ドキュメンタリー1
よく見慣れた施設だった。長い廊下。数多くの厳重な扉。意図的に死角が多いように設置された監視カメラ。
違うのは、少し古びていて、隅々まで十分に整備されていない印象があったこと。
「エノクさんの個室はここです」
アリサに案内される。普段の自室と全く同じ間取り。違うのは、書棚があり、私が気に入っている本がすべて置いてあることと、旧型ではあるがコンピュータが設置されていることだった。
「監視されているのはいつものことだと思いますが、普段とは注目度が異なっていて……」
「男性の出演者が、引きこもりがちになることへの配慮ってわけか」
「えぇ。コンピュータにはいくつか、ゲーム室にあるものと同様のものがインストールされています。息抜きにどうぞ」
「あぁ」
アリサはちらっと部屋の隅を見たあと、ため息をついて、そのあと嘘くさく笑った。
「ちなみに、私が気を利かせてこうなったんですが、何か言うことはありますか?」
「ありがとう。私の美しいエージェント」
そうか、もう始まっているのか、と私は察する。アリサがそれを望んでいるのがわかったから、私はアリサに近寄った。身長は同じなはずだが、アリサは少し肩を落とし、頭を下げている。そう。撫でやすいように。
「せっかくなら、楽しみましょう、エノクさん。恋愛することが許される機会なんて、こういうとき以外はないのですから」
そう言って、私の肩に手をポンと置いてから、部屋を出ていった。手のひらには、アリサの美しいきめ細やかな髪の感触が残っていた。それは、セックスしたときのように私自身の手が汗ばんでいなかったからか、奇妙なほど新鮮な印象を残した。
「ヒトは、欲望と安定を天秤にかけた。男は欲望を選び、女は安定を選んだ。歴史の上ではそうなっているけれど、私たちは欲望を諦めきれていない」
部屋を出ることが許されて、私はすぐに図書室に向かった。そこには、見たことのある顔があった。幼馴染のイーナだ。前に会ったとき、私がひどく傷つけてしまった女性だ。気まずくて、何を言えばいいかわからなかったが、イーナの方はまったく気にするそぶりはなく、本を閉じて私の方に近付いてくる。私は、思わずのけぞってしまう。
「キミは、私に何を求めているの? 何を欲望しているの?」
その青みがかった瞳に見据えられ、私は戸惑ってしまう。深呼吸をして、気づけば激しく鼓動している胸を落ち着かせる。
「君も出演者なのか、イーナ」
「うん。やっぱり、運命っていうのはある気がする。私と君の間には、きっと何かがある。それが何なのか、まだわからないけれど」
イーナはそう言って、少し切なそうな目をした。その言葉の裏には、きっと不安か、あるいは絶望のような感情が隠されているような気がした。
「逆に聞きたい。君は私に何を求めているんだ? ……この前の夜の時は、君は満足していたように見えたけれど、今の君が、あの時のような情熱を求めているようには見えない」
イーナは目を閉じて、来ているシャツのボタンをはずし始めた。ボトムスに手をかけ、降ろす。私は本能的に股間に血が集まっていくのを感じた。この番組があるからということで、しばらくセックスの機会はなかったから、なおさら反応は強くなっている。
しかし、彼女がすべての服を脱ぎ終えた時、私の背筋にはいやな悪寒が走り、情欲の炎は完全に消え去った。
イーナには、女性器がなかった。
「任意だって言われた。でも私は望んだ。君との関係は、アレじゃない。だから私は、ここに、それを見つけに来た」
「しかし……そ、そ、それだと、他の男性との行為も」
「それどころか、この社会だとセックスを行わず、人口の維持に協力しない市民はそれだけで軽蔑される。それでも、私はこうした。人生すべてをかけてでも、女であることをやめて、ひとりの人間として、君と関わってみたかったから」
私は気づけば自分の髪を鷲づかみにして、かきむしっていた。ひどく頭が痛む。目の前の……イーナの、選択を考えると、脳が私に考えるのを禁じているような、そんな感覚に陥る。
「エノク? どうしたの? 大丈夫?」
「あ、あぁ。大丈夫。少しめまいがする」
「座ろう」
落ち着いてきて、イーナは隣に座っていて、腕が少し触れるくらい近寄っている。温度は暖かい。感触も柔らかい。彼女はやはり女性だ。たとえ生殖機能を持っていなくとも、女性だ。そう思うと、私の心は少し落ち着いた。そうだ。セックスの機能だけが、性別を決定するわけじゃない。私は自分にそう言い聞かせて、普通に接しようと決めた。
「君が、外の世界で見てきたことを教えてほしい」
私が落ち着いてくると、イーナはすぐにそう言ってきた。私自身も、イーナとは別のことに意識を向けたかったので、喜んで私の外の世界での生立ちを語った。養父に保護され、暴力的な組織に所属して頭角を示し、戦でも勝利をおさめたこと。そこでは、こことは真逆で、男性が社会を支配し、女性はいつも影に隠れ、男の財産として扱われることも多かったということ。それに対して、私は決して喜ばしく思わなかったこと。かといって、男性と女性が同質で、対等な存在ともやはり思えなかったこと。
