ドキュメンタリー2
アリサがそうしてくれたからなのかはわからないが、翌日の掃除当番は私とレイスのふたりがあてがわれた。昨日はノアとイーナだったらしいが、イーナがひとりですべて片づけてしまったので、ノアはまったくやっておらず、そのことを負い目に思ったのか、今日は三人で一緒に掃除をやると言い出していた。
「施設でも、時々こうして清掃業務をなされているんですか?」
「いや。一応当番制だが、実際は毎日自主的にやるやつがいるから」
ふと思い出したが、ゲームばかりやっていたメノウもそうだった。毎日ぞうきんや箒を持って、ゲーム室の清掃を行っていた。そう。各自が、自分の気に入っている場所を綺麗にし、誰も掃除しない場所だけ交代でやっていたが、たいていの場合は序列の高い奴が低い奴に無理やりやらせていた。
「そういう部分も、女性は視聴できるんじゃないのか?」
「あ、はい。でも私、あまりそういうのに興味がなかったので」
確かに、レイスは初対面の時にそう言っていた。男性と話したことすら一度もない、と。
「なら、どうしてこの企画に?」
「あ、私もそれ気になってた」
レイスは、一瞬だけ、始めて見せる表情を浮かべた。それは、養父が自身の立てた計画通りことが運んだ時に見せる顔に似ていて、少しなつかしさを覚えた。
「正直に申しますと、私はこの男女が隔離されたこの社会に不満を持っておりまして。それゆえに、抗議活動のひとつとして、私自身は男性と距離をとっていたのです」
ノアは露骨に顔をゆがめる。
「どういうこと? 何が不満だったわけ?」
「単純に、つまらないと思っていたんです。何もかもが健全で、清潔で、予測しやすくて、何も変わらないこの社会が。もし男性がいれば、いやおうなく世界はもっと動きます。よい方向にも、悪い方向にも。彼らは女性よりも競争心が強く、向こう見ずで、他者や全体を省みません。自らの正しさに固執して、人を傷つけることもためらいません」
「……じゃあ、レイスは自分がそういう連中に傷つけられてもいいっていうの?」
レイスは、眉をひそめて、口を尖らせた。
「嫌に決まってるじゃないですか。でも、嫌でもその一部を受け入れることなら、考えてもいいと思っていたんです」
「で、この企画に参加してみたっていうわけね」
「はい。でも、実際に……エノクさんを見ていて思ったのは、私が思っていたよりも……男性というのは、女性と変わらないのですね。別に暴力的だとも思いませんし、多少ぶっきらぼうで冷たいような気はしますが、それをいうならイーナさんの方がずっと人として終わってますよね」
「ちょ、ちょっとレイス。いない人の悪口を言うのはどうかと思うよ」
「あ、はいすいません。私、あんまり人と話すのに慣れてなくて。すみません」
「いったん掃除しようか」
ずっと手が止まっていたので、そう提案すると、ふたりとも素直にうなずいて作業を始めた。
作業が一通り片付いたあと、私はレイスに話しかけに言った。ノアには、目配せしてあまり話に割り込まないようにしてくれと伝えようとして、ノアもうなずいてくれはしたものの、本当に伝わっているかどうかはわからない。
「なぁレイスさん。私は、男性はやっぱり隔離されていた方がいいと思うよ」
「……どうしてですか?」
「男は争う。際限なく。そして多くの悲劇や憎しみを産んで、そうなってはじめて悔やむ。もっとも強い者たちだけが、それを悔やまず、拡大させる。なぜなら、彼らは常に勝者だから。私は外の世界では、たまたま勝者の側に拾われ、彼に見捨てられないように必死で学んだ。勝者のふるまいを。勝者が死んだ後も、私は何とか生き残り、別の勝者の側に立ち続けられたが、ずっとそんな綱渡りをしていたいとは思わない。あのような生活を送るくらいなら、施設で死んだように生きるほうがマシだと、今は思っている」
「死んだように生きる。そう思っているんですね」
「あぁ」
「クエットボールの、区域対抗戦の試合を見ました。エノクさんは、多分チームの中で一番勝とうとしていましたね。負けた時に泣いていた彼……名前、なんでしたっけ」
「イエルか?」
