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女の国  作者: 根無し
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女の国

「エノク。あなたは特別な子。私の何よりも大切な宝物」

 敵から奪った宝物を数えながら、何よりも大切な宝物を保身のために捨て去った母親のことを思い出していた。



 鎖につながれた敵国の女たちが運び込まれ、好きな者を贈ると商人に言われたとき、やっと自分がこの戦に勝利したのだという実感を得た。

 性行為はあまり好きではなかったが、運命の出会いというのはどこにあるかはわからないものだ。私はとりあえず、女たちの顔をひとりずつ見ていった。

 同じ奴隷でも、それぞれ別の表情をしている。完全に光を失っている者。まだ希望を抱いていて、できるだけいい主人に出会うことを夢見ているもの。戦争の結果を受け入れず、私たちを憎悪の眼差しで睨む者。

 どれも、珍しいものではない。あの国を追い出され、この汚染された土地で生きるようになってからは、見慣れたものだ。

「まぁ、また今度にするよ」

 商人にそう言って、部屋を出ようとしたとき、その部屋のそばにいた長身の女の顔が妙に印象に残った。その土地にありふれた白衣で、髪も後ろに結んでいて、見慣れた髪型だったが、その両方にどこか違和感があった。まるで、わざと「普通」を演じているかのような。

 私は立ち止まり、振り向くと、その女と目が合った。その女は微笑みかけながら近づいて、私の手を握った。

「たくましい手ですね。優れた戦士の手」

 その手は白く細く長かった。この辺の人間なら、この女のような年齢なら、よほど地位が高くない限り、手はひどく荒れており、傷だらけであるのが当たり前なのだが。

「君はどこの国の者だ?」

「あなたと同じですよ」

 女の国。私はとっさに身構えた。

「なぜ知ってる」

 女は答えずにこちらの腕に手を絡ませて、まるで男が女を導くようにして、歩き始めた。

「危害を加えるつもりはありませんよ。ただ……提案がございます」

「提案?」

「はい。あなたはとても魅力的な男性で、きっと女性に不自由したことはないでしょう。ですが、ここでの暮らしはあまりに不潔で、貧しいものです。あなたのように、実力で高い地位を得たものであっても、私たちの国の最貧層の暮らしよりも、悪い暮らしをしているのですから」

「だが、お前たちの国では、女しか人間として扱われていないだろう」

 そう。私は、母親が国や周囲の目をごまかして産み、育てられた子供だ。もし私が女であれば、それほど大きな問題はなかったろうが……私は男だったから、それがわかるような年齢になって、国の外に捨てられた。そこからは……必死になって生き抜いて十年。この部族の若武将として、今回の戦争の勝利に貢献し、またひとつ地位をあげた。

「いえ、たとえ男性でも、ここでの暮らしよりはずっとましなはずです。清潔なベッド、安全な食事、豊富な娯楽、気の合う仲間たちがいますよ」

「……性隔離施設というやつか」

「はい。すべての男性が、幸せに暮らすことのできるすばらしい場所です。あなたならすぐに男性たちのコミュニティの中で高い地位につき、女性たちからの人気を得て、このあたりの醜く、生きるのに必死な女ではなく、私たちの国の、優れていて、賢くて、精神的に自由な女性が、何もしなくてもあなたを求めてきます。はっきり言わせていただきますが……私もそのひとりです。私はあなたのその強さに惹かれているのです」

 一瞬罠か、と思ったが、その女の瞳孔は開いており、頬は紅潮していた。興奮状態にあるのは明らかで、おそらくそれは演技ではない。どちらかといえば、そういった本能的な衝動を理性で抑えようとしているようにも見える。

「……本があるなら、行ってもいい」

「本?」

「あぁ。女の国には、たくさんの本があるはずだ。学ぶべきことを、学ぶことができる。俺は……自分が何のために生きているのか、知りたいと思っている。そのためには、先人たちから学ばねばならない。しかし、この汚染された大地では、書物などどれだけ探しても見つからないし、見つかっても、そこに書かれている言語を読むことはできず、またそれを読むのに必要な資料もない。だがお前たちの国であれば、俺のわかる言語で書かれた本もあるだろうし、そうでない言語も、学んでいくための教科書があるのだろう?」

「……えぇ、もちろんです。しかし、何のために学ぶのですか? 私の知る限り……男性たちは、確かに勉強をしますが、それは男性同士の競争に勝つためであり、より多くの女性と交わるためです。あなたのように、すでに男性同士の競争に勝っていくだけの実力があり、多くの女性を獲得できる状況にある人間が、なぜそうした欲求を持つのか、わかりません」

「……他の連中は知らないが、俺にとっては競争も性も、人生のほんの一部に過ぎない。女にとっても、それはそうだろう?」

「えぇ。女は競争なんてくだらないことは最小限にとどめますし、性も、男性のように無際限かつ無節制に貪るのではなく、自らにふさわしい相手と、そうすべき時にだけ、優雅に楽しみます。それゆえに、私たちの国は豊かであり、平和であり、自由なのです。学問は、一種の暇つぶしであり、私たちにとって高級な娯楽です。知らないよりは、知っている方が心地よいですから」

「……女のそういう性質は、尊敬しているよ。この土地の女たちでさえ、男よりはずっと賢いと私も感じている。女の国の女たちは、あなたの言うように、幸福で優雅な者たちばかりなのは、私も知っている。それに対して男が、どこで暮らしていても乱暴で下品でくだらない生き物であるということにも同意しよう。だが……きっと、それだけではないはずだと、私は思っている。それを証明するために、私はもっと学ばなければならない」

「……あなたの言うことはよく理解できませんが、しかし……理解できずとも、尊重されるべきことのように感じさせる何かがあります。いいでしょう。あなたの望みを最大限叶える努力をいたします。私についてきていただけますか?」

「あぁ……私も、いつかはあの国との関係を、はっきりさせなくてはならないと思っていた。これはいい機会なのだろう」


 施設に入って初日、自らの部屋に案内される際中、通りがかったがたいがよく、私より一回り年上の男が、道を譲らず肩をぶつけてきた。

「おい」

 私は振り返って毅然とした態度でその男をにらむ。

「ぶつかってきたんだから、謝れよ」

 これは原始的な男性社会におけるひとつの儀式だ。対応によって、相手の男の格を計っている。

 正しい判断は……

「あとでな」

 そう言って、一瞥して手を振る。正解は、相手を試すことだ。もし自分が試されたなら、行動を保留にして先延ばしにし、相手に新たなアクションを迫ること。相手が何もしてこなかったらよし。何かをしてきても、自分は必ず適切に対処できる。そういう自信であらわれだと、周囲の人間は判断する。

「男というのはやはり理解できない生き物ですね。なんであんな意味のないことをするのでしょうか」

「隣を歩いているエージェント、アリサはそう言って侮蔑の眼差しをこちらをにらんでいる大男に向けた」

「別にあんなことをしても、私たちにモテるわけないのに」

 そう言って、廊下に死角のないように設置された監視カメラを見る。

「相手が謝るかどうかを見ているんだ。もし謝るような人間なら、それすなわち、どんな理不尽なことをされても、一番楽な形でしのごうとする、いわゆる長いものに巻かれる性格だというのが明らかになる。そういうやつは、無能ならいじめられ、有能なら部下にできる。激昂するやつは、プライドが高いやつ。無能なら、関わらない方がいい。有能なら、場合によっては下につくつもりでいる。そういうメカニズムなんだ」

「ふぅん。それをして何になるんですか?」

「それをして、できるだけ変化していく環境の中で、高い地位を得ようとする。それが男という生き物だ」

「空しい生き物ですね。私ならくだらないなと思ってすぐ謝っちゃいますが」

「そうしたいのはやまやまだが、そうするなと言われて育ったんでね」

「どういうことですか」

「私は、外の世界に放り出されてから、二回だけ人に謝ったことがある。一度は、私を拾って育ててくれた養父の大切にしていた剣鞘を勝手に触っているのがバレて、怒鳴られたとき。それはなくなった妻が彫ってくれた形見で、誰にも触らせたことのないものだったそうだ。殺されるんじゃないかと思うほど激昂して、俺は必死になって謝った。養父は落ち着いたあと、私に『謝るな』と言ってもう一度叱った。謝るということを、ただその場をしのぐためや、相手の怒りをしずめるために使うなと言った。それ以上は何も言わなかったが、私はそれ以来、自分に少しの非があっても謝らず、黙って対価を払うか、あるいは敵対するかを選ぶようになった」

「……二回目は?」

「二回目は、私の家族ともいえるような友人が、私の所属していた組織の頭の娘を手にかけたときのことだ。私は友人をこの手であやめ、その首をもって頭に謝罪した。頭は俺の頭を踏みつけにしたが、命も手足も取らずに俺を許してくれた。だが、他の仲間たちは全員殺された。謝ったやつも、謝らなかったやつも。その頭に頭を下げたことのない人間が、私しかいなかったからだ」

