第8話
俺はこの場に『先生』として立っている。
ならば、すべきことは授業であるはずだ。
前回のように流されるままになることは避けなければ……。
少なくとも借金を肩代わりしてもらっている以上、中途半端なことはしたくない。
「せんせ、どうしたの?」
「いや……何でもない。『授業』を始めよう」
授業。その言葉がまだむず痒い。
まだ学生、それも学内戦では万年予選落ちの未熟な俺が『先生』という立場にいるのは恐れ多くある。
「前回は『好きの言語化』を行った」
「うん。せんせ、かわいかった」
…………こ、堪えろ。思い出すな。あの額に触れた、唇の感触を。
「せんせ?」
思い出すな。思い出すな。思い出すな。
そう自分に言い聞かせるほど、唇に、視線が吸い寄せられる。
桜色で瑞々しく。心地良い熱を孕んだ粘膜に――――。
「くすっ」
そんな俺の視線を見透かしたように、彼女は笑みを零した。
「…………っ。次は『欲求の言語化』をしてみようと思う」
「はぁーい」
まだ具体的に何をするのかを説明していないのに、返事だけはいいな。
「君が言語化した自分の好み……自分の好ましいと思う異性に対して、何をしたいか。何をしてほしいか。それをイメージして、言語化してみよう。前回の『好み』もそうだが、自分の求めているものを把握することは大切なことだと思うから」
「せんせ。質問していいですか?」
「…………ああ、勿論だ」
「せんせは、何をしてほしかったの?」
「え?」
突然の、思ってもみなかった質問だった。
リゼはいつものような蠱惑的な笑みを浮かべることなく、丁寧にカットされたサファイアのような瞳で、真っすぐに見つめてくる。
「せんせも、元婚約者さんにしてほしいこととか、あったの?」
「ヘンリエッタに……?」
「そ。元婚約者さんに優しくされたかったとか、こんなデートしたかったとか。そういう……せんせの抱いていた欲求も、言語化してほしいな」
「な、んで……そんなことを?」
「お手本を見せてほしいから」
……その要望自体は『生徒』として真っ当なものだ。
断るという選択肢は存在しないだろうし、契約書を結び、報酬を与えている彼女に対しては誠実であるべきだろう。
だが――――……。
「…………………………」
「どうしたの?」
「あ……いや…………」
思い出せ。俺がヘンリエッタに望んでいたことを。
思い出せ。俺が彼女に何を求めていたのか。
だが……どうしてだ。
「何も思い浮かばない?」
「…………っ」
「せんせは。あの元婚約者さんに――――何も望んでいなかった?」
見透かしたような。彼女の言葉を否定する術を……俺は持たなかった。
(思えば……俺はヘンリエッタに、何も望まなかったのかもしれない)
婚約者としての努力をしていたつもりだった。
だけどそれはあくまでも『婚約者』という役割を機械的に果たそうとしていただけで、ヘンリエッタのことなんて考えていなかったのかもしれない。
笑顔になってほしいとか、幸せになってほしいとか……。
俺は彼女のことを蔑ろにし続けていたのかもしれない。
「それで、いいんだよ?」
いつの間にか席を立っていたリゼが、近づいてくる。
「せんせが反省することなんて、なぁんにもないんだから」
こつ。こつ。こつ。
靴が奏でる足音が、部屋の中に響く。
「でも……あはっ。よかったぁ、安心しちゃった」
「あ、安心…………?」
思わず、彼女から距離を取ってしまう。
けれどリゼはその分もまた、近づいてくる。
「あの女は、せんせにキスもしてなかった。楽しいデートも、何も。何も何も、なぁんにも、せんせにしてなかった」
こつ。こつ。こつ。
「それって……せんせは、まっさらってことでしょ?」
こつん。
リゼの足音が止まる。
同時に俺も、これ以上、後ろに下がれなくなっていた。
背中に本棚がぶつかり、どれだけ押し込んでも彼女と物理的な距離が遠ざかることがない。
もう……逃げ場はない。なぜかそんなことを思った。
「やったぁ……♪ これからせんせの初めてが、ぜ――――んぶ、私のものになるんだね?」
「り、リゼ……?」
「ね。座って?」