今のように、世の中が女性に支配されていることが、妙に居心地がいいこと。同時に、ある種の空しさと、渇きのような破壊衝動に悩まされること。自分が男性だからこうであるのか、それとも自分が自分であるからこうであるのか、そんな答えが見つかるはずのない問いと向き合い続けてきたこと。
イーナは、私の話をずっと黙って聞いていてくれた。施設の男どもなら、途中で飽きたり、あるいは自分が気になった細部について途中で質問をしてきて、話が脱線したり、あるいは話し手が相手に交代していたことだろう。
私は私自身が疲れて、話すことができなくなったとき、ふと私自身がイーナのように、静かに話を聞き続けることができるだろうかと己に問うた。わからない、と思った。
「エノク」
「うん」
「話してくれてありがとう」
そう言って、イーナは立ち上がった。
「話してくれたことについて、考える時間が必要。だから、またね。次も、いろんな話をしよう」
立ち止まることなく、振り返ることなく、まっすぐ伸びた背筋で図書室を出ていった。その後ろ姿に、私は何か神秘的な美しさを感じて、衝動的に追いかけたくなったが、私の足は私の意志には従わず、席から立つことすらなかった。私はイーナと別れた後、少しだけ机に突っ伏して泣いた。何が悲しかったのかはわからないけれど、自然と涙がこぼれていた。
泣き終えると、なぜかはわからないが、とても晴れやかな気分になった。他の出演者にも会わなければならないな、と自分を励まして、今度はちゃんと立ち上がった。
「意外だな」
またしても、そこにいたのは見覚えのある人物だった。
「どうも」
フランクな感じで手をあげたのは、同業者のノアだった。もちろん、彼女は女性で、私は男性。彼女は数ある中からその職を選び、私には選ぶ余地はないわけだが。
「生殖器の切除は……」
「当然やってないですよ。それでもいいと言われたので」
「出演者は皆俳優だと聞いていたが、話が違うな」
「まぁ、男性からすれば、女性はみんな俳優みたいなものかもしれませんが」
私は、部屋の隅にあるカメラがわざとらしく私たちを捉えているのを確認した。
「緊張はしないんだな」
「多少はしてますよ。はじめての経験ですし。こういう番組に出演するのは。でも、結局これが世に出るのは、私がもう私ではなくなっているときですから」
「どういう意味だ?」
「十年も経てば、もう別人みたいに変わってしまうのが、人間という生き物じゃないですか」
私は眉をひそめた。確かに人は変わるが、そこには確かな連続性があって……
「十年も経てば、私はもうほとんどの人から求められなくなる。男性なら、女性よりはさらに十年持つことがあるみたいですが」
「女性同士でもそうなのか?」
「えぇ。私自身もそう思いますし。ですから、いつまでもこの仕事をしているわけにはいきません。かといって、他の仕事にはあまり興味がない。だから、これを機に、新しいことに挑戦しようって思ったんです。あ、だから別に私は、他の出演者さんたちとは違って、エノクさんに特別な好意は持っていませんよ」
「そうか。それはありがたいな」
「ん。どうしてですか」
「ひとりも友人がいない場所で過ごすのは苦しい」
「友人? 私と、あなたが?」
「あぁ、そういうことじゃないのか?」
ノアは、吹き出すように笑い出した。そのあと、怒っているのか、軽蔑しているのか、はたまた悲しんでいるのか、判別の難しい表情を浮かべた。
「エノクさん。何か勘違いしていませんか? 私は女性で、あなたは男性ですよ? たとえこういう番組であったとしても、男性は女性を喜ばせるための道具であり、決して対等にはなりません。女性側が、対等な関係でありたいという欲求を抱いた時のみ、男性がそのように演じることが求められるだけで、友人とか、友情とか、そういったものはあるべきではありませんし、そもそも成立しえません。だってそうでしょう? 私たち女性にとって、男性はいつでも危険な存在で、あなたたち男性にとって女性は、自分たちの価値を証明する唯一の存在であり、依存先なんですから」
ノアは、早口でまくしたてるように言った。言い切ったあと、すっきりしたような表情で、私の肩に手を置いた。
「こういう言い方をされると、苛立つのは理解してます。男女関係なく、人というのは見下されるのを嫌いますから。しかし、人を上から見下ろすためだけにあまりに多くの罪を犯してきた男性と、そうしたくないがために、他の人たちと同じ目線に立とうとする女性の間には、果てしないほどの差があります。それを理解してください。エノクさん」
ノアは、私の顔を覗き込んで、私がどんな顔をして、どんなことを考えているのか見透かそうとしてくる。
私の心は不思議と落ち着いていた。なぜかはわからない。もしかすると、ノアの発言の中に、悪意のようなものを全く感じなかったからかもしれない。
男性同士の、こういった発言には、もっと重く、不快な響きがある。そしてその響きに対し、即座に反応してしまえば、それだけで不利な立場に置かれる。だから私は、反応しないことを覚えた。それは、反応しないようにしようと思ってそうするのではなく、強い言語的な刺激があったときに、ひとつの自然な反応として、精神が硬直するのだ。そうすることで、己の身を守っているのだ。
しかし、そういう硬直とは異なり、先ほどのノアの発言に対し、私はほとんど何も思わなかった。何か言いたいとも思わなかった。
