第1話
「あなたとの婚約、破棄することにしたから」
「…………え?」
そのあまりにも一方的な言葉を、彼女はつまならさそうに爪を眺めながら、まるで「もう着なくなった古着を捨てといたよ」とでも言わんばかりの軽さで告げた。
王立メリアンジュ魔術学園の食堂。昼休みで人が賑わうど真ん中だというのに、周りの喧騒が欠片ほども聞こえてこない。頭の中が真っ白になっていた。
「そういうことだから」
「待ってくれ、ヘティ。どういう――――」
「気安くヘティって呼ばないでくれる?」
つい昨日まで当然のように呼んでいた愛称を咎められ、思うところがないわけではなかった。けれど今は、相手を刺激しないようにすることの方が重要だと判断し、反論は飲み込むことにした。
「……ヘンリエッタ、説明してくれ。婚約破棄? それは……君の両親も納得してのことなのか? 俺たちの婚約は家同士の決め事だ。勝手に破棄したり解消したりできるものじゃないだろ」
「婚約っていうのは、お互いにメリットがあるからすることでしょ?」
ヘンリエッタ・ビルヴィ。
彼女の実家はビルヴィ商会を営んでおり、男爵の爵位を授かってる。
だが周囲からは金で買った爵位と揶揄され、彼女の実家はクローズドな場である貴族社会へと入り込むためのコネクションを欲していた。
そこで歴史だけは無駄にある、レリック子爵家の長男である俺――――レリク・レリックと婚約することによって、念願の貴族社会への本格的な進出を果たそうとしていた。
伝統ある子爵家夫人の立場。
それが彼女のメリットだったはずだ。
けれど、婚約破棄をすればそのメリットを失うことになる。
「やあ、ヘティ。話はついたのかな?」
「もう終わるところよ、モーリス」
「…………っ!?」
さも当然のようにテーブルにやってきたのは、モーリス・ウォレト。
俺と同じ騎士科の生徒で、ウォレト《《伯爵家》》の次男。
子爵家であるレリック家よりも上。つまりヘンリエッタは、より上の男に乗り換えたということだ。
「……モーリス。どういうことだ」
「鈍いな、レリク。だから見限られるんだよ」
冷たく笑うモーリスの腕に、ヘンリエッタは自らの腕を絡ませる。
俺にだってそんな仕草はしたことがない。
「実は前から、モーリスと付き合ってたの」
「……そう、だったのか」
食事やデートに誘っても断られてばかりだった。
学園内で時間を合わせて会おうとしても、用事があるからと言われて会えなくて。
……そうか。その用事は、モーリスとの密会だったというわけだ。
「あなたって、つまらないのよね。真面目なだけで面白みもないし、デートも退屈だし――――ああ、それに。傷物だし?」
ヘンリエッタが言っているのは、俺の額にある傷のことだろう。
額から頬にかけて左目を中心に刻まれている傷……これは幼い頃、魔物に襲われた時に出来た傷だそうで、俺自身はよく覚えていない。
傷を受けた時の衝撃で記憶が飛んでしまった。
なぜこんな傷を刻まれてしまったのかは、今や俺自身だって分からないのだ。
「その点、モーリスは素敵。あなたよりずっと綺麗な顔をしているし、貴族街の高級レストランに連れて行ってくれるし、プレゼントのセンスも抜群。ほら見て? このネックレス、彼が贈ってくれたのよ」
「それぐらいのプレゼントならいつでもしてやるさ。醜い傷を抱えた、どこかの貧乏子爵とは違ってね」
「……っ」
レリック家は端的に言えば貧乏だ。
領地にはこれといった特産品もなく、あるのは無駄に長いだけの歴史と、かつての天災や不作によってこさえた借金だけ。
その借金を肩代わりし、資金援助をしてくれるという約束で、ビルヴィ家の娘であるヘンリエッタと婚約した。
俺はむしろ金を出してもらう立場であり、彼女に贅沢をさせてやれなかった。
その分、俺なりに彼女には尽くしたけれど。それが彼女の心を満たすことはなかったのだろう。
「そういうことだから。じゃあね、レリク」
「まあ、せいぜい頑張れよ。傷物貧乏子爵くん」
