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女の国  作者: 根無し
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ドキュメンタリー4


 いつも通り起きて食堂に向かう。そこでは、エレナがひとりきりで先に食事をはじめていた。

「あ、おはようございますエノクさん」

 もぐもぐと口を動かしながら、こちらを見てにこっと笑って見せる。緊張はあまり感じられない。少しはこの環境に慣れたのかもしれない。あるいは、先日私の弱みを見たことで、ある種の親近感を感じたのかもしれない。

 私はエレナの隣に座った。

「この生活にも慣れてきたみたいだな」

「はい。なんとなく、皆さんのこともわかってきました。あと、昨日友達にちょっと連絡して、色々アドバイスしてもらってんです」

「アドバイス?」

「はい。人間関係のコツです」

「私も聞いていいか」

「もちろん。これは意外なことなんですけど、人間関係のコツは、無理しないことらしいです! それを聞いて、私も確かにって思ったんです。思えば、私この企画が始まってからずっと無理してたかもなって思って。この食堂に来るのも、いつもみんなより早かったんですけど、できるだけタイミング合わせようと思ってものかげで待ってたりしてたんですよね」

 楽し気に自分のことを話すエレナ。私は食事をとりながら、ぼんやりとした頭で聞き流していた。

「それでいうと、エノクさんはいつもあまり気を張っているようには見えませんね」

「まぁ、私も自然体でいるように努力しているよ」

「そうなんですか?」

「あぁ」

 しばらく会話が止まって、ふたりで黙々と食事をとる。

「他の方たち、来ないですね」

 そう言った瞬間、イーナが入ってくる。意外にも彼女は、私の隣ではなく、エレナを挟んだ向こう側に座った。何も言わず、でてきた食事を口にし始めた。

「あ、あの……エノクさん?」

 心当たりはあった。イーナは昨日、レイスと取引をし、他の者たちとも好意的に接することを約束した。私はそれをアリサと盗み見た。

 自然体。非常に難しいことだ。

「なぁイーナ」

「なに?」

 慎重に言葉を選ぶ。誤解を生まず、誰も傷つけないように。

「見たくないことを見てしまったり、知りたくないことを知ってしまうことがある。また、それが一種の裏切りに近いような感覚をもたらすことがある」

 イーナは食事の手を止めなかった。返事もなかった。

「昨日、君がレイスと何の取引をしたのか、私は知ってる。そのことを悪く思わないでほしい」

 エレナは困惑しながら、左右をきょろきょろと見ている。彼女にも少し悪いな、と思った

「お互い様でしょ。わざわざ言わなくていい」

 口をハンカチで拭いたあと、イーナは冷たくそう言った。

「ごちそうさま。午後1時から、体育館でボール遊びをするから、あなたも来なさい。エノクは、できればアリサを連れてきて」

「あ、あぁ」

「え、え? 私ですか?」

「エレナ。初日は悪かったと思ってる。ごめんなさい。それじゃ、また後で」


「あ、あの……エノクさん? どういうことですか?」

「……イーナは、私だけでなくみんなとも仲良くする必要が出てきたらしい。君が嫌じゃなければ、付き合ってあげてほしい」

 そう言って私はエレナに頭を下げた。

「あ、いや、そんな。むしろ、嬉しいです。でも……嫌われていると思っていたんですが、そんなことなかったんですかね?」

 それは私にも何とも言えなかった。ただ、イーナはきっと、この世のものごとのほとんどを等しく嫌っていて……その中でも、いくつか特別嫌いなものがある。そこにエレナが含まれているかどうかは私にもわからない。

「……レイスさんが、イーナさんに何かしたんですか?」

「あぁ。昨晩ね。でも別に、何か悪いことをしたわけじゃないよ」

「見たんですか?」

「君たちが私の過去を見たようにね」

 エレナは落ち込んだように頭を下げた。

「その……ごめんなさい。私も、知りたかったわけではないんです。あ、いや、エノクさんのことを知りたいとは思っていました。でもそれは、直接聞いて知りたいのであって、あんな形で知りたいわけではなかったんです。そ、それは、嘘じゃない、です」