どちらかと言えば、なぜ私は先ほどノアと、友達になれるかもしれないなどといった、愚かなことを言ったのか不思議に思った。不自然なほど自然に、私はノアに対し、男性の友人同士のような関係が築けそうだと思ったのだ。
それに、これほど否定されてもなお、私はそれが不可能だと感じてはいない。それも謎だった。
「じゃあ、私たちは仕事上の関係ということになるな」
「えぇ。そうです」
ノアは少し不満そうな表情を浮かべている。それがどういう感情なのかはやはりわからなかったが、あまり興味もそそられなかった。
「あ、エノクさん!」
次に廊下ではちあったのは、首に、小さな青いイルカのペンダントをかけた少女だった。こちらに気づいてすぐに駆け寄ってきて、情熱的なまなざしで見上げてくる。
「エレナさん」
「覚えてくれてたんですね」
「元気そうでよかった」
目の前の、自分より一回り年下の少女を抱いた時のことを思い出して、自然と自分の肉体が性について意識していくのを感じた。おそらく目の前のこの子も同様に、そのときのことを思い出しているのだろう。頬を赤らめ、もじもじして、誘うように体をくねらせている。おそらくは、無意識的に。
「君は、なんと言われてこの企画に参加したんだ?」
「あ、はい。エノクさんを中心としたリアリティーショーがあると聞いたので、応募したら、当選したんです。友達も応募してたんですが、私だけが受かって」
飛び跳ねるような口調。自然と口角が緩む。
「こんな早くまた会えると思ってなかったので、嬉しいです」
「私も嬉しいよ」
実際、ここまでどうにも癖の強い人物ばかりだったので、彼女のように純粋でかわいらしく、私に好意を抱いてくれている子がいてくれるのは、少しほっとしていた。
「え、えへへ。あ、そうだ、わ、私、してほしいことがいっぱいあるんです! その……本の中でしか読んだことのないこととか、たくさん……」
「時間はある。だから、ひとつひとつゆっくり試していこう」
「……! はい!」
私は今日の最初にアリサにやったように、エレナの頭を優しくなでた。きっと、それが求められているのだろうと思ったから。
施設を一通り見て回ったが、もうひとりは見当たらなかった。自室に戻ってくると、その扉の前には、真っ黒な服を着た、髪の短い女性がいた。他の出演者と比べて、一回り年を取っていた。おそらくは、三十歳前後だろう。
「あぁ、どうも。エノクさん」
女性はこちらに気づくと、うやうやしく頭を下げた。
「レイスと言います。墓守をしている者です」
「あぁ。どうも」
私も同じように頭を下げる。
「私は恋愛はおろか、男性と話したことが一度もなく、不慣れなので、サポートしていただけると助かります。よろしくお願いします」
口調や言葉選びからは、あまり緊張は感じられなかった。あらかじめそういうことを言うように用意してきたようだ。こちらを見てはいるものの、目はまったく合わない。
「あぁ。よろしく」
「それでは、今日のところはこれで失礼させていただきます」
そう言って、もう一度頭を下げて去って行った。レイス。墓守。後姿を眺めながら、自分の母親の墓はどこにあるのだろうかとふと思った。もし機会があるならば、一度弔いたいと思った。外の世界では、誰かが死ぬたびに葬儀をしたが、この国でも葬儀はあるのだろうか。幼少期の記憶には、葬儀に関連する記憶は一切ない。
実際、親子も兄妹も家族という概念もほとんどないこの女の国に、死者を弔うという文化はあるのだろうか。もしないのであれば、墓守というのは、単なる死体処理業者に過ぎないのではないか。
なぜかはわからないが、そう考えるとひどく不愉快な気持ちになった。
控えめなノックが聞こえる。読んでいた本を閉じた。
「どうぞ」
「どうでした? 出演者の皆さまは」
寝間着を着て、眼鏡をかけたアリサが入ってきた。見たことのない恰好だったので、一瞬誰だかわからなかった。私は平常心を装って、考えるそぶりを見せる。
「4人中3人が見知った顔だ。聞いていた話と違う」
「5人中4人の間違いですよ、エノクさん」
私は眉をひそめる。この時間も、番組の一部だということなのだと考えると、靴にガムがへばりついたような感情が湧いてきた。
「台本も役に立たない」
「役には立ったんじゃないですか? 少なくとも、何が起こるかわからず不安になる様子は見えず、自然に一日目を過ごしていたように見えましたが」
「はじめから、知り合いばかりだと教えてもらっていた方がより自然に接することができたと思うが」
「予想外の再会の方が面白いじゃないですか。多分ですが、この番組が世に出る際には、彼女らとの初対面の映像も一緒に公開されるでしょうね」
12歳のとき、美しい女性の臓物が零れ落ちるのを見たことがある。宴会の席で無礼を働いた娼婦だ。当時私ははじめての性行為を行ったばかりで、女性の肉体を見るたびにそれに釘付けになってしまうような状態だったが、あの出来事を経て、どんな美しい肉体もその薄皮一枚隔てた先に、この世のものとは思えないほどグロテスクで穢れたものが詰まっていることを理解し、性欲とうまく付き合っていかなければならないのだと決意したのだった。