二人は腕を組み、俺をせせら笑いながらテーブルから立ち去った。
俺はしばらく席から立つことは出来ず、すっかり冷めきったスープの水面に視線を落とすことしか出来なかった。
☆
食堂での一件は、瞬く間に広まった。
元より利用の集中する時間帯だったこともあるし、聞くところによるとモーリスやヘンリエッタは、隠すそぶりもないらしい。
俺は婚約者に捨てられた情けない貧乏子爵くんとして、一躍時の人になっていた。
が、正直ここ数日は何をどう過ごしていたのか、何も思い出せない。
全てが自動的に過ぎ去っていたような、そんな感覚だ。
「……………………」
ブンッ。ブンッ。
気づけば、俺は森の中で一人剣を振っていた。
学園の敷地内ではなく、街の近くにある秘密の訓練場所だ。
一人で集中したいときによく来ていたから、体がここに来るまでの道を覚えていたのだろう。
胸の中の靄を振り払うように剣を振るう。
型も何もない。線も乱れた雑な素振りだ。
これでは鍛錬になりはしない。
「……………………」
ブンッ。ブンッ。
けれど、剣を振らずにはいられなかった。
少しでも動きを止めてしまえば、何かが崩れてしまいそうだから。
振り払わなければ。
この皮の下。肉と骨よりも更に下にある奥底から湧き出る、どろどろとした熱が、俺の心を侵食してしまう前に――――。
「――――っ……。あれは……」
微かな気配が肌を這う。
直観に従って視線を空へと向けると、青々とした頭上を舞う翼を視界に捉えた。
「翼竜? 近いな……」
翼竜はこの辺りに出てくる魔物の中では凶暴性が高い。
冒険者でも中堅が相手にするべき魔物だ。
それが、地上近くを飛んでいる。あれは獲物を狙っているような動きだ。
「まずいな……馬車が襲われたらひとたまりもないぞ」
元婚約者が商会の娘であったせいか、翼竜によって馬車が被害に遭った事例は耳にする機会も多かった。
まあ、その婚約者にもフラれてしまったんだけど……。
「…………」
けれど、ここで被害に遭うかもしれない誰かを見捨てるという選択肢もない。
俺は荷物を手早くまとめて、翼竜が向かった方角へと走る。
念のため状況を確認して、何も起きていなさそうなら引き返そう。
頭の中で素早く方針を定め、戦闘態勢を維持しながら森の中を走る。
既に雑念は頭の中から消え去っていた。
「…………?」
そうして走っていると、木々のざわめきの隙間から、奇妙な音を捉えた。
不規則な自然の音とは違う。整えられた人工的な振動。
これは――――
「…………歌?」
走った先にあったのは小さな泉だ。
そこに――――女の子が一人、足を水の中につけながら座っていた。
太陽と月の妖精が手を取り合って拵えたような、長い金色の髪。
月のように瞳に優しく、太陽のように美しく。
けれど決して伸ばした手の届かないような場所にいるような。
彼女の碧眼は遠くを見つめていて、柔らかな唇が紡ぎ出すメロディは、戦闘に研ぎ澄ませていた感覚が鈍りそうになる。
身に着けているのは魔術学園の制服……いや。
俺は、彼女を知っている。
「リゼリット・フランメルク……?」
魔術科高等部二年の、リゼリット・フランメルク。
魔術の名門、フランメルク家の令嬢。
宮廷魔術師の娘。
そんな肩書きを持つ彼女を、人々はこう称している。
万の魔術を知る魔女――――『万術』。
言うまでもなく天才だ。
そんな彼女がなぜ、こんな森の中にいるのか。いや、俺が言えたことじゃないが……。
彼女はその美しい声で、素晴らしい歌を紡ぎ続けている。
思わず、この森の中が煌びやかな舞踏会の会場だと錯覚してしまうほどだ。
恐らくあの翼竜も、彼女の歌声に釣られてしまったのではないだろうか。
「ガァアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
「……っ! 逃げろッ!」
その翼竜は、リゼリットさんに襲い掛かっていく。
間に合うか……違う! 間に合わせろ!