「あぁ、わかってるよ。あの場にいたみんながそうだ」

 私もエレナもとうに食事を終えていたが、席を立つ気にはなぜかなれなかった。


 自室に戻ろうとしたとき、レイスが私の部屋の前で待っていた。

「おはようございます。もしよければ、中でお話をさせていただいても構いませんか」

「あ、あぁ」

「では、お邪魔します」

 私よりも先に、レイスが私の部屋に入っていく。初めて入るはずだが、もう何度も入ってきているかのように自然だ。

 勝手にソファに座った。私は茶を用意して、出す。

「ありがとうございます」

「あぁ」

「私に何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「言いたいこと……」

 別になかった。何も。ただ、正直に言えばひとりになりたいような気分でもなかった。

「アリサさんから聞きましたよ。私とイーナさんの取引、見てたんですよね?」

「あぁ。別に見たくて見たわけじゃないが」

「まぁともかく、私は今日はエノクさんと魂について話したいなと思って来たんです」

「魂……魂か。ここに来てからはじめて聞く単語だな」

「はい。そんなものはないっていうのがこの国での通説ですからね。私たちの心はあくまで電気信号の複雑なパターンによって生じているもので、肉体とは独立した機構があるというわけではないので。でもそれはあくまで、私たちの思考の物理的側面ではそうであるというだけです。私たちはごく自然に、魂のようなものがあると前提として考えるように作られています。この国は、その考えを否定し、棄却するように個人に要求しますし、そのような教育を施しています。ですが、別に魂はあると無根拠に信じて生きていたって、別に実害はないはずなんですよね。エノクさんはどう思います? そもそもエノクさんは、魂はあるって信じているんですか?」

「いや、どうでもいいと思っているよ。あぁいや、違うな。ないと思ってる。この肉体を離れて、自分の思考や感情がどこかにあるというのは、うまくイメージができない。ただ……誰かの心が、肉体を離れてどこかで存在し続けているというのは、イメージできるし、そうであってほしいとは思う。私を生んでくれた母に対してはもちろんそうだし、外の世界で面倒を見てくれた養父や、犠牲になった戦友たちの魂も……私は、存在していてほしいと思っているし、そのために祈っていた。あぁ、思えば、この国に来てからは、祈ることがなくなったような気もする」

「ある意味では、書物などは魂というものに近しい構造を持っていますよね。著者が死んでも、著者の中に生じた言葉が別の誰かの心の中で再生される。まるで、そこに著者がいるかのように錯覚させるようなものもありますね」

「あぁ。そうだ」

「私はですね。なぜかはわかりませんが、昨日のイーナさんの姿は、美しいもののように思ったんですね。彼女は、あなたの母親の墓に参らなくてはいけない、言うべきことを言わなくてはいけないと言っていました。本気でそう思っているようでした。今、私たちの国で、あぁいう風に無根拠な信念のために断固として行動できる人がどれだけいるでしょう? ちっぽけなことかもしれませんが、私はイーナさんを見て、人間の可能性というものを感じたんです。エノクさんはどう思いましたか? 彼女を美しいと思いましたか?」

「イーナはずっと……私が子供のころに出会った時からずっと、美しい人だったよ」

「……もう少し、わかるように言っていただけませんか?」

「あれは、イーナにとって特別なことじゃないってことだよ。彼女は、そうしようと決めたらそうする人だった。だから……彼女は本当に、この企画を終えて、私の母に言いたいことを言った後、安楽死をすると思う」

「安楽死? 聞いてませんけど」

「私にそうすると言った。多分だが、私にしか言っていない。アリサは知っている。監視していたから」

「……へぇ。安楽死」

 レイスは、下唇を舐めて、何か新しいおもちゃを見つけたかのような、そんな表情を浮かべた。

「エノクさん。もしイーナさんが、変わってしまったらどう思います? あぁ、言い方を変えましょう。あなたの頭の中の、理想的で意志が強く、儚くて美しいイーナさんが、凡庸で、つまらなくて、かわいらしい普通の女の人になってしまったらどう思います? あぁそう。あの、エレナさんがあのまま大人になったみたいな、そんな人格になってしまったらどう思います? あぁ、そんなことはありえないとか言わないでくださいね? だって、それはありえることなんですから」