今の自分の状況は、うまく説明できないが、そのときの感情に少し似ているような気がした。自分の中の、精神的な美しい部分。そういったものが剥ぎ取られ、本質がむき出しになっている。そう。本来、誰からも知られないか、あるいは二人だけの共有された思い出になるようなものが、いずれ広く知られ、大衆の娯楽として消費されてしまう。神秘性や個人性のベールが剥ぎ取られ、下品な共感の喜びに変わってしまう。
あらゆるものが、臓物に還元される。醜い本能的な欲求を満たすための道具に。
「少し、気分が悪そうですね。一度に多くの女性に会っているのに、抱くことができないというのはそれだけで男性にとってはストレスなのでしょうか」
「君は外の世界で仕事をすることもあるだろう。だったら、実際の男性はそこまで性欲に支配された生き物でないことくらいわかるだろう」
「えぇ。そういう習慣で生きていれば。しかしあなた方は、女性と会うイコールその女性とセックスをする、という習慣の中で生きています。習慣とは異なることをするのは、性別に関係なく誰にとってもつらいことだと、外の世界を見てより強く思いましたが」
「なら、私はどちらかといえば男性同士で話す機会がないことの方が、つらいかもしれないな」
「まぁ、それは我慢してもらうしかありませんね。あぁ、性欲に関しては、もし望むのでしたらこちらで用意できますよ。出演者以外の女性であれば、ある程度融通が利きます」
「いや、いい」
断った後、少し惜しいような気持ちにもなった。番組とは関係のない女を抱けば、この不快な気持ちも少しは和らぐだろうと思ったからだ。
だが、と思う。この薄く継続的に私の心に漂っている不快感だけは、きっとカメラには写らない。これを消してしまえば、私が私であるところのものもまた、存在しないことになってしまうような予感があった。
そう考え、私の中の子供じみた意地は、より強い決心に変わりつつあるのを感じた。
禁欲。性について、考えることさえ控えるようにしよう。それができるのであれば、だが。もしそれができるのであれば……私は、男性でありながら、その弱さの一部を克服できたことになるのではなかろうか。
朝起きて、いつも通りのルーティンを終えて朝食を取りに部屋を出ると、そこには互いに少し気まずそうにしているアリサを除いた五人の出演者たちが、それぞれ等しい距離を開けて立っていた。
このシーン自体は、台本にあったが、その場所も時間も違っていた。ただ、いざそういう状況になったとき、練習したとおりの言葉や仕草が自然に出てきて、自分でも驚いた。
「この番組の企画としては、私をめぐって皆さんに争ってもらうものですが、私はそれを望んではいません。仲良くしろとは言いません。ただ、人は鏡とも言います。互いのふるまいを見て、自身を見つめ直す機会になると思います。この企画は、単に男性と女性の恋愛を映すだけのものではありません。それに伴う人間的成長こそがその手段であり、皆さんに目指していただくものです」
よどみなく。身振り手振りも、指定されたとおりに。言い終えたあと、最初に目があったのは、少女、エレナだった。彼女はきらきらしたまなざしでこちらを見つめていて、何かにはっと気づいたような顔をして、すぐに両手でぱちぱちと拍手をし始めた。隣のイーナはつまらなそうに視線を外していた。ノアは仕方がなさそうに数回拍手をしていて、レイスは無表情だったがしっかりと拍手をしていた。
「まぁ正直、慣れ合うつもりはないよ」
ノアはそう言った。
「でも、最低限の関わりすら拒むつもりもない。私はノア。みんな、よろしく」
それも台本なのだろうか。わからなかったが、ノアはひとりひとりに軽く会釈した。
「あ、はい。私、エレナと言います。この中だと一番子供だと思います。よろしくお願いします」
エレナが誰に対してともなく、深く頭を下げる。
「イーナ」
イーナはそう言った。続く言葉を皆が待ったが、イーナは何も言わなかった。
「私は墓守のレイスと申します。先日エノクさんには先に挨拶させていただきましたが、皆さんと会うのは今回がはじめてですね。よろしくお願いします」
「墓守?」
ノアはいぶかし気に尋ねた。
「何をする仕事なの? あんまり聞いたことないけれど」
「その名の通り、お墓を守る仕事です。遺体を運んだり、墓所の管理を行ったり。亡くなった方の情報の管理も行っています」
「へぇ。なんか、少し気になるな。あとで詳しい話もっと聞きたいな」
「えぇこのあと食事ですが、その時にでも、ぜひ」
台本にはない会話だったが、そのまま流れで皆で食堂の方に向かった。
食事はすでに用意されており、席も決まっていた。私の両隣にはノアとエレナ。ノアの隣にはレイス。その向こうにはイーナで、私からもっとも遠く離れていた。席についてすぐ、レイスとノアが職業のことで会話を始めた。
「ノアさんは何のご職業なんですか」
「私は人を癒す仕事」
「癒す? カウンセラーですか?」
「いや、心じゃなくて体の方」
「あぁ。お医者様ですか」
「ううん。そんな立派な仕事じゃない」
レイスは少し考えた後、得心がいったようにポンと手をうった。
「セラピストですか。立派な仕事じゃないですか!」
「こっちの、ね」