「……あなたは、本当に厳しい世界で生きてきたのですね。この施設では、確かに時には暴力はありますが、命のやり取りまでは通常行われないので、安心してください」

 たとえ命のやり取りがなくとも、精神にかかる負担にそう大きな違いはないと私は思ったが、その違いがわからないのが、女という生き物なのだと思って、肩をすくめるにとどめた。

 男にとって、競争は常に命がかかっている。だからこそ愚かでいる必要があり、それゆえに文明を保つことができない。

 だからこうして、この世に残った唯一の文明は、女たちだけの社会によって成り立ち、私たち男はその女に飼われることでしか、安全な暮らしを送ることができないのだ。



「おいお前、外の世界から来たらしいな」

 今朝肩をぶつけてきた男は、食堂での昼食の際に、なれなれしく近寄ってきた。思っていて通りのタイプだ。基本的に友好的で、積極的。あまり過去にとらわれず、ものごとを直線的に捉える。部下にすれば使いやすい優秀なタイプだ。

「あぁ」

「だったら、ここの飯は驚くほどうまく感じるんじゃないか? 俺の知る限り、はじめてここに来た連中は、豚みたいに飯にガッツいてばかりだぜ」

 確かに、外の世界には、そもそも料理という概念がほとんど存在しない。食えるか、食えないか。もちろん、ある程度の地位と金を持っていれば、えり好みはできるが……だが、あくまで食材を選べるだけであり、それを適切に調理したり味付けを行ったりはできない。せいぜい内陸では高級品である塩をかけて食べる程度だ。

「……うまいな」

 知っていること、とはいえ、十年ぶりに食べた文明の成果は、予想していたよりもずっと私の本能的な部分を刺激し、その男が言うように、必死になって理性をはたらかせていることでそうなってはいないが、家畜のように頭ごと皿に突っ込みたい衝動に駆られた。

「お前……プライドが高いタイプか」

 面白いものを見損なって残念だというように、隣の大男は言った。深呼吸してあたりを見渡すと、ずいぶん注目されているようだった。

 私は食器を離し、両手をあげて、カメラの方を見つめた。

「たとえ、どれだけ理性的で、強い男であっても、本能には抗えない。女性ならきっと、別に理性をはたらかせる必要もなく、上品に食事を行えただろうな」

 そう言って、女という種族を褒めたたえた後、俺は自らの理性を引っ込めた。そうして、素手で用意されたステーキを掴み、野獣のように口に運み、食いちぎった。

 そう。外の世界でそうしていたように。となりの大男に、すばらしい配合によって整えられたソースの雫が飛び散って服を汚したが、気にせず、大笑いしている。他の者たちも、一瞬驚いたのち、私の豹変を楽しみ、笑い、そのうちの何人かは私と同じように、昔の自分がしていたような、外界流の食事を行った。


 すべて平らげた後、俺は食器を整えて、手を合わせた。外の世界にはない文化。十年ぶりのことだ。

「ごちそうさま」

 そう言って頭を下げた。

「ん? それは女たちの文化だろう? いや、今の外の世界では、それがスタンダードなのか?」

「ここに来るときに、美しい女に教えてもらったんだ。こうするのが、礼儀正しいんだろう?」

 そう言って、女を揶揄するように、揃えていた手を離して、胸の前に手で重たいものを持って揺らすような下品な仕草を行うと、男たちは何がおかしいのか、手を叩いて大笑いした。

 こうやって、自分には人を楽しませる技術があるのだと証明することが、生き残るのに重要なことだった。きっと、女にはわからないことだろう。



「失望したか? アリサ」

 私の部屋、もとい牢屋にエージェントを招きながら、そう言った。

 この国では男は人として扱われない。だが、外の世界のすべての人間よりもよい暮らし、よい寝床が保証されている。寝室とリビングが、それぞれ狭いながらもしっかり壁と扉で分けられていて、トイレもシャワー室もついている。椅子やテーブルといった最低限の家具もある。

「……意外ではありましたが、別に。あなたは男性ですから」

 そう言いながら、アリサは服を脱ぎ、その白く柔い肌をあらわにする。そう。この牢屋がこんなに清潔なのは、定期的に女性たちが抱かれたい男の元に訪れるからだ。男性側に、拒否権はない。女性側の方も、人気の男性を選ぶと抽選や順番待ちがあるようだが、詳しいことは知らない。

「ここに来て最初の仕事だと思いますが、緊張していませんか?」

「……少し」

 自分の体が少しこわばっているのを感じていた。性行為の経験自体は何度かあるが、多い方ではない。それに……正直に言えば、あまり自信はなかった。外の世界では、何度か失敗を経験していたし、毎回毎回全力を尽くして、問題がないように済ませられるか不安を覚えていた。

 他の男たちの中にも、自分と似たようなプレッシャーやストレスを感じているものもいるにはいるが、少数派ではあった。

「まぁ、私に任せてください。体を楽にして」

 そう言って、裸になったアリサは俺をベッドに押し倒して、俺のシャツの裾を掴んで持ち上げた。



「……よかったですか?」

 俺は首を横に振った。違和感があった。肉体的な快感はある。本能が刺激されて、正常に行為は終わった。相手を喜ばせる努力も、空しかったわけではないと思う。アリサも何度か絶頂を迎えており、熱くなった肌から汗などの体液が蒸発して、少し湯気が出ていた。顔はまだ少し紅潮していて、瞳孔は開いている。

「まだ君はしたりないようだけれど」

「いえ、満足するまで貪るような性格ではないので、今日はもう十分です」

 アリサは何度か瞬きした後、体を起こして服を再び気直していた。何事もなかったかのような顔色に戻る。

 こういうのは、外の世界もここの世界の女も変わらない。男はいつだって、始まる前に終わった後も、行為のことにばかり引きずられるのに、女性はもう次の行動のことを考えている。

「今の行為は、多くの外の『人間』たちに見られているのだろう?」

「まぁ、はい。嫌でしたら、次以降は私は非公開の申請を出しますが」

 当然のことながら、それが公開されるか否かを選択するのは女性側だ。

「いや、別にいい」

「不安にならなくても、けっこういい内容だったと思うので、他の女性からも求められると思いますよ?」

 言葉にならないいがいがした感情がこみあげてきたが、俺はそれを伝えるすべを持たなかった。

 性行為をするたびに、毎回違った不快感と違和感を感じる。だから俺は、この活動が好きじゃない。しかし、しないでいることは難しい。体がいつもそれを求めているからだ。

「いろんな女性とセックスできるのは、あなたと言えども嬉しいでしょう?」

 怪訝な顔をして、アリサは俺の顔を覗き込んだ。

「それとも、私の体に何かご不満が?」

「いや、君の体は今まで抱いてきたどんな女よりも具合がよかったよ。気にしないでくれ。俺は少しおかしいんだ」

 アリサは少し考え込んだのち、顔をあげて、笑顔を見せた。かわいらしく、年相応の、若く輝きのある笑顔だった。

「あなたは魅力的な男性ですよ。私が今まで会ってきた中で、一番。こうやって、自分が連れ帰ってきた男性に、初夜権を行使したのは初めてですから。自信を持ってください。ほら、顔をあげて」

「初夜権?」

「えぇ。私たち外界で働くエージェントには、新入りを真っ先に抱く権利があるんですよ。まぁ、めったに使われるものではありませんが」

「外の世界じゃ……その権利は、もっと気持ち悪いものだが」

「知っていますよ。でも私たちからすれば、婚姻制度自体が気持ち悪いので、別に気にしません」

 婚姻制度。一組の男女が、他の人間とは基本的には交わらないという契りを交わす制度。外の世界は一般的なものだが、この女の国では唾棄されている。女たちはすべての男たちを共有財産として扱う。子供もそうだ。そもそも、この国の女たちは妊娠したらすぐに子宮を取り出してしまう。自分の親が誰かなんて、誰も知らない上に、近親相姦を避けるために生まれてきた子供は両親のどちらとも違う区域で育てられる。

 だが、時には俺のような例外も生まれる。他の例外を見つけたことはないが。


「おいエノク! 寄こせ!」

 アレックスが手を挙げている。もう何度か指示に従っているが、今のところあまりうまくいっていない。勘ではあるが、もう少し前で待ってもらえれば、私が敵をもう少し引きつけて……