「はい、多分そうだったと思います。観戦に誘ってくれた私の友人は、その選手のことが好きで、一番頑張っていた、次は勝ってほしいと言っていましたが、私はそうは思いませんでした。あの選手は、自分に酔っているだけです。一生懸命試合をやって、それで負けて、悔しがって泣く自分に」
私は、別に泣いているイエルに対してそのようなことを思いはしなかった。確かにイエルは、他の者たちと比べてより長い時間真剣に練習をしていたわけではなかったが、大会に向けてちゃんと準備してきたのは知っているし、感情的なのは単に本人の性格によるところだ。
ただ一試合みただけでそう判断する理由が私にはよくわからなかった。
「彼は多分施設育ちだと思います」
レイスは確信したようにそう言った。
「まぁ、それは当たってる。でも別に、そういう泣き方をするやつは外の世界にもいた。育ちの問題ではないと思う」
「話が逸れてしまいましたね。私が言いたかったのは……ええと。あぁそうだ。そのクエットボールの試合を見て、エノクさんは、すごくいきいきしているように見えたんです。でもエノクさんは、あぁ試合ができたとしても、死んだように生きている、と感じているんですよね?」
「……難しいな。それは難しいよ。スポーツは楽しい。勝負事も。昨日のアリサとイーナの試合を見ていても思ったが、競争心自体は、男性だけでなく女性にも十分あるし、競争が、生を実感させる活動のひとつであるというのは正しいような気もする。だが……生きるために活動しているあの必死さと比べれば、それはまったく違うもののように思う。それを先ほど軽率に死んだようにと形容したけれど……単に、生き方の形式が違うだけなのかもしれない」
「子供がいるというのはどのような感覚なのでしょうか」
私は唇を噛んだ。母親のことを思い出した。その暖かで優しい腕の中で、安心して眠りについたこと。ここにいる誰も、知らないこと。禁じられていて、想像することさえできない感情。もう二度と戻らないという切なさと、痛みと。
「女は、子供を持つと狂うというのは正しいと私は思う。狂暴になり、論理的にものごとを判断できなくなり、他者に対しての公正さを失う。しかし同時に、ある種の……形容しがたい美しさや尊さのようなものも持っているような、そんな気もする。わからない」
「男性は?」
「男性?」
「あぁ、はい。だって、外の世界ではそうなんでしょう? 女性が母親となり、男性が父親となる」
「……私には父がいない。養父はいたが」
そう言った後に、私は自分の間違いに気がついた。私は、母親のことをイメージしながら母親一般のことを語っていたということに。外の世界の、私のではない母親を、十分に見てきたかと言われると……いや、覚えてはいる。自分の子のためにヒステリックになって周りを困らせたり、罪を犯したものを何人も見てきた。では父親は? 父親は……わからない。あまり記憶に残っていない。
自分の子供をかわいいと言って周囲に自慢する者はいた。また、出来の悪い息子をどう扱うべきかひどく悩んでいる者もいた。
「思えば……男性は、子を持つと、少しだけ……マシな存在になっているような気がした」
レイスは、私のその絞り出したような答えを、むしろ予想通りとでもいうように力強く頷き、饒舌に語り始めた。
「えぇ。その通りです。女性は確かに子を持つと、自らの遺伝子を残していくために、利己的になります。そうすることが、生存に有利だったからです。反対に男性は、もともと生殖の競争の段階で極めて利己的ですが、子を持った段階で、その子供を生かす必要があり、利己性が減少します。ですから私は思うのです。子供を作るまではこれまで通り男性を隔離し、その男性の遺伝子からだと確定した子供ができた場合、その子供を育てている期間中、ひとりの人間として社会で受け入れる。そういう仕組みを作るのがいいのではないか、と私は思っているのです」