そう言って、ノアは中指を器用にぴくぴくと動かして見せた。レイスはそれを見て、急に顔を赤らめた。
「あぁ。いえ、そ、それも、本当に立派な仕事だと思います」
「でも、若くないと難しい。だから、今のうちに他の仕事のことも知っておきたいなって思っているんだ」
「あぁ、それで。なるほど」
私はそのまま二人の会話を聞いていたかったが、隣のエレナがちょんちょんと私の腕をつついてきたので、意識をそちらに向けた。
「エノクさんは、外の世界では何のお仕事をされてたんですか?」
「何かひとつの仕事をずっとする、ということはなかったね。普段は養父の雑用で、戦争があれば前線で指揮をしながら戦うし、宴があるときはそれを仕切ることもあった。客があればもてなす必要があるし、金を納めない者がいるときは、取り立てに行っていた」
「……外の世界では、定職っていうのがあまりないのですか?」
「いや、ほとんどの人は毎日決まった仕事をしていたよ。農民は畑を耕し、商人はものを買って売る。まぁ、君たちの国ほどのバリエーションはないけれどね」
「……なるほど。その、もし私が外の世界に出たとして、私が外の世界でできる仕事ってなんだと思いますか?」
娼婦。真っ先に頭に浮かんだのはそれだったが、目の前のまだ幼い少女にそんなことをはっきりと言うのは酷だと思ったし、実際、他にも可能性はいくらかある。
「私はまだ君のことを十分に知らないからはっきりとしたことは言えないが、交渉や時世を読むのが得意なら、商人は向いていると思う。肉体労働と貧しさが苦じゃないなら農民としてやっていけるし、そもそも外の世界だと、大家族だと女性は掃除、洗濯、炊事を一通りするだけで一日が終わってしまうから、仕事に就いていないことも多い」
期待した答えではなかったのだろう、エレナは少し困ったように笑っていた。
「ねぇ」
「うわっ!」
急に後ろから声をかけられ、エレナは飛び上がるように立ち上がって、振り返った。そこには、少し怒ったような顔をしているイーナがいた。
「そこ、変わってもらえる? 私、エノクと話したいから」
ずっとふたりで話していたノアとレイスも会話をやめて、こちらを注目している。気まずい沈黙が流れ、エレナはイーナに気おされ「あ、はい」とだけ言って席を譲った。イーナは意に介さず奪いとった席に座った。
「あんまり食が進んでないみたいだね」
そう言って、私の前の豪華な料理を示す。私は自分の手に持っていたフォークが少し震えているのに気づいた。ため息をついて「あぁ、食欲がわかない」と言って、私も立ち上がった。
「みんな、食事はこれで終わりにしよう。まだ食べ足りないものがいれば残ってくれ。私は部屋に帰る」
後ろに、イーナがついてくる。その後ろに誰がいるのかは見ていない。振りかえる気も起きなかった。
女性同士でも、いがみ合うことがあるのは知っている。だがほとんどの場合で、片方が圧力をかけて、もう片方がそれに屈してそれきりだ。外の世界ではもちろん、幼少期の子供同士の遊びの記憶でもそうだ。遊具やおもちゃの取り合いでは、いつもより声が大きい者、遠慮のない者が得をし、そうでない者が損をする。私の記憶では、イーナはマイペースではあったが、どちらかといえば遠慮をする立場の側だったはずだが。
「わかってほしいのだけれど」
「何が」
「番組的にはその方がいいっていうこと」
「悪者になろうって?」
「表面的には。何作かこの手の番組を見たけれど、わかりやすいストーリーが必要なのは明白。あの四人の中だと、私かノアが悪役になって、残りのふたりのどちらかがあなたと結ばれる。きっとそういうシナリオになるから」
「私は他の作品を見ることが許されなかった。最後にはどうなるんだ?」
「結ばれたふたりが外の世界に出て、終わり。調べてみたけど、当然、ふたりともその後もこの国の中で暮らしているよ。あくまで全部演出だから」
「まぁ、そうだろうね」
「でも、私は思うよ。もし君と二人で、外の世界で生きられるなら、それはきっと幸せだろうなって。人を好きになるっていうのは多分そういうことだし」
「君は私を今でも愛しているのか?」
私は立ち止まって、イーナを見つめた。イーナはとても穏やかな顔をして笑っている。馬鹿なことを言うな、というように。
「私は誰のために、自分の性を捨てたと思ってるの? 私の人生の最良の時間はすべてあなたとの時間だったの。他の時間全てを消し去ってしまいたいほどに」
私はどう答えていいのかわからなかった。ただ、心はひどく重くて、引き裂かれそうな気持ちになっていた。
「私にとって、生きることは苦痛だったの。いつでも、全部捨て去る覚悟はできてた。私にとってあなたは、私をこの世に繋ぎ止める錨のようなもの。でも、わかってるよ。あなたにはあなたの人生があって、きっとそれは……私とずっと一緒にいるためのものじゃない。だから、長い人生の中で、たとえ短い期間でも、あなたに消えない傷を残せたらいいって、私はそう思ってここにいる」
そう言って、イーナはその軽い拳で私の胸をうった。
「苦しい?」
「あぁ。苦しい。君と一緒にいると、普段感じているのとは違った痛みが走るんだ。でもそれは、私の生きる苦痛、倦怠感、絶望感といったものから遠ざけてもくれる。だから……嫌じゃない。この痛みは、多分必要な痛みだろうって思う」