「おぉおおおおおおおおおおおおッ!」
――――斬る。
それ以外、一切の思考を削ぎ落して肉体を駆動させた。
叫び、剣を抜き、練り上げた魔力を脚部へ集中。
地面を蹴って、翼竜の爪や牙が、彼女の柔肌を食い破る前に近づいて。
そして――――刃を振り下ろした。
斬ッ!
俺の一振りは、何とか空中で当初の目的を果たした。
翼竜は真っ二つに切断されて……。
バシャアアアアアアアッ!!!
「あっ」
結果、頭上で両断された翼竜から溢れ出した血の雨を、リゼリットさんは頭から被ることになった。
「…………………………」
「…………………………」
俺が地面に着地した頃。
そこには無傷なれども、全身血まみれになった魔女がいた。
「助けてくれてありがとう」
時間が引き延ばされたかのような無言と沈黙。
それを破ったのは、リゼリットさんだった。
「着替え、持ってる?」
「……はい」
「貸して」
「はい……」
この場で『はい』以外の言葉が存在するなら、誰か教えてほしい。
☆
不幸中の幸いというべきか、ここにあるのは泉だ。
俺は訓練後に使うつもりだった着替えをリゼリットさんに手渡した後、背中を向けて距離をとった……彼女の水浴びと着替えが終わるまで。
その間、俺は一人反省会を行っていた。
彼女を助けられた。それはいい。けれど、血まみれにしてしまったのはよくなかった。これがたまたま血だったからよかったものの、建物や岩などの形を伴う残骸だったら、リゼリットさんはぺしゃんこになっていた。
斬ることに集中しすぎた。
俺がなろうとしているものは騎士だ。人を助けられなければ意味がないのに。
……未熟だ。
「真面目だね」
どうやら水浴びと着替えを終えたらしいリゼリットさんがやってきた。
血まみれになってしまった制服に代わり、俺が持ってきた予備のシャツに袖を通している。
けれど、シャツの下からでも分かる柔らかな胸元の膨らみや、スカートがないため露出している白い足が……色々と、目に毒だ。
思わず視線を逸らし、ごまかすように言葉の意味をたずねる。
「……何がだ?」
「水浴びしてる時、覗かなかったでしょ」
「するわけないだろ」
「あはっ。即答。ほんと、真面目だね」
「……つまらないって意味か?」
「ううん。嫌いじゃないって意味」
つまらないと揶揄された真面目さ。彼女にとってそれは、ヘンリエッタとは別の映し方をしているらしい。それだけで、感じていた靄が幾分か楽になったような気がした。
「……ごめん。助けるなら、もっとちゃんと助けるべきだった」
「別にいいよ? ……って言っても、気にするかもしれないから話すけど……防御魔術を展開してたから、どうとでもなったし」
「そうなのか?」
「うん。翼竜の討伐依頼を受けて、待ち伏せしてただけだから」
何ということだ。これでは完全に、無駄なお節介じゃないか。
「……悪かった。むしろ、俺が余計なことをした」
「だからいいよ。気にしないで、レリクくん」
「え? 何で、俺の名前……」
ああ、そうか。婚約破棄の件で知ったのかもしれないな。
そう思ったが、彼女の理由は違った。
「前からよく、ここで鍛錬してたでしょ?」
「……知ってたのか」
「私も来るから。たまに見てたの。あなたが一人で剣を振ってるとこ」
「……何か、恥ずかしいな。一人だと思っていたから」
「恥ずかしくないよ。いつも凄く集中してたし」
なら、声ぐらいかけてくれてもよかったのだが。