私は、男ひとりが子供ひとりを育てている状況をイメージした。当然、養父のことも。私は、反射的に否定したくなった。たとえマシになったとしても、男性は男性で、女性と寝る時間を確保するために子供を放置したり、場合によっては殴ったりすることは珍しくなかったように思う。実際、私も養父に何度か殴られたものだ。あれは、血が繋がっていなかったからではない。養父には私のほかに何人か子供がいて、血のつながった者もいたが、同様に殴られていた。そもそも養父は、自分の子ではない私を特にかわいがっていた。理由は単純だ。私がもっとも、出来が良かったからだ。
「レイスさん。あなたは男性を過大評価している」
「……そうですか?」
「あぁ。多分そういう仕組みはできないし、できたとしてもうまくいかない。私はそう思う」
「……エノクさんなら、賛同してくれると思ったのですが、がっかりです。まぁ、私ももう少し考え直してみます。エノクさんも、私の言ったこと、もう少し時間をかけて考えておいてもらえますか?」
「あぁ」
レイスが自室に帰って行ったあと、ノアが小声で話しかけてきた。
「レイスさん、あの中だと一番まともな人だと思っていたんだけどな」
「陰口か?」
「独り言。だってあんたは男性で、ヒトじゃないでしょ?」
「ま、そうかもな」
「冗談はおいておいて、愚痴ぐらい付き合ってよ」
「あぁ」
「さっき話聞いていたけれど、レイスは頭がおかしい。話の筋が通ってない。あんたもそう思ったでしょ?」
話の筋。それが何なのかはわからなかった。もしかすると、ノアにとっては私も頭がおかしい人物なのかもしれない。
「まぁ、そういう見方もできるかもな」
ただ、これはノアの独り言だ。私は適当に曖昧な返事を返していればいい。
「イーナは、昨日の件で見た通り、空気が読めないタイプ。たまにいるけど、すっごく疲れる。人のエネルギー奪っていくタイプ。できれば関わりたくない!」
「うん」
「エレナは……かわいいね。かわいいけど、ちょっと頭が弱いかな。まだ16歳っていうのもあると思うけど、でも私が16の時はもうちょっと大人だったけどね? まぁ、そういう子もいる。でもあの子が三人の中じゃ一番マシ」
「アリサは?」
「別世界の人でしょ。見るからに生まれた時からエリートでしたって感じじゃない。私たちみたいな下々の者とは関係ない人だよね。実際」
「私は?」
流れで、聞いてみた。ノアは、初日に見せたような笑顔を浮かべて笑おうとしたが、笑い声は出てこず、そのまま口を閉じて、真剣な表情に変わった。
「もしあんたが女なら、多分私たちは友達になれたかもね。あんたが一番話が通じる気がする」
「どうせこの企画の期間中は、セックスはしないんだ。別に性別を気にしなくてもいいんじゃないか?」
ノアは、眉をひそめて私の体をじろじろと見た。
「そのご立派な体を見せびらかすみたいに歩くやつの性別を気にするなって? 無理でしょ」
「そうだな。変なことを言った」
「まぁ、でも、少し努力してみようかな。あんたが男性だっていうことを忘れる努力」
「そうしてくれるなら、私も助かる。正直に言って、君が一番私も話しやすい」
「……やっぱ無理だ。その気持ち悪いくらい低い声聞いてると、変な感じがする。やっぱり、別の生き物だって思う」
「そうか」
結局ノアは、おどけて吐くような仕草をしたあと、自室に戻っていった。
部屋に戻ると、アリサが報告書か何かをまとめていた。
「私の部屋でする必要があるのか?」
「手っ取り早いじゃないですか。嫌ならやめますが」
「別にいいけれど」
「レイスさん、結構変な方なんですね。私も知らなかったです」
「君はあの意見、どう思う?」
「面白いなって思いました。どっかの区域を利用して、そういう社会実験をやる価値はあると思いますよ。もちろん、秘密裏に」
「正気か?」
「冗談ですよ」
「……あれは、カットされるのか?」
「どうでしょう。あぁいうのも、面白い要素だと思いますよ? 私たちの国にも言論の自由はありますしね」
「まぁそうか」
「……ただ、思ったのは、レイスさんは他にも何か隠してることがありそうだなってことですね」
「隠してること?」
「他の三人とは違って、レイスさんと私は階級上の差がないんです。要は、他の三人が知りうる情報は私もそれを知る権限を持っていますが、レイスさんに関しては、私が知りえないことを知ることのできる領域がいくらかあるってことです」