イーナは握った拳を広げて、そのまま私の胸において、まるで拒絶するみたいに軽く押した。
「それじゃ、またね」
そう言って、軽やかな足取りで去って行った。私は彼女に押された胸元を自分の手で触れて、爪を立てた。
「あ、エノク。あの子はどうしたの?」
三人が並んで歩いている。目元が赤くはれていて、泣いたあとのあるエレナを二人が挟んでいる形だ。
「多分自室に戻っていったよ」
「あ、そうなんだ」
ノアはちらっと他のふたりを見た。エレナは下を向いたままだったが、レイスの方は頷いた。
「あの子、あなたのお気に入りなの? 親しそうだったけど」
どう答えたものかと逡巡する。多分、このシーンは使われることだろう。慎重に答えた方がいい。番組的にも、今後の人間関係的にも。
「わからない。気になりはするけれど……」
神妙な顔で、そう答えた。レイスとノアはエレナを挟んで困ったように目を合わせていた。多分、私は間違えたのだろう。もっとはっきりとした、わかりやすい回答の方がよかったのかもしれない。たとえば、「いや、付きまとわれているだけだよ」とか。あるいは「彼女はなんか特別な感じがするんだ」とか。正直に、彼女が幼馴染であると説明するわけにもいくまい。
「正直に言うけどさ、さっきの、感じ悪すぎだよ。エレナがかわいそうじゃん」
ノアはそう言って、エレナの肩を持った。エレナは首を横に振ってる。
「ううん。私が悪かったの。私が、先にどいとけばよかった。イーナさんは、私たちには興味ないから、みんなが楽しくご飯を食べるために、席を変わればよかったの」
台本。あの席順は、間違いなく意図されたものだったと思う。見た瞬間に、意図は感じた。そして、何かしら問題は起こるだろうと思った。で、イーナがそれをやった。期待されていた通りに。
おそらく、レイスとノアのふたりは、そういう番組側の意図をなんとなく理解しているのだろう。エレナだけは、おそらく何も伝えられていない。だから本気で、敵意を向けられたと思ったのだろう。
いや、違う。イーナは本気でこの子に敵意を向けていた。台本があろうとなかろうと、つまり行動があろうとなかろうと、イーナは他の者たちを嫌悪しているし、軽蔑もしている。
私はしゃがみこんで、エレナの顔をしたから覗き込んだ。初対面の時の状況と重なって、心がざわついた。
「イーナのあの行動は、きっと台本だと思う。でも、イーナが君のことをよく思っていないのは、台本とは関係なく事実だと思うし、今後同じような感じで君が嫌な気持ちになることもあると思う」
エレナの手を握って、そう言った。
「でも、彼女は意味のないことはしない人だから、嫌がらせをしてきたりはしないと思う。それに、私は……別に彼女が、君たちと仲良くできない人だとも思ってない。君たちが、彼女に本気で向き合えば、きっと心を開いてくれるだろうとも思う」
エレナは涙を拭って、深く頷いた。
「それでさ、このあとちょっとクエットボールで遊ぼうと思ってるんだけど、エノク教えてくれない? 選手なんでしょ。私たちやったことなくてさ」
ノアはそう言って、クエットボールでよくやるボールを右手から左手に動かす動きをやって見せる。
「あぁいいよ。どうせ暇だったし」
そう言った後、イーナ抜きの四人でやるのはそれこそ感じが悪いなと思った。
「本当に私が誘うんですか?」
レイスは怪訝な表情を浮かべながら尋ねる。
「その方がいい」
私ではなく、三人のうち誰かが誘うのがいいだろうと私から提案した。正直に言って、イーナは彼らと一緒に遊びたくはないだろうが、私から誘えば、断りづらいかもしれない。番組的にも、印象があまりよくない。
端的に言えば、彼女に断らせるための判断だった。
「5人だと、ひとり見学になる。一番動けなさそうなあなたが見学してて」
ボールを地面につきながら、イーナはそう言った。その手つきは競技者のそれだった。エレナは悲しそうな表情をしていたが、それでも私は、少しだけ気分が高揚していた。初心者3人とゲームをするよりは、実力のあるひとりと1on1を行う方がずっと楽しいし有意義なように感じられるからだ。イーナもおそらくそう思っているのだろう。私の方しか見ていない。
「いや、私は見ているよ。四人で、女性だけで、2on2をするのがいいだろう。その方がフェアだ」
「フェア? どこが?」
「君が手加減してサポートに回ればフェアだ」
イーナは、ボールをじっと見つめたあと、それをその場において、背を向けた。
「それなら、やらない」
私たち四人は、異様なほど静かな体育館の中で、かつかつと遠慮のない足音を響かせながら去っていくイーナの背を見つめていることしかできなかった。ただ、その音は途中で止まった。立ち止まるイーナの目の前には、タンクトップ姿の女性が立っていた。高い身長。引き締まった長い手足。蛍光灯を反射して輝く見事なブロンド。
「やらないんですか? イーナさん」
「誰?」
「アリサです。はじめまして。エノクさんのエージェントをしています。彼を外の世界からここに連れてきた張本人であり、彼の、ここに来てはじめての相手でもあります」