彼女なりに気を遣ってくれたのだろうか。
「あんなにも集中して一生懸命努力してたこと、婚約者さんは知ってたの?」
不意打ちのように差し込まれた、婚約者の話題。
思わず動揺が滲み出てしまった。
「やっぱり知らなかったのかな? 知ってたら、あんなふうに捨てるわけないもんね」
「…………ああ。まあ、鍛錬は一人でやってたからな。それに見てたってつまらないし」
「そんなことないよ? 私は見てるだけでも楽しかったし。……それに婚約者なら、一度ぐらいは見に来てもいいと思うけどな」
「……俺が悪いんだよ。デートも上手くやれなかったし、金もないから。剣を振る時間があるなら、少しでも彼女の心を掴むための努力をするべきだったんだ」
「『メリアンジュ王国絶景スポット』『令嬢をエスコートする百の方法』……他にもいっぱいあるね?」
リゼリットさんはいつの間にか、俺のカバンから本を取り出し、タイトルを読み上げている。
「学園の大図書館で借りて勉強してたんだ。……私なら嬉しいけどな。自分のために、こんなにも考えてくれたなら」
「……ありがとう。自己満足かもしないけど、少しは報われた気になれるよ」
「ふーん…………」
リゼリットさんは本を眺めた後、口元に僅かな笑みを浮かべた。
甘い蜜のような香りを孕み、それでいて蕩けるような微笑――。
「ねぇ、レリクくん――私に、恋を教えてくれない?」
「え?」
「私ね? 大概のことは、知ってしまえば出来てしまうの。だからたくさんの本を読んだわ。その度に魔術を会得した。魔術だけじゃない。勉強だってそうだし、馬術もピアノも刺繍もダンスも、すぐに身に着けられる」
艶のある唇が、言葉を一音紡ぐ度、柔らかに形を変えていく。
それはまるで見る者を惑わせる踊りのようで。
「……でもね? 恋だけは、知らないの」
彼女の言葉から――――……。
「一万の魔術を知る私は、恋というたった一つの感情を知らない。だから、知りたいの。恋がしたいの。恋という感情を、味わってみたいの」
……目が、離せない。
「だから……ね? あなたが、私に恋を教えて?」
「ま、待ってくれ……何が何だか……それに、そんなこと、なんで俺に?」
「あなたが真面目で努力家であることを、知ってるから」
彼女は大図書館で借りてきた本に、白雪のような指を這わせる。
その仕草の一つ一つが、目を奪う。
「あなたなら、ちゃんと『先生』をやってくれそうでしょう?」
「その気持ちが真剣なら猶更、俺から学ばない方がいい。知っての通り、俺は自分の婚約者の心を繋ぎとめておくことが出来なかった男だから」
「あなた先生をやってくれるなら……家の借金、私が肩代わりしてあげる」
「…………っ」
「いきなり婚約破棄されて、大変なんじゃない? それに私の家は宮廷魔術師で、公爵家だもの。あなたの家の借金ぐらいなら簡単に返せるし」
婚約破棄されたことによって、レリック家の懐事情が厳しくなるのは間違いない。学園も辞めないといけなくなるかもしれない……いや。俺はいい。だが下の妹に迷惑をかけたくない。
事情はどうあれ、俺がヘンリエッタの心を繋ぎとめておけなかったことにも原因がある。そのツケを家族に払わせたくはない。
「…………わかった。リゼリットさんの話、受けるよ」
「リゼ、って呼んで」
彼女の声は、蠱惑的な音色をしていた。
「私も『先生』って呼ぶから……ね?」
鼓膜が震える度に、脳を揺さぶられそうになる。
「せーんせ♪」