言われるがまま……ずるずると滑り落ちるように、俺は床に腰掛けた。
「せんせ。私の欲求、言語化するね?」
彼女の次の言葉が紡がれるのを待った。
けれど、言葉よりも先にリゼの蒼い瞳が、どんどん迫ってきて――――
「――――――んっ!?」
唇が重なった。
蜜のような熱が、口から流れ込んでくる。
「っは……ぁはっ…………」
時間にして数秒。いや、十数秒? 分からない。どれぐらいの時間が経っていたのか。とにかく、何秒かしてから、リゼは自分から押し付けてきた唇を、自分で離した。
「……また、せんせのはじめて、もらっちゃった」
ぺろり、と。
リゼはキスの味を反芻するように、唇を舌で舐める。
唾液で僅かに潤いを得たその唇から……目が、離せなかった。
「り、ぜ……言語化は…………」
「せんせと、キスしたい」
「あ。それ、は……」
「だめ?」
「………………………………っ」
答えられなかった。
ここで何かを言おうとすれば、きっと拒否ではない言葉が出てくると思ったから。
「ねぇ、せんせ。私、言ったよね?」
白い指が、俺の唇に触れて、ゆっくりと表面をなぞる。
背筋にぞくぞくとした、痺れにも似た感覚が走った。
「『《《ここ》》にするのは、次のお楽しみにしておくね?』、って……なのに、そんな……予想もしてなかったみたいな顔するなんて。そんな可愛い顔、するなんて……私を、煽ってるの?」
「リゼ……いけない、これは…………俺たちは、そういう関係じゃ……」
「理由があればいいんだ?」
彼女はポケットから、紙に包まれた小さな粒を取り出した。
指先でつまむようなサイズの丸薬。
「これを飲めば、せんせに魔力が戻るって言えば……どうする?」
「…………っ。ど、どういう……」
「そのままの意味だよ。これはね? 特別な魔道具と、色々な薬草を組み合わせて、私が作った特製の丸薬なの。これを毎日一つずつ飲めば、せんせの魔力が戻っていく効果がある……どうする? 飲む?」
魔力が戻る? リゼが持っている丸薬を飲めば、飲むだけで……そんな都合のいいことが……いや。そもそも、それと、このキスは、どういう関係が……。
「あーん」
リゼは目を細めながら、自ら丸薬を口に含んだ。
ちろりと舌を出し、彼女の舌の上には……例の丸薬が乗っている。
「これ、唾液で溶けちゃうんだ。早くしないと……なくなっちゃうよ?」
そう言って、再びリゼの顔が近づいてきた。
ゆっくりと。徐々に、確かめるように……。
…………ああ、そうか。
彼女は俺に口実を与えようとしているのだ。
俺が彼女の唇を受け入れるのは、あくまでも丸薬を飲むためだと。
魔力を取り戻すためだという口実を――――。
「ん………………」
再び唇が重なる。
抵抗はしなかった。視界がぐらぐらとして、頭蓋がぐつぐつとして。
柔らかな感触を、蜜のように蕩ける熱を、口で味わった。
「ぁ……ふぁ…………」
丸薬を受け渡しするためか、リゼの蜜のような甘い舌が口内にするりと滑り込んできた。触れるだけだった接触とは比べ物にならない快楽が全身を焼き付ける。
「…………苦い、ね?」
「あ……ぁ…………」
「ほんとは甘く作りたかったの。でも、それだと、どうしても効果が落ちちゃうから」
「あぁ…………」
「せんせ」
まただ。また、リゼの顔が近い……。
「今日の分の丸薬はもう渡しちゃったから。……今度は、拒んでもいいよ?」
「………………………………………………」
三度目のキス。
今度は不意打ちという理由も、丸薬という口実もない。
ただ、ただ。目の前にある快楽を貪るために、唇を重ね、舌を絡ませあった。
今度はお互いの息が続かなくなるまで、重ね続けた。
「せんせ…………」
耳元で、リゼの声がする……。
彼女は床にへたりこんだ俺の膝の上に乗り、全身を押し付けるように俺の体を抱きしめていた。
「丸薬はね、一日一個ずつ、継続して飲まないと効果が出ないの」
「そう、なのか…………」
「うん。だからね――――明日も、明後日も、その先も……丸薬を渡してあげるから、ね?」
俺は彼女の言葉に……頷くことしか、出来なかった。