イーナは黙ってじっとアリサを見つめている。彼女は何を考えているのだろう。アリサは、その相手を苛立たせる自信に満ちたにやけ面をいつも通り浮かべている。そう。それは確かに人を苛立たせる。しかしそれ以上に、そんな表情をしていてもその顔に見とれてしまうほどの美貌があり、それを意識せずにもいられない。他の四人も、容姿としては十分に魅力的だが、アリサと並ぶとさすがに劣る。肌のきめ細かさも、髪の質も、体格も。だがアリサのもっともすぐれている部分は、そう言ったわかりやすいものではなく、言語化しづらいある種の雰囲気だった。自信に満ちていて、どんな問題も苦も無く対処してしまいそうな、完璧ともいえる軽やかさと隙のなさ。
「わかった。でも、私とあなたの1on1」
「いいですよ。でももし私が勝ったら、私の言うことをひとつ聞いてもらえますか? イーナさん」
「相手の実力も解らない状況でそんな賭けに乗ると思う?」
「あれぇ、負けるのが怖いんですか?」
「男性同士がやるみたいなくだらない挑発をしないで。次にくだらないこと言ったら私は帰る」
「あはは。冗談ですよ。まぁでも、何かがかかってないと面白くないじゃないですか。別に無茶言ったりしませんよ。常識の範囲で、お願いさせてくださいって話です。逆に、あなたが勝てばひとつお願いをきいてあげますよ。私、結構地位高いので、けっこういいことをさせてあげられますよ。たとえば……エノクさんと一晩を過ごす、とか」
そう言った瞬間、「え!」と大きな声をあげたのは、エレナだった。思わず声を出してしまったことに自分で驚いた後、恥ずかしかったのか顔を両手で隠した。
「わかった。やろう。私が勝ったら、エノクの部屋に自由に出入りできる権利をもらう。あなたが勝ったら、それと同等だと私が思える範囲であなたの命令に従う」
「よし決まりですね! みなさん、私を応援してくださいね? エノクさんをこの性悪女に取られたくなかったら!」
真っ先に声を出したのはノアだった。彼女は自分の立場を決めるのが、他の者たちよりも早い。
「頑張れ! エージェントアリサ! かっこいいよー!」
その、コメディじみた反応の速さに、つい頬が緩む。意外なことに、イーナも一瞬だけ笑って、すぐに口で手を抑えていた。
勝負は意外にも、一方的に終わった。アリサは何とか試合になるくらいには食らいついてはいたが、点数は開く一方で、最終的には52点対18点と大差がついた。アリサは肩で息をしている一方で、イーナは涼しい顔をして汗を拭っている。
「や、やっぱブランクはありますね。というか、それだけやれて、なんで賭けに最初のらないんですか」
アリサはあまり悔しくなさそうに、イーナに声をかけていた。
「別に、私よりうまい人は私がいた狭い区域ですら十何人かいるし。そもそもエノクと私がやったら、多分負ける。あなたが私の知らないところでエノクと毎日のようにクエットボールの1on1を練習してたら、勝てないだろうって思ってた」
アリサは肩を落として「約束通り、エノクさんの部屋の鍵をあげます。今後自由に出入りしてください」と言った。
イーナは少し悩んだ後、首を横に振ってアリサの肩に手を置いた。
「いいよ。そもそもこの試合はフェアじゃなかったし、あなたがちゃんと勝とうとしていたのは伝わってきた。実際、楽しい試合だった。私はそれで十分」
それじゃ、と言ってイーナは私の方にボールを投げた。
「邪魔者は帰るから、あとはみんなで楽しく遊ぶといいよ」
私はボールを反射的に受け取ったあと、呆然と彼女の堂々とした背を見つめていることしかできなかった。
「みなさん、すみません。勝てませんでした」
「ううん。よくやったよ。というか、あの人何者? めっちゃうまかったように見えたんだけど」
三人が近寄ってきて、思い思いにアリサを労う。彼らも初対面で、初めて会話するはずだが、応援していたからかすでにもう親近感がわいているようだった。
「彼女、クエットボールの選手なんです。区域代表には選ばれてなかったので、大したことないだろうとふんでいたんですが……まぁ、ちゃんとやってる人には勝てませんよね」
「でも、意外でしたね。あんな貴重な権利をあっさり手放すなんて。不思議な人ですね」
「まぁ、悪い人ではないっぽいね。エノクの言う通り」
「あ、あの!」
ずっと下を向いて黙っていたエレナが、決心したように顔をあげた。
「私、頑張るのでクエットボール、教えてくれませんか!」
「え?」
「あ、その。私がもっとうまくなって、アリサさんみたいに、ちゃんと試合になるくらいできれば、クエットボールを通じて、イーナさんと仲良くなれるかもって思うので、その……」
私は、イーナから受け取ったボールを見つめて、悩む。心意気はいいが、クエットボールは難しいうえに、体格がものを言う競技でもある。もちろん、小柄でも役割に応じては活躍できるが、それは5on5や8on8になったときの話だ。1on1はもちろん、3on3のルールでも、エレナがどれだけ技術を積んでも、その体格ではほとんどイーナやアリサの相手にはならないだろう。
そう。クエットボールを知っていれば、それはわかるはずなのだ。エレナはクエットボールをよく知らないから、こんなことが言えてしまう。そしてこういう愚かさがあるのを、もしかすればイーナはすぐに見抜いていたのかもしれない。