「おい何やってんだ!」

 考えている最中に、背後から迫っていた敵に気づかず、タックル受けてしまう。体格にはそれほど恵まれていない。ターンオーバー。敵の手にボールが渡ってしまう。

「もう少し前で待ってくれ」

 起き上がって、アレックスにそう言った。

「俺のポジショニングが悪いってか? 初心者のお前が、俺に指示出すのか?」

「お前はここでの生活しか知らないだろうが、私は外の世界では500人の兵を統べる指揮官だった。頭を使うのは、明確に私の方が上手だ。従え、アレックス。勝ちたいなら」

 そう言ったあと、アレックスの耳元でささやく。

「区域対抗戦で得点王になれば、別の区域の女からも求められるかもしれんぞ。私に任せてくれ。お前を英雄にしてやる」

 そう言って、体を硬直させたアレックスの背中を思いっきり叩く。

「いてぇ! クソ。本気で殴りやがった」

 アレックスはぶつくさ言いながら、先ほどよりも奥に陣取った。


「ウィリアムはもっとライン際。イエルはアレックスと一緒に攻めろ。カイル、お前が穴になってる。引いて、敵のグエルグにつけ」

 アレックスが従えば、他の連中も従う。この区域には45人の男性がいるが、その中での有力者は、アレックス、カエサル、グルザルの三人で、このクエットボールという競技をやっているのは三人の中でアレックスだけだ。来週、クエットボールの区域対抗戦があり、私はアレックスに試しにやってみないかと誘われてやってみると、案外深みがあって面白い競技だと感じ、毎日のように取り組んでいる。


「アレックス。新しい戦術を思いついたんだが」

「すっかりハマったみたいだなぁエノク」

「私も男だ。争いがあるなら、勝たなければならない。アレックス、お前は意外に頭が回る。私が皆に作戦を伝えるよりも、お前が理解してかみ砕いた内容を皆に言った方が、伝わりやすいだろうと思う」

 そう。誰かを支配するためには、まずは頼みごとをする。それをエスカレートしていって、最後には命令にしていく。その連鎖を、能動的に作っていく。そういう習慣が、人に高い地位をもたらす。

 決して謝るな。従うことと、従えることのバランスを保て。養父の教えだ。

「だいたいお前がどういう人間かわかってきたぞ、エノク。お前は野心家で、女や富や快楽よりも、苦しむことや耐えるのが好きなマゾ野郎だ。他の連中もそう言っていた」

 私はその侮辱に一瞬腹が立ったが、すぐには反応しないよう心掛けた。意図的に怪訝な顔を見せる。今はまだ、完全にこの男より上位の立場にはない。怒りをぶつけても、効果はないだろう。

 いずれは、こういうことを言ってきたやつを殺すこともできるようになるかもしれない。そう思うと、この暮らしの中で絶対的な権力を手に入れるためのモチベーションになるような気がした。



「私も学生のころ、クエットボールの選手だったんですよ。あなたがやってるの見て、なんか懐かしくなっちゃった」

 アリサは私の頭を膝に乗せ、撫でながらそう言った。

「……女も競技をやるのか?」

「少数派ですけどね。それに、見るほうが好きって人ばかりです。あぁそういえば、区域対抗戦でのあなたの活躍を期待している人は多いそうですよ? 同僚が言ってました」

「そうか」

「あと、あなたへの性交願い届けの受理と順番整理が始まりましたよ。あなたの体への負担が大きくなりすぎない程度に、定期的にいろんな女性があなたの部屋に訪れるようになると思います」

「あぁ」

「楽しみじゃないんですか?」

「いや、正直……私はセックスがあまり好きじゃないから」

「……そうですか」



「こんばんは」

 アリサ以外のはじめての女が来る日だと告げられていた。

「どうぞ」

 私は緊張していたが、それを悟られまいとソファに座って顔をそむけたままそう言って、隣を勧めた。その女は無言で私の隣に座った。相手が何か言うまでずっと黙っていようと思っていたが、その女は身じろぎせず三十分間何も言わず、私はしびれを切らして口を開いた。

「お名前は?」

「エキドナ」

 記憶が、急に蘇ってきた。


 子供のころは、めったに外に出してもらえなかったが、時々家から抜け出して近所の公園に遊びに行ったことはある。学校帰りの女の子たちが遊んでいて、別の学校から来たと偽って一緒に遊んだこともある。だいたいはごっこ遊びだったり、流行っている舞台やドラマの話をずっとしていたりしていた。

 ある、ひとりの少女がいた。憂いを帯びた目をしていて、いつもひとりでブランコに揺られていた。

 ある夕暮れ、砂遊びに飽きて、ふと私はその子に話しかけた。

「いつもひとりでいるね」

 その子は、私をじっと見つめると「あなた、不思議だね」と言った。

「見たことない感じ」

 男性であることがバレたのかと思ってドキッとしたが、どうやらそういうわけではなさそうだった。

「本、好き?」

 イーナはそう言って、服の中から一冊の文庫本を取り出した。エキドナの腹、というタイトルだった。

「まぁ、好きかも」

「私は嫌い。全部嘘っぱちだもん」

 そう言って、本をブランコの下に少し溜まっていた水たまりに落として、踏みつけ始めた。

「あぁ、スッキリした。君もやってみる?」

 そう言って、座っていたブランコから降りて、私を見下ろした。その子は、当時私より身長が一回り大きくて、少し威圧的な印象があった。

「うん」

 私はその、知らない本を踏みつけた。ページがやぶれ、インクが水たまりに滲んでいた。



「イーナ、なのか?」

「うん。よく覚えていたね」

「ということは、私の正体はもうすでに世間に……」

 イーナを口に指をあてて、黙るよう言った。

「誰にも言ってない。私は、一目見てわかったけどね」

 そう言って、なまめかしくウインクをして、私の腕にその細い指で触り、這わせた。

「きっと、この世界には運命っていうものがあるのね。あなたはとても人気だったのに、偶然私がその最初の行為の権利を得るなんてね」

 幼き日の、イーナとの思い出が次々と蘇ってくる。ふたりで、立ち入り禁止の山の中に入ったこともあった。保護区である草原で、草食動物に一緒に餌をあげたこともあった。太陽を体中で浴びて、ふたりともひどく日焼けをして、その姿を笑い合ったことも。

 お互い本をよく読むのに、本の話は全然しなかった。外の世界では、本を読む人間なんてまずいないから、私はそのことを何度も後悔し、思春期には、イーナみたいな人がいないかと外の世界で探したこともあった。

 イーナが私のボトムスのゴムに手をかけた時、私は反射的にその手を払ってしまった。

 イーナは驚きのあまり目をかっと開き、私をまっすぐ見つめた。

 反射的に謝りたい衝動を感じた。すまない、と。だが、私は自分で首を横に振った。

 私はイーナの手首を掴み、彼女の顔をにらんだ。幼き日の面影が残っている。私は彼女に恋心は抱いていなかった。唯一の、心を開くことのできる友人であり、私の閉ざされていた孤独な心に可能性を感じさせてくれた対象だった。

 その、化粧のせいで自然とはいえない真っ白な肌を見て、その下の、厳重に隠されているであろうそばかすの跡の予感に、私の中のイーナは、実在するイーナとは異なる、単に私の頭の中で理想化されただけの存在なのだと思い知った。

 目の前にいるのは、ただの女だ。私は自分にそう言い聞かせて、心の中に出てきた失望と、それと同時に生じていた現実そのものに対する怒りを、情欲に変換しようと決意した。

 アリサの時とは逆に、私がイーナを無理やりベッドに連れていき、押し倒した。最初こそ戸惑っていたが、イーナはすぐに体を渡しに委ねた。暗ければ、そこにいる女が誰かなんて関係がない。それが、イーナであることを忘れてしまえれば、不快感はない。性感に身を委ねてしまえばいい。

 私はそう思っても、都度目の前の女がイーナであることを意識し、そのたびに幼き日の憧憬がフラッシュバックした。そのたびに、その痛みを暴力と性に結び付けて、再び自分を励ますしかなかった。それゆえに、いつもの私よりもその行為は乱暴で、時にはイーナの首を絞めたいという激しい欲求にかられたが、私はその細い腕に爪を立てることや、その首筋を軽く噛むことで、その欲求を抑えた。

 不快な話だが、私が暴力的になるほどに、イーナは乱れた。獣のように激しくあえぎ、体を痙攣させ、時には嬌声をあげた。

 どれだけ過去にお互いを精神的なものとして認めあっていたとしても、結局この場では、二匹の獣に過ぎない。そうだろう? そうでなくてはならない。

 あぁ。

「エノク」

 すべてが終わった後、傷だらけのイーナは、なぜかひどく穏やかな顔をして、私の頬を撫でていた。私の意識は朦朧としていて、何も言う気にはならなかった。

「あなたはきっと、私には想像できないほど多くのものを見て、感じてきたのだろうね」

 その声は、大人の女の落ち着いた声だった。まるで……幼き日に、母親が泣きだした私をあやしていたときのような、そんな声。

「お互い様だろう」

 イーナは何も言わず、首を横に振って、体を起こした。その足元は少しふらついていて、思わず駆け寄ろうとしたが、自分の体も、うまく力が入らず、少しよろけてしまう。

「大丈夫だよ。ひとりで帰れる」

 そう言ったあと、イーナは足早に寝室の出口に向かった。背を向けたまま、「多分……次は、早くても二年後になると思う」と言った。そして、最後に一瞬だけこちらを見た。その顔は……どこか寂し気だった。


