな声が後ろから降ってきた。ベンチから跳ね返るように立って後ろを向くと、彼がいた。友樹くんが、そこにいた。
「やっと同じところまで来たね」
目の前に立っているのに距離の感覚がうまく掴めなくて。逃げなきゃいけないのに、恐怖と疲れで足は動かない。
「君、ずっと平等だったでしょ」
友樹くんは私を責めるでもなく、ただ確認するみたいにそう言った。濃紺に染まりかけた空から彼の瞳だけを切り取ったように、鋭く光って見える。
「誰にでも優しくて、誰のことも傷つけないようにしてた」
違うと言いたかった。でも、空気を震わせるだけで音にはならない。
「でもそれってさ」
友樹くんが一歩、私に近づいてくる。
「誰も選ばないってことだよね」
私はそれに合わせて後退りをする。でも、下がった分だけ詰められる。
「特別じゃないってことは、いなくても同じってことだよ」
——違う。
そう思った瞬間、彼は小さく息を漏らした。それから堰を切ったように笑い始める。
「うん、そういう顔すると思った」
この男に全て見透かされている。それが怖くて怖くて、私の瞳はとうとう涙を流し始めた。
「香菜ちゃんね、僕といる時安心してたよ。君の時と同じで」
「優しいっていいよね。何も考えなくていいから」
返す言葉が見つからなかった。というより、声がもうまともに出せなかった。
「でもさ、平等って残酷なんだよ」
彼の声はどこまでも静かで凪いでいる。まるで台風の目に立たされているかのような気分だ。
逃げられない。逃げたら最後、巻き込まれる。
「だって、差がないってことは——全部同じってことでしょ?」
じわじわと逃げ場がなくなっていく。行動を起こしてしまえば、何か悪いことが起こる気がして何もできない。
「だから僕、揃えてあげたんだ」
その言葉が空間に落ちてきた瞬間、世界のありとあらゆるものが止まった気がした。
「見られるのが怖いなら、見えなければいい」
「選ばれないのが苦しいなら、最初から差がなければいい」
友樹くんは限りなく優しい声音で、とんでもないことを口にしている。それは、見えなければいいとは、つまり——
「これで平等だよ」
ふ、と小さく笑ってから、友樹くんはこてんと首を傾げた。疑問を持った子供のように。
「ねえ、茉莉花ちゃん」
名前を呼ばれた。恐る恐る顔を上げると、彼は私の前にしゃがみ込んでこう聞いた。
「君は、どっちがよかった?」
逃げ場のない優しさか、全部同じになる静けさか。それを彼は問うている。
「僕はね、君の特別になりたかったよ」
そう言って目を伏せて、彼は顔を両手で覆った。
「君の特別になりたくて、でもなれなくて。君に恋人ができたって聞いた僕の気持ちわかる? わからないよね」
「ま、待って」
「待たない」
間髪入れずにそう返されて、私はもうがたがたと震えることしかできなかった。
「茉莉花ちゃんは太陽みたいだよ、太陽。皆を日光で照らすくせに、誰のものにもならない」
「健一は君に結婚申し込んでたでしょ。知らないよね、彼は僕の双子の兄だよ」
「……双子?」
理解が追いつかない。言葉の意味は分かるのに、現実として噛み合わない。
「うん。顔、似てないでしょ」
友樹くんは場違いなほど穏やかに微笑んだ。
「でも中身は結構似てるよ。あいつは"特別にしたがる側"、僕は"されなかった側"」
その言い方にまた背中が冷たくなる。
確かに、健一くんは私に何度も「特別」だと言っていた。でもそれは、本当に愛だけの言葉だったの?
