第3話「煮え滾る■■」
とあるアパートの一室——白を基調とした壁の室内は閑散としており、ただ何かを叩き続ける音だけが室内に鳴り響いている。
赤や黒の色を主にあしらった棚や寝台が、真白い部屋にアクセントを加え、一見派手に見える室内は落ち着きのある色を採用することで、纏まりのあるインテリアへと仕上がっている。
部屋の主と思われる、鮮やかな赤い瞳に銀髪の青年は、L字に曲がった大きな白い机の前に座り、ひたすら指を動かしていくつもの凹凸がある板を叩いていた。
机の上には据え置き型の電子機器と複数の画面、自撮り用の棒や様々な機材が綺麗に配置されている。
「……っし!終わったぁ!これで出掛ける前の編集分は終わりだな。出力して……っと……。」
青年は後ろに大きく伸びをして、満足そうに画面を見つめた後、編集が終わった動画の出力を開始する。
「さぁて……今の内に飯とか、風呂を済ませないとな。あんまり夜更かしすっと、体に悪いし。」
すっかり暗闇に満ちた窓の外を眺め、青年は立ち上がってカーテンを閉めると、そのままリビングに向かい食事の準備へと移る。
数少ない調理器具を駆使して1人分の生姜焼きを作り、リビングに座って白い米と共に生姜焼きを黙々と頬張る。
食事を摂る間、テレビの代わりにとスマホの画面を操作して、動画投稿サイトに上げられた動画を漁っていく。
「……ははっ!この人、面白いな。チャンネル登録しとこ。」
様々な動画を漁る中で、自分の好みに合う動画を見つけて思わず笑みを零しながら、食事が終わるまで満足に動画を視聴し続ける。
食事を終えると、食器を片付けて風呂場へと向かい、風呂や歯磨きなどの寝支度を整えてからパソコンの前へと戻る。
すると、出力は無事に終わっていたようで、青年は動画サイトに今しがた作り終えた動画をアップロードする。
アップロードが始まると、青年は一息吐くかのように軽く溜め息を漏らして、椅子の背もたれに寄り掛かりながら画面を見つめた。
「……さて、後はサイト内の動画処理が終わったら寝るだけだな。」
青年は独り言を呟いて椅子を引き、部屋の片隅に置かれたザックへ視線を送る。
ザックの中身は既に詰め終えた様子で、あとは持ち出すだけのようだ。
動画のアップロードを待つ間、青年はスマホを手に取り、搭載されているカレンダーのアプリを開く。
「明後日は楽しみだな……。なんだかんだ、エディーの兄貴に会うのも初めてだし、クレールの弟に会うのも初めてなんだよな……。最初に、なんて挨拶すっかな……。」
今日から明後日にあたる日付の欄に、親友である『エディー』と『クレール』——そして、2人の家族と共に登山に赴く予定が記されている。
登山に赴く山は、初心者にも勧められている山が指定されており、今回の登山は重装備を携えた本格的な登山ではなく、お互いの友人や家族を招いた交流会を目的としていた。
青年はスマホに保存していた、とある写真を見つめると、少し心配した声でぼそりと呟く。
「あいつらの家族は登山経験者だけど、俺と一緒に行くアイツは登山初心者だからな……。気楽にのんびり行けっと良いけど。」
写真には、ライダースジャケットを羽織る青年と、同じく黒い服を着た金髪の女性が並んで立っており、2人の傍には2台のバイクが停められている。
広大な海を背景に、2人は互いに寄り添い合ってカメラに笑顔を向けていた。
青年は当時の様子を懐かしむように、目を細めて口元に笑みを浮かべると、再び海へ出掛けることを夢見て思いを馳せた。
「こっちもまた行きてぇなぁ……。今度誘ってみっか。」
そんな独り言を呟いた矢先、突然スマホが軽快な音楽を奏でて振動し、画面には見慣れた名前が表示される。
青年は「噂をすれば……」と呟きながらスマホの画面を指でつつき、耳にスマホを当てて「もしもし?」と電話越しの相手に声を掛けて返事を待った。
「あぁ、もしもし?勝谷?……じゃなくて、この話題を振るならこっちの名前の方が良いかな?マイン。」
やがて、スマホから聞こえた大人びた女性の声に、青年——『マイン』は苦笑いをして口を開く。