 通常、性行為以外の場面で男女が関わることは禁止されている。恋愛と子育て。ふだんは理性的で平和的で女だが、この二つと関わるとほぼ例外なく豹変する。恋のためなら平気で己をなげうって時に破滅的な行動に出るし、我が子のためなら平気で社会的ルールを無視し、時にはヒステリックに感情を爆発させる。

 それは、自分の母を見ていても、外の世界の女たちを見ていても、火を見るより明らかだった。この女の国では、すべての女は、そのふたつから厳重に隔離されている。男はあくまで、女の娯楽の道具であり、人と人としてかかわるべきものではない。そういう考えが正しいとされているが、それでも、時には禁断の恋愛といったものが起こるし、それゆえに大きな事件や暴力沙汰が引き起こされることもある。

 アリサから聞いた話だが、私が生まれる数年前に、ある区域で、一部の女性のグループが愛している男性を解放するためにゲリラ的な戦闘活動を行っていたらしい。驚くべきことに、そこに思想的な目的はなく、魅力的な男性のみを対象とし、それ以外の男性はそのまま閉じ込めておくべきだと主張していた。

 アリサは、私利私欲にまみれた、愚かなふるまいだと言って笑った。人間であるなら、我慢と節制はするべきだし、それが難しいなら制度によって縛られるべきだ、とも。

 もっとも、非常に優秀な彼女は、しようと思えば外界の男性と恋愛することが可能な立場にある。自らの欲求を抑えることに関しては、きっと並々ならぬ努力と訓練のたまものではありそうだと思っている。


 面会室に呼ばれて、アリサと向かい合う。ここにはカメラがない。いや、正確にはカメラはあるが、非公開情報となっている。

「お知り合いだったんですね。すごい偶然」

「誰か事情を知っている人間が仕組んだんじゃないかと私は思っている。君か、あるいは私の母か……他にも何人か、思い当たる人間がいる」

「私ではないですよ? そもそも私はあなたの幼少期についてそれほど詳しい情報にはアクセスする権限がありませんし」

「……待て。つまり……この国は、君が知っている以上の私の情報を持っているということか?」

「えぇ。当たり前ですよ。この国は監視社会ですからね。檻の外も、カメラだらけです」

「じゃあなんで俺は生かされたんだ?」

「さぁ? 偉い人たちの考えることはわかんないですよ」

「偉い人? この国では、女たちは平等だろう?」

「理想や理念としてはそうですが、実際には違いますよ。外の世界よりは明らかに差は少ないですし、最底辺であってもよい暮らしはできますが、しかし上を見ればキリがないという点では、下手すると外の世界よりもそうかもしれません。まぁ、ある区域では、高い地位の者だけ集められて、男を自分専用に囲って、自分で子供を産んで育てている、みたいな陰謀論がずっと言われているくらいですから。あ、ちなみにこれは嘘ですよ。私は一応全部の区域を見て回ったこともありますし、この国のトップの人とも会ったことがありますが、そういうことするタイプの人ではなかったので」

 少し考えた後、アリサがいつもより少し早口で、興奮気味であることに気づいた。

「今日はいつもよりよくしゃべるな」

「そうですか? もともとおしゃべりな方だと思いますが……あぁ、思い当たる節はありますね」

「なに?」

「嫉妬ですよ。私の時は、あんなに激しくなかったのにな、って。でも気にしないでください。あなたに関してはどうせ私の順番はもっと後ですし、私も私で別の人との予定が近いんで。あ、不快になりました? ふふ」

 そう。恋愛が絡むと、女は少しおかしくなり、意地悪にもなる。

 私は肩をすくめて「こりごりだよ」と言った。



「はぁ~久々に女にありつけたと思ったら、おばさんだったわ。ついてねーなー」

「おばさんって、どれくらいのおばさん?」

「四十くらいじゃないかな。化粧でごまかしてたのかな。顔はけっこう若くて三十くらいかなって思ったけど、体はごまかせないよな。なんか全体的にかさついているというか」

「逆にそれがいいってもの好きもいるよな。テクニックがどうのとか」

「女は若けりゃ若いほどいいだろ。体の張りもいいし、反応も初々しくて楽しい。だろ?」

「かもな」

「おいエノク。お前もそう思うだろ、女は若い方がいい」

 図書館でも騒ぐ奴はいる。まぁ、本は持って帰って自室で読めばいい。そう思って本を探していたが、声をかけられて私は少し困った。別に話すことが悪いとは思わない。ただ、このような空間で下劣な連中と女の話はしたくなかった。

「そう思うから、若い女に気に入られる方法が載ってる本を探してんだよ」

 考えた挙句、そんな嘘をついた。

「勉強熱心だね~新入り。見つけたら教えてくれよ」

「自分で探せ」

 そう言って書棚に目を移してすぐ、目当ての本を見つけた。

 アリストファネスの、女の平和。三千年以上前に書かれた物語。昨日抱いた女は、古典文学の研究者で、そいつが今研究している話だ。あらすじを聞いて、興味を持った。

 大崩壊を経て、人類は進歩したものとしなかったものに二分された。女性の、さらにそのほんの一部だけが、世界を壁で囲い、女だけの平和で満たされた世界を作り上げ、その中で新たな文化や人間の可能性を追求している。反面、壁の外では、科学技術などほとんどなかったころの暮らしがそのまま営まれている。地域によって異なっており、多様性といえば聞こえはいいが、実際は原始的な、その土地に根差した「動物」としての人間がいるだけ。

 私も、つい先日までその中の一匹だった。今は……いや、今も、人に飼われるようになっただけで、同じ一匹だ。彼女らからすれば、人間を理解しようと努力している健気な犬ころのようなものだろう。

 彼女らが私のことを愛すのも、きっとそのような愛なのだろう。


「……どうぞ、エレナさん」

 部屋に入ってきた少女を見て思ったことは、小さいな、というシンプルな印象だった。少しかがんでみても、その子の目は前髪に隠れていて、その上こちらが覗き込むと怯えたように下を向くから、なおさら目が合うことはなかった。口は堅く結んでいて、頬は紅潮して、肩は震えていた。

 外の世界に所属していたとき、大規模な宴会にいた娼婦のひとりが思い出された。ちょうど彼女くらいの背丈で、ひどく緊張しながら、私の養父の杯に酒を注いでいた。おそらく、はじめての経験だったのだろう。

「君、経験は?」

 私はしゃがみこんで、うやうやしく頭をさげて、震える彼女の手を取って、そう尋ねた。あまりに合わない笑顔を向けながら。

「け、経験は! えと……ありません」

 声量が安定しない。緊張しているからか、それとももともとそういう性格か。

「大丈夫。どんな人間でも、はじめてということはある。私も最初はひどく緊張したものだ」

 そう言いながら、はじめて性交を行った相手のことはすぐに思い出せない。おそらくは十二か三のころ、兄貴分に娼館に連れていかれたのが最初だと思うが、当時は何もかもがはじめてで、濁流に流されていくような感覚で、なんとかその日々についていくのに必死で、ひとつひとつの出来事を記憶するような余裕はなかった。

「そ、その……私、ほんとはそんなつもりなくて……友達が、もったいないから行けって言うから。でも、ほんとは怖くて……」

 そのとき、はじめて目があった。その目は涙で滲んでいて、見ているだけで胸が苦しくなるような、そんな訴えかけてくるようなものだった。

「……なるほど。つまり……私のような男は、本当は好みではないんだな?」

 あえて、冷たく、突き放すように言った。率直さを求めるなら、自らも率直でなくてはならない。そういう、シンプルな動機で。

 少女は、少し考えた後、首を振った。

「わかりません。本当は、男の人も……その、セッ、セックスも、あまり興味がなかったので。でも、そういう年齢になったし、みんなどんどん経験していくし、置いていかれたくなかったし」

「わかったよ。とりあえず、そこに座って。ゆっくり話しながらどうするか一緒に考えよう」

「はい。ありがとうございます」

 頭を深く下げる。男に対しては珍しい仕草だが、それは教育によってそうしているというよりも、本能的にそうしているような印象だった。

 男は生まれつき礼儀というものを必要とするほどに野蛮だが、女性はむしろ、何も教えられなくても自然と礼儀正しい所作を行うことがあるのかもしれない、とふと思った。

「少し落ち着いた?」

「あ、はい。すみません。取り乱してしまって」

「いや、いい。そういう人もいる」

「そうなんですか……でも、男性と会って性交を行わなかったら、ペナルティがあるんじゃ」

「それに関しては私はよく知らない。君の方が詳しいんじゃないか?」

「……三か月、男性と性交を行う権利が失われ、その後も抽選が少し不利になるはずです。どれくらい不利になるかはわかりませんが……」

「まぁ、君はまだ若いだろうから、それほど影響はなさそうだが」

「まぁ……はい。わかりませんが」

 気まずそうにもじもじしている。多少緊張はほぐれたようだが、あまり居心地はよくなさそうだ。

 ちなみに、男性側にもペナルティはある。この子は詳しくないようだが、自由時間が制限され、しばらく女性との性交に制限がかかる。噂によると、年のとった女があてがわれやすくなるとのことだが、アリサによるとそういう操作は行われていないらしい。