「よし。じゃあやりましょうか。私とエノクさんが教えるので、ちゃんとついてきてくださいね?」
アリサは私から強引にボールを奪い、そう言った。そして「パス!」と言って、緩くエレナにボールを投げた。エレナはあわあわしながら両手を前に出してとろうとするが、手と手の間をすり抜けて、額に激突。しかし、そのはねた球を必死になって取って、「えへへ」と笑った。
私はそれを見て、少し気持ちが軽くなった。別に、本気で試合をするわけじゃない。最低限競技を楽しむのに十分な知識と技術なら、誰でもすぐに身に着けられる。そういう手軽さが、サッカーやバスケットボールといった古典的なスポーツとは異なる、クエットボールの魅力のひとつでもある。
「よし、じゃあ私もやるぞ!」
ノアもそう言って腕をまくる。レイスもうなずいて、構えた。どうやら、レイスはまったくの未経験というわけではなさそうだ。
「うわぁ、明日絶対筋肉痛だ!」
夕食の時間になって、私たちは体育館から出た。
「それでは、私は失礼します」
アリサがそう言って頭を下げる。
「あ、あの!」
「なんですか、エレナさん」
腰を少しかがめて、アリサは尋ねる。クエットボールを教えるときにも、よく見た光景だ。
「その……今度は、いつ会えますか?」
アリサは口をぽかんと開けて、私の方を見た。エレナに視線を戻し、また同じ間抜けな顔で私を見た。
「私に会いたいんですか?」
エレナは恥ずかしそうに頷いた。
「うわぁ! かわいいですねぇ!」
そう言ってアリサは急にエレナに抱き着いて、激しく頭を撫でまわした。満足したのか、アリサは私たち全員に向き直って「多分、明日か明後日にでも顔を見せると思います。何があるかはわかりませんが」と言った。
髪をぼさぼさにされたエレナは去っていくアリサに熱いまなざしを送っていた。
「まぁ、すごい人だね。アリサさんも」
ノアは呆れたように言った。
「ですね。でもすごく優秀な方なのはわかりました。とても細かく気配りもされていましたし……それに、すごい美人」
レイスはそう言って、眼鏡指で直した。
「あの、エノクさんはアリサさんと毎日会っているんですか?」
「まぁ、会わない日もあるが、だいたいは」
「いいなぁ……」
ぽぅ、と呆けたような表情を見せるエレナ。私は少し呆れながらも、夕食の献立を予想して楽しむことにすることにした。
「こんなに早く登場するつもりはなかったんですけどね」
部屋を薄暗くして寝る準備をしているときに、アリサは訪ねてきた。仕事というよりも、ただ話したいから来た、というような雰囲気だ。
「もしイーナが自分からいらないと言わなかったら、本当に俺の部屋に入る権限を与えていたのか?」
「えぇ。別にいいでしょう? どうせあの人はセックスできませんし、そんな長時間エノクさんと一緒にいたがるとも思いません」
「……いまいち、君があぁした理由が私にはわからない」
「どうしてですか? 結果として、みなが望んだようになっているじゃないですか」
「こうなるだろうと予測していたのか?」
「わざわざ予測する必要もなく、私は自分がいた方がいいところにいて、やった方がいいことをやったまでです。その結果として、何もしなかった場合よりもよい状況になった。それだけですよ」
いまいちピンとは来なかったが、おそらくアリサの言っていることに嘘はないのだろう。実際、彼女はよい仕事をした。イーナと他の三人の関係が致命的にこじれることを防ぎ、自分自身も四人全員と良好な関係を築くきっかけを作ることができている。
「私はどうすればよかったんだ?」
「ん? 別にどうもしなくてもよかったと思いますよ。出演者同士の対立は悪いことじゃありません。また、その仲裁の役は私であって、あなたじゃない。あなたはただどちらかの側についたり、あるいはそれができず中立な立場で困っていればいいんです」
「……まぁ、昨日も今日も、レイスさんとはあまり話せていないから、明日はふたりきりの時間を作ってみようと思う」
「いいんじゃないですかね。まぁ……あの人の情報は、私もあまり詳しくは持っていないので、アドバイスはできませんが」
「この国にも、墓守という仕事はあるのは知らなかった」
「珍しい仕事ですからね。社会的地位もあまり高くないですし、その割に特殊な技能が求められますし、厳しい試験にも合格していなければなりません」
「あぁそういう感じなのか」
「えぇ。膨大な情報を管理しなくてはいけず、しかも守秘義務も重い。それなのに、個人的な裁量は全くなく、機械的に仕事をこなさなくてはいけません。死体をたくさん見ますし、この社会の隠された部分に直接触れる仕事でもあります。精神的な負担は、はかり知れませんね」
「なるほど」
「ともあれ、見てる感じは変わった方には見えませんけどね。いたって普通の、常識人。年齢的にはギリギリですね」
失礼な言い方だと思う反面、アリサ自身も自分もそう遠くない未来そうなることを知ったうえで言っているのだろう。
確かに人は年齢で評価される部分がある。それに理不尽を感じることも、誰しもあるだろうと思う。ただ、悲しいのは、自分が誰かにそう扱われるのがどれだけ嫌でも、自分が誰かをそう扱うこと自体には、誰も抵抗を抱かないということなのだ。
私自身も。