「……たとえば、死者の詳細な情報とか?」
「はい。あっ……」
アリサは、見落としてたものに気づくように口に手を当てた。そのまま視線を落として、自分の見落としていた情報について考えはじめた。
「何か?」
「もしかすると……いや、推測で話すことではありませんね。気にしないでください}
「いや、推測でもいい。言ってみてくれ」
「いや、言いません。今日はこれで失礼します」
アリサは、書きかけの書類を持ってそのまま部屋を出ていった。
その日の朝の食卓は、妙に空気が重かった。ひととおり挨拶をしたのちは、誰も一言も話さなかった。私はなぜそうなっているのかわからず戸惑っていたが、他の四人はその理由を知っているようだった。
食事を終えた後、パン、と手を叩く音が食堂の入り口から聞こえてきた。貼り付けたような笑顔を浮かべているアリサが立っていた。
「では皆さん。視聴覚室に行くので、ついてきてください」
今日は、何かの映像の見る予定がある、ということなのだろう。私は黙って立ち上がったが、他の四人は立ち上がるのに時間がかかっていた。なるほど、と私は思う。彼らはその映像の内容を知っていて、それを見たくないと思っているのだ。
「なぁ、どういうつもりなんだ?」
映像が終わった後、私は立ち上がって部屋の隅にあるカメラに向かってそう言った。アリサに対して? いや、アリサに限らず、この企画を考え出した者に向かって。
その映像は、私の幼少期のものだった。家の中で母親から教育を受けているときの私、母親に甘えて頭を撫でられ、安心して眠る私。いたずらをして叱られる私。ひどいことを言って母親を泣かせてしまい、ひどく後悔をして謝る私。
どれも、記憶の中にはほとんどなかったものだったが、それでもそれが真実であることは疑いようがなかった。ひどく、胸がざわついたから。
何も面白いものはなかった。単なるひとりの子供の家庭の記録に過ぎない。面白いものは何もなく、ざらざらした感情だけが残るような。
「娯楽にするにしても、もっといいものにできただろう。これじゃただ、知らない人を退屈させ、知っている者を苛立たせるだけのものじゃないか」
「苛立たせることが目的なのではないでしょうか」
レイスがそう言った。
「苛立たせてどうするんだ」
「感情の波がドラマを生むということです」
「それは私が協力的であってはじめて意味のある命題だろう」
「エノクは男なんだから協力するしかないでしょ?」
髪をいじりながら、ノアがそう言った。目を合わせようとしない。無自覚に、拳を握り締めていたのに気づいた。暴力的衝動。壊してしまいたい。そう思ったが、自分の意志でその拳を緩め、息をつく。
「みなは、知っていたんだろう? 今日この映像を見ることを」
「……あの、その、この映像は、公開されていて」
エレナが、とても申し訳なさそうに言った。
「とっても人気なんですよね。もっとも、これがエノクさんだってことは知られていませんでしたが」
部屋の隅で壁にもたれかかっていたアリサがそう言った。
「は?」
「前も言ったじゃないですか。あなたの幼少期はそれ自体が、ショーの一種みたいなものだろうって。実際、あなたがこの国に来る前から、あの映像は知られていましたし、一定の人気がありました。名作のひとつに数えられています。つまりあなたは、根っからの俳優だったってわけです」
唇が震えて、何か言おうと口を開いたが、喉が詰まって何も言えず、ただ唾を飲み込むだけに留まる。
「何が……何が面白いんだ」
情けなく、裏返った声。しかし、私の感情のすべてはそれだった。せめて、私自身も共感できるものであれば、納得もできただろう。しかし、今見た映像の何がいいのかはわからなかった。ただ、小さな子供が、いつも苦しそうにしている母親に、育てられているだけの二時間のダイジェスト。
「子育てがどういうものなのか、私たちは知らないので」
「そのいいところも、悪いところも、リアルに感じられるってことなんじゃないの?」
「わ、私は……子供って、かわいいなぁって思ってました」