「しかしまぁ、君が嫌がるなら仕方がないが、私としては君を抱いてみたいとは思うよ。君は美しいし、とても若い。それに、君のように不慣れな女性を導くのは男性にとってはとても楽しいことなんだよ」

 そう言って、私はひざを少し彼女に向けた。もしこれでも怖がるようなら、今日はもう終わりだ。多少のペナルティは甘んじて受けよう。

 エレナは、顔をあげて、こちらをじっと見た。まるで、見定めるように。私は少し気まずくて、反射的に目をそらしてしまう。そのあと、もう一度目を合わせて、照れくさくて笑った。そんな私の仕草がおかしかったのか、エレナははじめて少し笑った。そして、私の方に手を伸ばして、私の顎を撫でた。

「少し、ちくちくするんですね。友達の言ってた通りです」

 意外と好奇心は旺盛なタイプなのだな、と思った。私は彼女の肩に手をまわした。抵抗はなかった。私はそのまま抱き寄せて、密着したまま、私は手をあげて、言った。

「エレナさん。今日に限っては、私は君のものだ。好きなようにしてくれ。いろいろ想像してきてはいるんだろう?」

「……いいんですか?」

「あぁ」

「男性は、女性を押さえつけて無理やりするのが好きだと聞きましたが」

「女性も、そうされるのが嬉しいのだと言っている馬鹿な男もいるな」

「違うんですか?」

「人による。どちらにとっても、それだけだよ」


「あの、その、すごかったです」

 一通り終わった後、裸のエレナは、頬を赤らめ、乱れた前髪をかき分けながらそう言った。最初の、おどおどした印象はなく、まだ背丈は小さかったが、すでに精神的には十分成熟した女性なのだと印象をあらためていた。

 はじめのうちは消極的に私の体をまさぐるだけだったが、少しずつエスカレートしていき、次第に私にどうしてほしいのか言ってくれるようになった。行為がはじまると、私に身を任せたがるような仕草をしたので、いつも通り私がリードして、いつもより入念に前戯を行ったのち、休憩をはさみながら私が三回射精するまで行為に及んだ。エレナに痛みはないようだったが、あまり感じてもいなかった。ただ、はじめての強い刺激には少し戸惑いながらも、楽しんでいるようだった。

「私、変じゃなかったですか?」

 正直に言えば、処女なのに痛みがほとんどなさそうなのは違和感があった。ただ、この国の女性たちは、外の世界の女性たちよりも行為に対する知識がもともとあり、おそらくは痛みを感じづらいような処置を行ってからこの部屋に来ている。だから、それ自体はおそらくおかしいことではない。

「あぁ、とても満足したよ」

 満足。自分で言って、胸に鈍い痛みがある。窓の外をふと眺める。遠くには、小さく壁が見える。確かに、性欲は満たされている。美しい処女を抱き、肉体は健康的で、それがあと何十年も続くことが約束されている。

 でもそれだけだ。この子とも、あと何回か会うことはあるかもしれないが、それだけだ。空しさ。

「あ、あの……」

 エレナは、ぱっと手を広げて、私に小さな青いイルカのペンダントを見せてきた。

「その、これ、受け取ってもらえますか?」

「プレゼントは禁止されていると思うけれど」

「でも、友達は受け取ってもらえたって言ってて」

 私は唇を噛んだ。恋愛に繋がるような行為は基本的にすべて禁止されている。プレゼントを贈ることも、受け取ることも、だ。発想としてそもそもそういう考えが生じないように、規則には明記されていないが、やってはいけないことだ。

 ただ、彼女のように若くものを知らない娘が知らずにそういうことをすることがある。そういう時にどうなるかというと……別にどうということはなく、その贈り物が廃棄されるだけだ。そしてその廃棄される映像を、その娘があとで別室で見せられる。そうしたら、もう二度とそんな空しい行いはしなくなる。心に傷を残して。

「受け取れない。受け取ったら、私は君から受け取ったものを皆が見ている前で捨てなくてはならなくなるし、君もそれを見なくちゃいけなくなる」

「……でも友達は」

 非常に小さい物品を、行為の最中に口の中や尻の中に隠すことで切り抜ける奴もいる。食べ物だったら、その場でなくすことができるし、そういう形で潜り抜ける者もいて、馬鹿なことだがそれを男同士で自慢し合ったりもする。

 意味はない。ほとんどの場合はバレていながらあえて見逃されているし、たとえバレずに隠し通せたとして、それがいったいなんだというのか。

 私は彼女の手の中のペンダントを取って、キスをした。

「ありがとう。大切にしたいけれど、この場所ではそれは難しい。だから、これは私のものだけれど、君が預かっていてほしい」

 そう言って、彼女の手の中に返して、その拳を元の通りに握らせた。

「……はい」


 監視カメラのついた通路を歩く。道中、今日の昼食の献立の話をしている者たちがいた。楽し気で、平和だった。

 もう一組、男性同士でキスをしている者たちも見かけた。ここじゃそう珍しくないものだ。女性の中にも、そういったものを見るのが好きなものもいる。

 漠然とした不安を感じる日だった。空気はじめっとしていて、おそらく外は雨が降っている。

 アリサは眼鏡をかけてぱらぱらと資料をめくっている。監視カメラのない、特別な面接室。

「エノクさん。そろそろ区域移動の時期です」

 眼鏡をはずして、そう言った。

「目が悪いのか?」

「若干遠視なんです。眼鏡かけた方が楽なんですよね」

 それまで、資料に目を通すときでも、眼鏡をかけているのを見たことはなかったから、少し不思議に思った。どのような心境の変化なのだろう。

 沈黙からそういう疑問を感じ取ったのか、アリサはため息をついてから、言った。

「あんまり似合ってない気がするんですよね、眼鏡」

 そう言ってもう一回かけ直して、こちらを見る。

「男性からの印象が悪いんじゃないかと思って。それに、なんというか、近寄りがたくないですか?」

 つまり、第一印象を意識する必要がない程度には、私と打ち解けてくれたということだろうか。もしそうなら、少しだけ嬉しいと思った。

「いや」

「ふむ。まぁいいです。それで、区域移動の話です」

 区域移動。半年に一度、だいたい全人口の0、5パーセントから1パーセントが、別の区域に移される。希望制で、女性側にも男性側にもある。

 ただ、問題を起こした人物や、問題になりそうな人物は、個別でやり取りをして、できれば無理やりでない形で区域移動を行う。

 自分の交友関係や環境に息苦しさや、場合によってはいじめが起きた場合の救済措置としての機能でもある。

「私も移動になるのか」

「おそらく、はい。ここに来てから二か月。私を除いて計16人の女性を抱きましたが、あなたに対して明確な恋愛的な反応を示した女性は13人です。また、その女性たちの中には、日常生活に戻ってからもあなたについて言及したり、ある種の執着をしているような仕草をしている者たちも見られます」

「つまり、このままこの区域にいるのは、いわゆる恋愛的リスクが高い、ということか」

「まぁ、そう判断されるでしょうね。でも私は問題ないと思っています。女性たちも、あなたも、ちゃんと規則を重んじていますし、その常識の範囲で活動しています。だから、区域移動になってもならなくても、あなたはこれまで通り、ごく自然に見ず知らずの女性と疑似恋愛を行って、喜ばせればいいと思います。女性を狂わせたり争わせたりしないかぎりは、恋愛は単なる娯楽の一種として日々の退屈さを紛らしてくれるでしょうから」

 疑似恋愛、という言葉に私は眉をひそめた。恋愛をするつもりもなければ、私がこれまで関わってきた女性の感情や精神に「疑似」という言葉はどこか侮辱的な認識のように思われたからだ。

「特に、あなたが三日前に抱いたあの子は、あなたに与えようとしたあの安っぽいペンダント、三日間離さず身に着けてるみたいですよ。友達にも、あなたとのことをあまり話しているそぶりがない。よくないですね、あれは」

「そんなところまで見ているんだな、お前たちは」

「そういう仕事なので。あぁそうだ。最近上司に確認が取れたんですが……エノクさんの母親は、あなたを産む前は、どうやら私と同じ仕事に就いていたようですよ」

 胸が、波立つのを感じた。立ち上がって、目の前の少し不機嫌そうな女性に圧力をかけて、もっと情報を引き出したい衝動に駆られたが、必死になって震える手で膝を抑えて、冷静なまま静かに座っている自分を演じた。

「……それを私に言うのは、それも仕事なのか?」

「いえ、私の個人的な活動ですよ。あなたが知りたがっていたので、調べてあげました。これが、私からあなたへのプレゼントですよ? どう返します?」

 そう言って、嫌味なのか純粋なのかわからない笑顔を見せるアリサ。自分での理由のわからない怒りを感じた。心を弄ばれているから? それとも、アリサが、結局あの小さな女の子を侮辱しているように見えるからか?