「健一はさ、君しか見てなかった。僕はさ、君に一度も見られなかった」
友樹くんの独白が、私の心臓をすりおろすようにゆっくり削っていく。
「同じ家で育って、同じもの食べて、同じ学校行ってたのにさ」
「君の視線は、最初から最後まで——」
そこで、友樹くんは顔から両手を外して私と目を合わせた。彼の瞳は潤んでいて、街頭の光を反射している。
「一度も僕に止まらなかった」
友樹くんは一拍の間を置いてから、また口を開く。
「ねえ、平等って何?」
それは問いかけのはずなのに、答えは全く求められていない。そんな、彼が長年抱えていた疑問だった。
「君はみんなに優しかったよね」
「でもそれ、"全員に同じ量だけ無関心だった"ってことじゃないの?」
私の中にあった何かが軋む音がした。
「香菜ちゃんもそうだった。君に安心してた。だって"誰にも選ばれない側"だったから」
「……違う」
やっと絞り出した声は、風の音に溶けてしまいそうなほど情けなくて、小さい声だった。
「違うよ……」
「違わないよ。君はね、選ばないことで誰も傷つけないって思ってた。そうでしょ?」
図星だった。そうだ、私は選ぶのが怖かった。選ぶことで視線が向くことが怖かった。
「でも実際は、誰も救ってなかった」
また一歩距離が詰まる。もう人一人分の距離もない。
「だから僕が揃えたんだよ」
その言葉の意味が、今度こそ理解できてしまった。
見られるのが怖いなら、見えなければいい。選ばれないのが苦しいなら、差がなければいい。
——全部、同じにするために。
「優しいでしょ?」
子供をあやすような優しい声で、地獄みたいなことを言う。
「これで"特別じゃないことで苦しむ"ことはないんだよ。香菜ちゃんもそれを望んでたからね」
じゃあ、じゃあ香菜ちゃんの眼球が、潰されていたのは——
「でもさ」
過呼吸になりかけた私の頬を包んで、
「君だけは、別だよ」
と言った。
「だって君は——僕を作った人だから」
「……え」
ぐるぐると回っていた思考が、そのひと言で完全に止まってしまった。
「君が平等でいたから、僕は"特別になれない側"として完成した」
要は、
「君がいなかったら、僕はただの誰でもない人間だった」
友樹くんは静かに、それでいて確信を持って言い切った。
「だから責任、取ってよ。今度はちゃんと、僕を選んで」
その瞬間——遠くでサイレンの音が鳴った。誰かが通報したのかもしれない。あるいは偶然かもしれない。
でも、彼は少しも慌てなかった。
「……ねえ、茉莉花ちゃん」
最後にもう一度だけ、私の名前を呼んだ。
「名前を書いたら、君の負けだからね」
——そのあと、どうやってその場をやり過ごしたのかはあまりよく覚えていない。
気がついた時には、パトカーの赤色灯が視界を塗り潰していて、誰かに肩を支えられていた。
友樹くんは、抵抗しなかった。ただ、連れていかれる直前——私の方を見て笑った。
さっきと同じ、やけに穏やかな顔で。
***
数日後。
ニュースはすぐに別の話題に移り、向日葵畑の事件も少しずつ「過去の出来事」になっていった。
友樹くんは逮捕された。動機もおおよそ報道された通りだったけれど、彼は終始笑っていたという。
——"歪んだ思想による犯行"。
そんな簡単な言葉で片付けられていく。まるで最初から、そういう物語だったみたいに。
でも、私の中では何一つ終わっていなかった。
あの日から、ずっと考えている。
選ばないことは、本当に優しさだったのか。それともただの逃げだったのか。
答えはまだ出ない。私は完璧に整った答えを出したくないのかもしれない。
ただ一つだけ、心の中ではっきりしていることがある。
私はもう「太陽」ではいられない。
***
満月が夜空に輝く夜。部屋の電気を消してベッドに横になる。静かなはずなのに、頭の中はずっと騒がしい。
ガコン。
郵便受けに何かが入る音がして、ベッドから転がるように起き上がった。
ドアスコープを覗いても誰もいない。恐る恐る蓋を開けると、そこには小さな包みと——
「こ、こ、婚姻届……」
記入してある婚姻届が一枚。夫の欄には"神田健一"の文字。思わず目をそらし、小さな包みに視線を移した。
そっと封を開けて中身を確認すると——向日葵が一本。
意味は確か『あなただけを見つめる』だったはず。
喉から空気が漏れて音を立てた。手の中の向日葵が、かさりと揺れる。
——あなただけを見つめる。その意味が、今ははっきりと分かった。
私はずっと選ばなかった。誰も傷つけないように、誰にも踏み込まれないように。
でもそれはきっと、何も選ばないことで自分を守っていただけだった。
視線を落とすと、フローリングに婚姻届がぽつんと落ちている。
夫の欄にはもう名前があって、あとは私の名前だけ。
「名前を書いたら、君の負けだからね」
大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。震える指で紙の端を掴む。
——私は、もう「太陽」ではいられない。誰の特別でもない、ただの茉莉花になってやる。
びり、と。
静かな部屋に不釣り合いな音が響いた。一度じゃ足りなくて、何度も何度も引き裂く。
紙はあっけなく形を失って、ただの破片になってしまった。
手の中に残ったのは細かく千切れた白い紙と、茎の折れた大きな向日葵。
——私は、今度こそ自分で選ぶ。その先に何があったとしても。
「健一くん、そこにいるんでしょ」
返事はない。けれど、私は虚空に向かって話を続ける。
「私は、あなたの特別にはならない」