「呼び方はどっちでもいいっての。こんな時間にどうしたんだよ?日向……いや、そっちがマインって呼ぶなら俺も変えるか?海の動画で人気者の『なぎさ』さん。」
「……もう、別にからかったわけじゃないわよ?勝谷こそ……最近どんどん登録者が増えて、知名度が鰻登りみたいじゃない。おめでとう。」
意地悪な口調で返事をしたマインに、女性——『なぎさ』はまるで自分の事のように喜んでみせた。
なぎさの明るい声に、マインは思わず照れくさそうに指先で頬を掻くも、思い出したかのようにハッとした表情を浮かべて、なぎさに問い掛けた。
「悪い悪い、サンキュな。まぁ……けど……本当に、こんな時間に電話して何かあったのか?この話題を振るならって……もしかして動画のことか?」
マインからの問い掛けに、なぎさは「うんうん」と相槌を打って話を始める。
「そうそう。今日の動画は確か、リュックに詰めておけるオススメな補給食の紹介だったでしょう?30分前から待ってるのに動画が上がらないから、つい電話して聞きたくなっちゃって。」
なぎさの言葉に、マインは驚いて椅子に寄りかかっていた姿勢を起こす。
「なっ、そんなに待ってたのか!?確かに夜には上げるって言ってたけどよ……。……ってか、今回の登山は軽めだってのに、そんなに補給食持ってくのか……?」
「違う違う。私が全部食べる訳じゃなくて、勝谷のお友達に分けようと思ったの。日頃から勝谷がお世話になってますって。」
「おいおい……日向は俺の母親かっつーの……。……まぁ、でもそれなら……山登ってる道中で、全員が分けて食えるやつとかでもいいんじゃないか?登った後の山で飲むコーヒーとかって格別に美味くてさ、その付け合わせみたいなもんがあれば、皆喜ぶと思うぜ。」
マインからの提案に、なぎさは嬉しそうな声を出す。
「本当?それ良いわね!補給がてら、コーヒーが進みそうなお菓子を持って行こうかな。」
「なら、俺は山でコーヒーを飲む時に使ってる道具を追加で持って行くぜ。2人で一緒に作って、皆に振る舞うとするか!」
「そうしましょう!……ああ、今から楽しみね。勝谷も……私がどんなお菓子を持っていくか、楽しみにしていてね。私がオススメする美味しいお菓子を持っていくから。」
電話越しからでも伝わる、なぎさの心躍る想いに触れ、マインは無意識の内に口元に笑みを浮かべる。
「おう、楽しみにしてるからな、日向。」
「ええ、是非そうして。……あ、そうだ。動画なんだけど……私はまだしばらく起きているつもりだから、アップロードが完了したら教えてね。寝る前の楽しみにするから。」
「わかってるって。あと少しでサイトにアップロード出来そうなんだ。投稿が終わったら知らせるから、それまで待っていてくれよ。」
そう言いながらマインはモニターへ視線を戻し、処理が完了するまでの残り時間を確かめる。
画面に示されていたのは残り数分といったところで、マインは耳と肩でスマホを挟んで固定すると、空いた手で動画のタイトルや概要欄を埋めていく。
叩かれるキーボードの音でマインの動きに気が付いたのか、なぎさは再び口を開き、期待を込めた口調で話す。
「あと少しで投稿出来るのね。それじゃあ……あまり長電話して作業の邪魔をするのも悪いから、そろそろ切るわね。」
「あっ、ああ……話してんのは別に構わないけどな。まぁ……日向もあまり夜更かしして、体調を崩さないようにしろよ?」
「わかってるわよ。明後日のために、体調を整えておかないとね。補給食の相談に乗ってくれてありがとう、勝谷。またね。」
なぎさが電話を切ろうとした瞬間、マインは咄嗟に声を出してなぎさを呼び止める。
「あ、日向!!」
「なに?どうしたの?」
なぎさは呼び止められたことに驚き、戸惑った様子で返事をする。
マインは一呼吸の間を置いた後、電話越しには伝わらないものの口元に笑みを浮かべて、はっきりとした声で伝える。
「……明後日は一緒に行こうな、日向。」
マインが改まった口調で言葉を伝えると、なぎさは「ふふっ、急にどうしたのよ?」と、笑みを隠し切れていない声を漏らした。