 私は、養父から怒りの使い方は教えられなかった。おそらくは養父自身が、あまり怒りを抑えられるタイプの人間ではなかったからだ。逆に私は、それを内に溜めこむタイプで、表現するのが苦手だった。

 私が黙っていると、アリサは、私に一枚の資料を渡してきた。

「この人ですよね? エノクさんのお母さんは」

 多くの情報が黒く塗りつぶされている。だが、その不鮮明な顔写真は、私の微かな記憶と一致しているような気がした。見ると、それだけでなぜか感情が高ぶり、愛しく感じる。会いたい。会って話したい。言いたいことはたくさんある。伝えたいことも。涙腺が緩むが、唇を強く噛んで、堪えた。

「……会わせてあげましょうか?」

「君にそんな権限はないだろう?」

「私になくとも、私の上司にはあります。そして私は上司に気に入られている」

「職権乱用だな。どうして私にそこまでしてくれるんだ? ……君こそ、私との疑似恋愛に夢中になっているんじゃないか?」

 そう言った瞬間、アリサは、狂ったような大声で笑った。少し、涙が出るほどに。

「あはは。はは。は……ふぅ。まぁ、私も年頃なんでね。誰しも欠点はありますよ。自分で見つけてきた、知る限り一番いい男を独占したいと欲望することは、まぁ自然なことだと思いますよ。それに、そういう男性の気を惹きたいというだけで、いくらかの越権行為と不正行為を行っている自分を見ていると、やはり女性は恋愛と子育てだけはしてはいけない生き物なのだと……証明しているような気分になります。ただ、面白いことに、私のこういう馬鹿げた行為は、上の人たちにとって一種の娯楽なんですよね。だからいいんです」

「どういう意味だ?」

「ここも、監視されているんですよ。この国に、カメラのない場所なんて少しもない。ただ、その監視レベルに差があるだけ。普通のカメラと、特別なカメラがあるだけ。ここにあるのは特別なカメラ。特別な、人間ドラマを見て楽しむための。多分十年くらいたてば、退屈なところはカットされて、商業用のドキュメンタリー的なものとして大衆の娯楽になるはずです」

 私はきょろきょろと、その狭い部屋を見回す。

「見つかりませんよ。考えてもみてくださいよ。技術的には、普段あなた方が活動している施設に取り付けられているようなあんな巨大で前時代的な監視カメラを使う理由なんてないんですよ。あれはあくまで、『あれがない場所なら見られていない』とあなた方に思わせるためのもの。おかげで、貴重な男性のプライベートなシーンまで、我々女性は見て楽しむことができる。同時に……私たち自身のプライバシーだって、いつだって侵害されうる。それが、面白いものであれば。都合のいいことに、女性にとって他の女性の生活なんて、面白いものじゃないので、そういうことはめったに起きませんが。あぁそうだ。例外はありますよ。たとえば……あなたの母親とか」

「……つまり、私の母は……いや、私の人生それ自体が……」

「誰かの娯楽として用意されたものかもしれませんね。知りたくなかったですか」

「いや」

 そういう可能性も、考えていないわけではなかった。ただそれが、いざ確定してみると、まるで自分の立っている場所が急に崩れ始めたような、そんな焦りや不安の維持混じったものが心を埋め尽くしていくようだった。

「区域移動、どうします? 移動すれば、しばらくは元の区域に戻れません。あなたを愛している女性は、あなたに会うことはおろか、あなたを見ることもできなくなります。もちろん、その方が彼女たちのためにもなるんじゃないかと私には思われますが。あの中に、あなたと結ばれる可能性のある子はひとりもいないので」

「うんざりするな」

 私は頭を抱えて、混乱し、暴走する思考を少しでも鎮めようとする。暴れても、ヒステリックになっても、意味はない。冷静に。冷静に。

 それだけがお前の取り柄だろう? 自分にそう問いかける。

 お前はいつだって、適切に動いてきた。何のために? 生き残るために。じゃあ何のために生き残ってきたんだ? こんな思いをするためか? すべて壊してしまえばいい。目の前の女の首を絞めて、殺して、そうして、自分は連中のおもちゃじゃないことを証明しろ。そうすれば、それは娯楽として使える映像じゃなくなるはずだ。そうだろう? このお前に歪んだ愛を向ける女は、お前が本質的に暴力的な男であるということを忘れている。それを思い出させてやらないか? きっとこの女はそれを望んでいる。殺さなくたっていい。何発かなぐって、軽く首をしめて、犯してやればいい。それで十分だ。お前は我慢していたものを解き放つだけでいい。誰がお前を責めるというのだろう? お前は男性として生まれたのに、それを隠して生きなくてはならなかった。そのくせ、外に放り出されて、急に男性らしい男性として生きるしかなくなり、それがようやくできるようになったと思ったら、こんないかれた見世物小屋に連れてこられて、連中の欲を満たすだけの道具になってる。こんな状況を許すのか? 許せるわけがない!

「エノクさん?」

「……母さんに会いたい」

 自分の口から出てきた言葉は、自分が頭で考えていたこととは全く異なっていた。目からは、熱い涙がこぼれていた。それは怒りではなく、悲しみと、恋しさの混じったものだった。

「……はい?」

「会って、話がしたい。私は……寂しい」

 恥ずかしかった。顔を背け、席から立ち上がる。部屋に戻って、本が読みたかった。この現実から逃げ出したかった。

 きっと私は……私の心は、まだ小さな子供だったころと変わらないのだろう。男性はみにくいが、きっと私は、まだそれにも満たない存在なのだ。男性として未熟で、それどころか、人間として未熟なのだ。ひとりでは生きられない。他の人間たちのように、秩序や規則にぶら下がって生きているふりをしているが、その実、自分を無条件に保護してくれる、たったひとりの人間を求めている。

 もしかしたら、子供を産むことを許されない女性たちは、自分の中のそういう幼さを感じ取って、代替的に愛しているのかもしれない。

 もしそうであるとすれば……私はどれだけ空しい存在なのだろうか。そうなるよう仕向けられて、自分ではそうと気づかず、ずっと価値のある、大人びた男性を演じている。

「エノクさん。上司に掛け合ってみます。あと、区域移動に関しては、どうします? 一応意向をはっきりさせてもらえると助かりますが」

「……どちらでもいい」

「はい。ではそう伝えておきます」

 私は振り返らず、その部屋を出た。誰にも会いたくはなかった。一刻も早くひとりになり、自分の殻にこもりたかった。

 けれど、夕方にはまた知らない女性が来る。名前は、ノア。19歳。また若い女性だ。肌は浅黒く、青い目をしている。

 肉体が期待してしまう。精神はこんなにも嫌がっているというのに。こんな姿も、隠すことができない。泣きながら、泣いていることを隠そうとして頭を下げて、早足で自室に向かい、自室についたら、布団にくるまって、声を出して泣く。子供のように。

 もういいだろう? なんだって。どうせ明日になれば、気分も変わる。状況は何も変わっていないのだから。

 次にアリサと会った時は、別に母親とは会いたくないと言おう。昨日は、腹が立ってついつい君を困らせるようなことを言いたくなってしまったのだ、と。醜くも、間違ったことを言ってしまった後悔で、恥ずかしくてこのようなふるまいをしてしまったのだと。

 そんな言い訳をして、この恥の上塗りを行おう。きっとそれも恥なのだろうが、今より私の気持ちは少しは楽になるだろうな。



「どうぞ、ノアさん」

 写真で見たよりも、ずっと肌が黒く見えた。その分だけ、その瞳の青が鮮やかに見えた。じっとこちらを見ていた。まるで見透かすように。私は自分の涙の跡を隠したい衝動に駆られたが、そんなことをしても意味はなく、むしろこの幼さや弱さがより滲んできてしまうように思われた。

 いつも通り。いつも通り。結局それが、一番傷つかずに済む。

「何かあったんですか? いつも見ているのとは、ずいぶん印象が違いますが」

 いつも通りとはいかない。そう。人は、私が繊細さを求めているときは鈍いのに、鈍感さを求めているときはいつも鋭いのだ。

「あなたには関係のないことだ。気にしないでくれ」

「まぁ、あなたがそう言うなら。私はただ自分の欲求を満たしに来ただけですし」

 そう言って、私を置いてひとり寝室に向かっていた。なんと抵抗もなく服を脱ぎ捨て。

「ほら、早く来てくださいよ。他の人たちにもやってたように、私を喜ばせてください」

 本当に19なのか、と言いたくなるほどに手慣れていたが、むしろ、私にとってはその方が楽だった。今は、人間であることが嫌だったから。


「下手ですね。もっと優しくしてください」

「すまない」

「なんでそんな悲しそうな眼をしているんですか」

「気にしないでくれ」

「じゃあ泣くのはやめてくださいよ。気が散ります」

「なら黙ってくれ。頼むから。私だって、集中したいんだ」


「この仕事、嫌なんですか?」

 すべてが終わった後、ノアはそう尋ねてきた。他の女性たちとは違い、もうすでに体の距離は他人の距離だった。

「これ以外に男の仕事はないだろう。だったら、好きになるよう努力するしかない」

「映像で見た時は、あなたもなんだかんだ楽しんでいるように見えましたが」

「楽しんでいるものしか公開されないんだろう」

「なるほど。他の男性もそうなんですかね」

「君は何の仕事をしているんだ」

「ん? 男性って、女性の仕事に関心を持ったりするんですか? はじめて聞かれました」

「見ての通り、私は少し変なんだ」

「素敵だと思いますよ。ちなみに、私はあなたと同じ仕事をしてます。女性を肉体的に喜ばせる仕事ですね。楽しいですし、天職だと思っています」

 どうりで、手慣れているわけだと得心がついた。

「じゃあ、本職の君から見て、私は本当に下手だっただろう」

「えぇ。でも、もっと上手な男性に抱かれたときよりも、妙に心が動かされましたし、それが適度な刺激になってよかったですよ。私も、もう少し研究してから参考にして実践に取り入れたいなって思いました」