ずっと黙っていたイーナが、後ろから私の背中をトン、通した。とても弱い力だったのに、私はよろけてしまい、前の席の背もたれに手をついて、振り向いた。
「ね? くだらないんだよ。エノク。この世はさ。こんな連中はさ。ほら、行こう。ボール遊びでもして忘れよう。こんな不愉快なことは」
そう言ってイーナは、私に手を差し伸べた。私はその手を握って、子供のように、手をつないだまま体育館に向かった。
「馬鹿みたい。最初からわかっていたことじゃん」
「まぁでも、悪趣味だとは思いますね、私も」
「あ、あの……私も……」
「やめときなエレナ。今はそっとしておこう」
背後でそんな会話が聞こえてくる。こういうときに限って、ひどく聴覚は鋭くて、聞かなくてもいいことまで聞こえてしまう。
「エノク。私だけ見ていればいい。つらいなら。私もつらいときは、ずっと記憶の中のあなただけを見ていたから」
「あぁ」
隣を歩く、もはや女と言えないかもしれないイーナの掌の感覚に集中する。暖かく、それだけで生を感じる。
あんな映像を見せられたからだろうか。子供のころの、弱くて、繊細で、不安定で激動的で自己中心的な心の感じが、蘇ってきたように思った。
あの時のイーナは、まだ女ではなかった。再会したときのイーナは、間違いなく女だった。今のイーナは、女ではないと言い切ることはできないが、しかし女であると言い切ることもまた同様にできない、曖昧な状態。きっと彼女は、私のために、女であることをやめて、子供のころのように、ひとりの「友」であろうとしてくれている。
そう思うと、目頭が熱くなってくる。私は、愛されているのだと感じる。本当の意味で。欲望されているという意味ではなく、彼女が、自ら望んで私の生の一部を担ってくれている、という意味で。
「ありがとう。イーナ」
「ううん。当然のこと。ずっと、そうしようと思っていたから」
「私はずっと悩んでいた。私が他の人と違うのは、子供のころに君と一緒にいたから? 君に恋をしてしまったから、他の人たちが言うみたいに、女として、狂ってしまった? ううん。そんなことはない。君と出会う前から、私は人と違ってた。人に合わせるのは嫌いだったし、表面的な態度や友情が大嫌いだった。自分の利益のためだけの努力するのも、社会に貢献するためにあれこれ考えるのも大嫌いだった。でも、そういったことについて考えるのをやめることもできなかった。みんなみたいに男を性的に見ることも難しかった。君が男だと分かる前から、そうだった。私はどちらかといえば……女性の体の方が好きだったと思う。今もそうかもしれない。でも、心は違う。女の心が私は嫌い。浅薄で、保守的で、損するのが大嫌いで、臆病で、無関心で、すぐに浮かれて他者に媚びる、そういう女らしさが大嫌いだった」
「あぁ」
「男の心はわからない。気持ち悪いものだったから。でも少なくとも、私は女が嫌いだった。もし男も嫌いなら、私はきっと人間すべてが嫌いだったんだと思う」
「……わかるよ」
「うん。エノク。あなたならわかってくれる。私にとってあなたは特別だったから。幼い私でも、あなただけは、私を『変わった女』ではなくて、ひとりの友達として見てくれたから。世の中の標準とか、想定、規定された姿とかじゃなくて、まったく独立した、不可解で、不安定な、ひとつの対象として私を見て、関わってくれたから。あのときだけは、私は人間として、生きられた気がしていたから」
「あぁ」
「でもきっとあなたは、私と違って、私以外の人と関わっていても、人間でいられる。そう感じられる。なんでそうなのかはわからない。でもそうなんだろうなって、なんとなく思う。だからきっと、私はあなたを独占できないし、そうすべきじゃない。それはあなたの幸せじゃないから」
「ねぇエノク。私、この企画が終わったら、死のうと思ってる。私はもうすでに安楽死が推奨される対象になっているし、私自身も望んでいる。でも私は死んだ後も、君の心に残っていたいと思っているんだ。だから……この先、いろいろと迷惑をかけてしまうかもしれないけど、許してほしい」