「……うまくイメージできない」

「えぇ、えぇ! そうですよね。私もそうです。イメージができないんです。じゃあ、それを現実化したらどうなります? イメージができるようになります。私たちは、またひとつ知らないことを知って、賢くなることができるわけです……」

 私は目の前の興奮した女性が何を考えているのかさっぱりわからなかった。ただ困惑して……少し、恐怖していた。

「エノクさん。イーナさんがあのまま死んでしまうのと、たとえ変わり果てても健康で幸せに生き続けるのと、どちらがいいですか? 選ばせてあげましょう! あなたには選ぶ権利がある。おそらく、あなたが選んだことなら、イーナさんはそれを受け入れることでしょう」

 レイスは立ち上がって、圧力をかけるように私に顔を近づけてくる。私は、怯えていた。何を選んでも間違っているような気がした。私は首を横に振った。

「そんな権利は、私にはないよ」

「なら、私が決めてもいいんですか?」

「……きっと、それはイーナ自身が決めていることだと思う」

「えぇ、えぇ。そうです。そしてそれを、踏みにじるんです。それはきっと楽しい。ははは。道端にさいている花を踏むのって、妙に気持ちがいいんですよね。それが、美しければ美しいほどに!」

「そう、思ったことはない」

 すっと、急に冷めたようにレイスの目から光が消えた。

「まぁ、いいでしょう。何事も、ものごとはゆっくりと進めるべきです。何にしろ、始まってしまったものはもう止まらないんです。あなたも、変わらざるを得なくなる。私自身も、きっとそうです。それを楽しみましょうよ」

「もう私は、ずいぶん自分が変わってしまったと思っているよ。元の自分がどうだったのかわからなくなるほどに」


 夜食に暖かい煮豆のスープを飲んだ。


 いつもより少し早い時間に起きて、少し早い時間に食堂についた。ちょうどエレナも来たところらしく、お互い軽く会釈をして隣の席に座った。

「自分で言うのもなんですが、ちょっと慣れてきたように思います」

 そう言って、エレナはえへへと笑った。

「それはよかった」

「はい。生活にもそうですし……その、エノクさんを見るのにも、慣れてきたように思います」

「どういう意味?」

「私、最近まで、目が合っただけでドキドキしちゃってたんです。でも今は、友達と会うみたいな感覚で、こうやって顔を合わせられるようになりました。これは成長ですよね?」

「男性に慣れてきたという意味では、そうなんじゃないか」

「あ、いや、男性に、というわけではないと思います」

 少し気まずそうに、エレナは食器を手に取った。つまり、私に抱かれた後、別の男性とも性交を行ったが、そのときはそれほど感情が動かなかったということなのだろう。

「感情のコントロールという点では、私自身、課題だと思ってる」

「そうですか? 見ていてあまりそう思ったことはありませんが」

「相対的にはな。でも十分ではない」

「自分に厳しいんですね。でも、そうやって自分を鍛えて、何になろうとしているんですか?」

 そう言ったあと、自分の言葉が少し棘があったことに気づいてエレナはすぐに「ごめんなさい」と謝った。「ただ、エノクさんに、私の知らない何か目標があるのかなって、思っただけです。ごめんなさい」と重ねて。

「いや……癖みたいなものだ。自分に厳しいのは。そうじゃないと、生きていけないような感覚があるんだ。私が男性だからそうなのか、性別に関係なくそういう性格なのか、私にはわからないが」

「性別は……あまり関係ないと思います」

「この国にいると、関係ないことまで性に結びつけてしまうな。気をつけないと」

「……そうなんですか?」

「私だけかもな」




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