 嫌味や皮肉には聞こえなかった。やはり私には、女性というものの心がわからないように思われた。

「それじゃ、お疲れ様。お互い頑張りましょう」

「あ、あぁ」



「申し訳ありません」

 アリサは、ひどく気まずそうな顔をしてそう切り出した。

「あなたのお母さんは、見つかりませんでした。どこかの区域で静かに暮らしてるだろうと思っていたのですが」

 なぜかはわからないが、私はアリサが嘘をついているような気がした。いつもより話すのがゆっくりだったからか? それとも……

「その、本気で見つけるつもりだったんです。嫌がらせとか、そういうつもりでは本当にないんです。エノクさん……その、落ち込まないでください……といっても、無理かもしれませんが」

 私を失望させたくない、という感情だけは、真実のものとして確かに伝わってきた。実際の私は、失望というよりも、ある種の安堵に近い感情に浸っていた。

「いや、私も、無茶を言ってしまった。あの時は、私も自分ではよくわからない感情に襲われたんだ。らしくなかった。でも……多分、らしくないがゆえに、あれが私の本当の欲望だったのかもしれないな、アリサ。私は心のどこかで母親を求めていて、それが私を狂わせた。君もそう思うだろう? 私は私が演じているよりも、ずっと幼稚なんだ」

 アリサは首を横に振った。

「人はみんな幼稚です。男性だけでなく、女性も。それを必死に隠しながら生きているんです。私も……女性の恋愛本能を馬鹿にしながら、結局は自分の中に生じるそれを完全に制御しきれない。でも、それを自覚できるだけ、そうでない者たちよりも、一歩上にいる。私はそう信じていますし、それをあなたに当てはめれば……きっと、あなたは他の男性たちだけでなく、多分……私をはじめとした、他の多くの女性たちよりも、自分の弱さに向き合って、自覚している。そういう、強さがあるように、私には思えます」

「なら、私の母親がどうなっていたのか、本当のことを教えてくれ」

 冷静さを装っている。装っていることを、自分で笑ったりはしない。必死の努力だ。きっと、事実は残酷なものだろうから。

「9年前に自殺していました。だから、あなたの物語は、人々に知られることはありませんでした。出演者の自殺で終わる物語は、この社会ではさすがに刺激が強すぎると判断されたのでしょう」

 電気が流れたように、体中にびりびりと感じたことのないほどの強い衝撃が伝わっていくのを感じる。しかし、そうなるであろうことはわかっていた。だから私は、唇を噛んだ。自分をしっかり持て、と自分に言い聞かせて。

「それだけか?」

 意外なほど自分の声はしっかりしていた。予想していたような、ふてくされたような子供の声でも、ひどく怯えた弱弱しい女みたいな声でもなく、軍の指揮をとる養父が、部下からの報告を聞いた時のような、そんな毅然とした強い男性の声が、自分の口から強く響いていた。

 もしかすれば、あれほど強く見えた養父も、戦いのたびに、今の私と同じようにひどく怯えていて、それでも勇気を出して、自らの滑稽さを乗り越えて、強さを演じていたのかもしれない。

「……はい。それだけです。日記も、手記も残されていません。エノクさんの母、ライザは、沈黙のうちに自らの命を絶ちました。以降、二度と同様の実験は行われませんでした」

「実験?」

 アリサは苦虫をかみつぶしたような顔をする。それを言うつもりはなかったのかもしれない。

「えぇ。実験だったんですよ。でも、その内容に関しては言えません。しかし約束はします。大した話ではありませんし、ただの、ありふれた気分の悪い話です。知る価値はない」

「とはいえ、私には知る権利があるんじゃないのか?」

 アリサは、ひどく悩んだ末に、断り、その日の面会は終わった。

 ただ私は、いずれそのことを知る機会を得るような気がした。


 妙に親しくなったアレックスに誘われて、遊戯室に入ると、部屋の隅にはいつも小柄で眼鏡をかけているやつがいる。ほとんど誰とも話さず一心不乱に同じゲームをしている。

「おいメノウ。今日もやってんのか?」

 アレックスが、そのメノウに絡みに行く。メノウは一瞬だけ反応を示したが、無視。アレックスは肩をすくめて私の方に戻ってくる。

「アイツ、いつ見てもやってんな」

「放っておいてやれ」

 そう言いながら、メノウの向かいの台に座る。ここに来てから、何度かプレイしたことのあるゲーム。次々と現れる敵を左右に動いて攻撃をよけながら倒していく。

 外の世界には存在せず、女たちはもっと高度な複雑なゲームを遊んでいる。男たちは、時代遅れで単純なこういうゲームで満足できる。安価だし、夢中になりすぎづらい。まぁ、メノウみたいにこういう単純なゲームにものめりこんでしまうやつはいるが。

「あークソ。死んだわ」

 隣のアレックスの画面にはgame overとでかでかと出ている。それに一瞬気を取られて、自分も被弾してしまう。スコアが出てくる。843ポイントで、23242位。一年ごとにリセットされるそのランキングで上位に入ることを目標にしている者もいる。

「うわ、きもいな」

 スコアのあとに、100位以上のランキング上位者が自動的に表示される。すべて、同じ名前AAAAAA。ポイントは文字通り私たちとは桁が違う。

「これ全部メノウか」

「だろうな」

 私はメノウの席の方に行き、メノウの画面を遠くから腕を組んで眺める。見たことのない面、見たことのない動き、意味不明なほど素早く正確な手さばき。何が彼をここまでしたのだろうか。

「あ……」

 メノウが一言そう言うと、画面が弾で埋まり、そのままゲームオーバーになる。

「クソが!」

 メノウが我を忘れてそう叫んで、台を思い切り叩いた。スコサは190万。順位は7位。慣れた手つきでAAAAAAと入力し、次のゲームを始めようとする……が、手を止めて振り向く。

「気が散るんだけど」

 その、高い声からメノウは自分より年下なのではないかと思ったが、その皺が刻まれた顔を見て、私はおろか、アレックスよりも一回り年上であることに気づいた。

「他のゲームはやらないのか?」

 メノウは、フリーズしたように、ポカンと口を開けて黙っていた。その後、唾を吐いた。

「俺と、お前で? 勝負になんねぇよ」

「いや、一緒にやろうって誘ったわけではなく、なぜそのゲームばかりやっているのかって聞いたんだ」

 メノウは気まずそうに舌打ちをした。

「今年はこれって決めてんだよ。たまには別のもやるけど」

 目をそらして爪をいじっている。どうやら、ゲームを再開する気にはなっていないようだ。

「おいエノク。そいつと話してたって面白くねぇだろうよ」

 アレックスがそう言って、俺の肩を軽く殴ってくる。馬鹿なやつだ。ひじでわき腹を軽くついて仕返ししたあと、「邪魔して悪かったな」とメノウの肩の上に手を置いて言ったあと「また後で話そう」と耳打ちした。


 メノウは、私と同様に外の世界から連れてこられた者で、医者の子として生まれ、植物や化学の研究に非常に優れた才能を有していたらしい。ただ、女の国のエージェントがそれに気づき、すぐにメノウを誘惑し、ここに閉じ込めた。約束では、潤沢な資金のもと好きなだけ研究できる環境を用意するとのことだったが、実際に来てみれば、何もない。一応研究室は用意されていたらしいが、その材料や機材はほとんど用意してもらえず、自分で作ることもできなかった。結局何もすることがなく、あぁしてゲームの攻略に時間のすべてを注ぎ込むことにしたらしい。

 ともあれ、メノウはそれほど絶望しておらず、むしろ今の生活が気に入っているとも言っていた。外の世界では常に暴力に怯えなくてはならなかったし、飯もまずく、そのうえ、面倒な仕事も大量にこなさなくてはならなかった。後悔はない、とも言っていた。

 本心だろうと思う反面、メノウのその生き方自体に、ある種の嘘くささを感じずにはいられなかった。


 ここでの生活にも慣れてきた。もう女を抱いた人数は数えていなかった。飽きたり、単調にならない程度の頻度に調整されているからか、セックス自体はいまだに楽しむことはできている。

 この男性社会の序列や文化にもなじんできた。現状私は、序列としては第四位程度。明確には定まってはおらず、上位の者たちは互いにほとんど関わろうとはしない。アレックスは例外で、私とアレックスは対等な友人として、他の者たちへの強い影響力を持っている。悪くない状況だ。

 ただ同時に、「それの何が悪くないのだろうか」という気持ちにもなる。どうせ生活の安全は保障されており、今後どうなるかはわからないが、少なくとも現状は女には困っていない。もともと、それほどセックスへの欲求は強くないから、今の半分くらいになったってかまわない。

 暴力も、稀にはあるが、別に気を付けていれば多少序列が低くても理不尽な目に遭うこともないだろうと思われる。この檻の中では金銭などのやり取りはほとんどないし、食料や嗜好品が不足することもない。男性同士の序列は、あくまでコミュニケーション上のものであり、習性としてそうなっているだけで、機能としてはほとんど破綻している。

 あぁ、スポーツの時に、指揮系統がしっかりしていて勝ちやすくなる、という側面はあるかもしれない。この前の区域対抗戦は負けてしまったが、次に向けてみな気合いを入れて練習している。

 何の意味がある? 意味はないさ。母親は死んでいた。いや、アリサが嘘をついている可能性はある。だが同時に、母親が生きていたとして、それで会えたとして、いったい何を言えばいいのだろうか? 何が変わるというのだろうか? 私はおそらく、ここで一生を終えるというのに。


「リアリティショーへの出演?」

「はい。ある影響力の強いクリエイターの方が、あなたに興味を持っていて。別の区域の方なのですが、私と同様に条件付きではありますが区域間の移動が許されている方で」

「断ってもいいのか?」

 アリサは渋い顔をした。表情で察してほしそうではあったが、私は沈黙して言葉を促した。

「規則としては、断ることは可能ですが、重いペナルティがかかるものと考えてください。わかっているとは思いますが、ここでは男性は、ヒトよりもモノに近い存在です。ヒトの言うことを聞けないモノは、不良品として扱われます」

 改めて言われると、気分の悪い話だ。少しだけ意地悪な感情が湧き上がってきて、それを目の前の人物にぶつけたい衝動に駆られる。抑える必要があるか? 外の世界でなら、必ず抑えていたが、ここでは……

「君もそう思っているのか? 私をヒトではなく、モノであると……」

 アリサは眉間にしわを寄せて、ひじを机についてふてくされたような表情を浮かべた。そして、まるで難解な美術品を干渉するみたいに私を様々な角度から眺めて、最後に得心が言ったように頷き、ほほ笑んだ。

「あなたは美しい人です。私にとってあなたは対象であるという点では確かにモノです。主体性や、私自身との共通性なんて、正直どうでもいい。だからあなたは、客観的にはヒトであると私も思いますが、私にとってみれば、大切なモノであり、仕事道具でもあります」

「なら、その仕事道具の立場としては、愛着を持ってもらえるよう努力しなければならないな。あぁそうだ。気になっていたことがひとつある」

「なんですか」

「ここには、50歳を超える男性がいない。女性もだ。他の者たちの話を聞いても、50歳を超える女性を抱いたという話は聞かない」

「処分されますからね」

「外の世界では、90歳生きている者がいた。本の中では、120まで生きたという話もある。人間はおそらく、50よりずっと長く生きられるようになっているはずだ」

「えぇ。あ、ちなみに女性は80歳まで生きることは許されますが、男性との性交権は人工子宮の維持が難しくなった段階で失われるので、50歳よりも早くなることが多いですね。そのあとは、安楽死が推奨されますし、ほとんどの人はそうします」

「みなそれに不満はないのか」

「あると思いますよ。議論もあります。でも、そうしないと社会が維持できないというのもありますし、クローンによる生まれ直しも可能です。記憶を最低限維持し、自分と同じ遺伝情報を持った赤子として生まれ直すんです。もっとも、実用化されたのは14年前と比較的最近で、非常に厳格な審査に通る必要があるので……」

 クローンによる生まれ直し。その言葉を聞いた瞬間、頭にしびれのようなものを感じた。

「エノクさん?」

「その、クローンというのは」

「あれ、ご存じないですか?」

「いや、知ってはいる。かすかだが、幼少期にそれ関連のニュースを見た記憶もある。一応確認だが、私はそのクローンの技術と何か関係していたりしないな?」

「私の知る限りはないですが……」

 そう言ったあと、アリサは、はっと何かに気づいたような表情をしたあと、その表情が出てしまったことを悔やむような表情に変わった。

 この女は、意外なほど表情豊かだな、とふと思った。冷静な口調、優れた感情のコントロール、論理性、そういったものは、案外そうした感情のわかりやすさとその自覚能力に支えられているのかもしれない。

「言えないのだろうが、私がその事実を今後知る機会に恵まれるかどうかは教えてくれないか」

「……今回の、リアリティーショーへの出演に同意していただければ、可能性は高まると思います。結局私の一存では無理なので、他の有力者に気に入られることが重要でないかと、助言いたします」

「そうか。わかったよ。あまり乗り気ではないが、やってみよう」

「そう伝えておきます」


 歪だ、と思う。社会の安定性と継続性のために個々人の命の長さまで決定しているにもかかわらず、恋愛リアリティショーなどという、社会を不安定にしかねない娯楽を重要視し、そのために規則を捻じ曲げている。

 恋愛と子育てが女を狂わせる。この二つの欲求を満たすためなら、女は何でもやる。逆に言えば、ただ長く生きていたいとか、そういう男性とも共通する強い欲求は、それらの欲求と比べれば容易に諦めがつくということなのだろうか。男性である私にはわからない。

「子育ては、子供を産んでから生じる狂気と聞きます。腹を痛めて産まなければ済む話ですから、今の女性の欠点は恋愛だけですね。恋愛リアリティーショーは、名目上は、そうした自分たちの欠点を自覚的にコントロールするための娯楽作品ということになっています」

 アリサは書類を私に寄こしてくる。

「序盤は台本通りに演じてほしいとのことですが、アドリブも求められていますし、中盤以降は物語が盛り上がるように、いい感じに演じてほしいとのことです」

「その、やり手のクリエイターとやらと私は会う必要がないのか?」

「性交目的以外で男女がやり取りするのは原則禁止されています。一応その方も、あなたへの性向申請を行えば話すことは可能ですが、真面目な方ですし、欲求を手っ取り早く満たさないことが、創作のコツだとも語ってらっしゃったので、その機会もないだろうと思われます」

 舞台設定と台本に目を通す。男性ひとりと、5人の重犯罪者である女性たちがある施設に閉じ込められる。課題をこなしながら、絆を含めていき、最後には、男性が選んだひとりの女性とともに、この都市の外に脱出する。シリーズものであるらしく、私が出演するのは四作品目らしい。

「一作目は大変だったんですよ。過激なシーンも多かったですし、影響を受けすぎて、次作の出演のためにわざわざ重犯罪を犯す若者さえ現れました。出演者は男性を除いて全員犯罪者じゃなくて俳優だったっていうのに」

「そもそも、なんで俳優である女性たちと男性が会話をすることが許されているんだ? 監督と出演者という関係がダメなら、出演者同士もダメだろう」

「あぁ、それは、女性側の出演者が全員生殖機能を失っているからいいんです。そもそも女性への刑罰のもっとも重いものがそれですし、テーマは真実の愛で、作品の中でセックスは行われません」

「……俳優十人すべてが、そうなのか?」

「いえ、それを明らかにするすべはないので、『そういうことになっている』というだけです。見ている人たちも、勘づいてはいますよ。でも、自分たちが楽しみたいがために、騒がず黙っているんです」

「前の作品を私も見ておいた方がいいか? そもそも見ることは許されているのか?」

「それも聞いてみます」


 許可はおりなかった。ぶっつけ本番でやれとのこと。台本の内容はすべて記憶したが、どう考えても台本通りに事が進むようには思えなかった。どちらかといえばこの台本は、出演者そその舞台に没頭させ、集中させるためのチュートリアル的な役割を果たしているように見えた。

 おそらく、女性側の方に細かな指示があり、道具である男性はいいように誘導させられ、気づけば素晴らしいドラマが出来上がってしまうのだろう。

 母は、こういうものを見ることはあったのだろうか。それを楽しいと思える人だったのだろうか。

 少なくとも私は幼少期この手のものがテレビに映っていたことはなかったし、母からそれに関する話を聞いた覚えもない。

 幼馴染だったイーナが、何か言ってた覚えがある。家族の影響で初めて恋愛リアリティショーを見て、すごく嫌な気持ちになったとか……そんなことを言ってた気がする。アリサはあまり興味がないと言っていたな。その割には、詳しそうだった。仕事だから徹底的に調べただけという可能性もあるが。


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