「……ええ、もちろん。明後日は朝一に勝谷のアパートに向かうわ。そっちこそ、寝坊したりしないでね?……それじゃあ、今度こそ切るから……おやすみ、勝谷。」
「おう、引き止めて悪かったな。……おやすみ、日向。また明後日な。」
2人で就寝の言葉を交わすと、なぎさが電話を切り、マインはスマホを机の上に置いてモニターへと視線を戻した。
モニターには、無事にアップロードを終えたことを告げる通知が送られており、動画の概要欄を更に書き込んだ後、完了のボタンを押してサイトへの投稿を済ませる。
マインは就寝するため、サイトを閉じる印へとカーソルを走らせたものの、ふと過去に投稿した動画が目に付き、視聴者から送られたコメントを開いて眺め始める。
コメント欄には多くのコメントが寄せられており、『登山に挑戦するきっかけになった。』『わからない所があって色々調べてたけど、この動画が一番わかりやすかった。』など、登山の風景や道具の解説を主に撮影しているマインにとって、嬉しいコメントが軒並み並んでいた。
「日向みたいに、こうやって俺の動画で登山に興味を持ってくれる奴が居ると、嬉しいもんだな……。」
マインは自分が作る動画を楽しみにしている人が居ることを改めて実感し、マウスの中央に備え付けられたホイールを回転させて、感慨深くコメントを順繰りを見ていく。
しかし——その中に紛れたコメントの1つに目が留まると、書かれた言葉を無意識の内に頭の中で読み上げた。
『エディーさんは、今回も居ないんですか?』
その一言に、マインは苦笑いをして頬を指先で掻く。
「ったく……エディーと一緒に動画を撮り始めて、エディーのファンも付いてきたとはいえ、アイツは別の国に住んでるから、そう簡単には出られないんだよなぁ……。」
マインは、エディーと共演した動画を上げることもあったが、エディーは別の国に住んでいるため、頻繁に撮影に参加することはできなかった。
視聴者の要望を理解しつつも、エディーを求める声に複雑な思いを抱きながら、マインはパソコンの電源を落として再びスマホを手に取る。
トーク目的のアプリを起動してエディーのプロフィールを開くと、慣れた手付きでスマホの画面を指先で叩き、メッセージを送信してから布団へと潜り込む。
「俺は大丈夫だけど……ああいうコメントを見て、エディーが気負わなきゃいいけどな……。アイツ、繊細で優しいし、ああいうの気にするとこあるし……。……そういや、エディーはもうホテルに着いて、もしかしたら寝てるかもしれねぇ時間か……。明日、返事が返ってきたら、コメントのことは気にすんなって一応伝えておくか。アイツが責任を感じてからじゃ遅いだろうし、ああいうのを気にして欲しくもないしな。」
マインはそう呟くと、寝台に備え付けられた棚にスマホを置き、眠るために瞼を閉じて体の力を抜く。
明日確認すべき事、忘れずに伝えておきたい事、何をして過ごそうかと悩む事……眠気に襲われる前に、頭の中を駆け巡る思考を何とか鎮めようと試みながら、静寂に身を委ねて意識を微睡の中へと沈めていく。
やがて、意識が遠のいていく感覚を自覚した、次の瞬間——突然、視界がフラッシュバックしたかのように白く明滅を繰り返し、マインは落ちかけていた意識を起こして思わず目元を抑えた。
「なっ…!なんっ……だ、これ……っ!目の前が……急に……っ!」
フラッシュバックに伴い次々に映し出される、見たことも無い風景——助けを求めて逃げ惑う人々や、業火によって灰の中へと消えゆく命と文明の軌跡、大地を赤黒く染め上げる、血で形作られた広大な海——。
そして——全てを焼き尽くさんとする業火の中に佇み、何者かに炎の剣を掲げる、短い銀髪の男性の勇士ある後ろ姿——。
何が起きているのか考える暇も無く、フラッシュバックが唐突に鳴りを潜めたかと思うと、目の前には炎が立ち昇り、真っ赤に染まった世界に置き去りにされていたことに気が付く。
(どこ、だ……?ここ……。俺は、なんでこんな所に……。)
自分の身に何が起きているのか、全く理解が追い付かないまま、マインは動揺して周囲を見渡した。
すると——視界の全てを覆いつくすほどに燃え上がる炎の中に、見慣れた青年の姿を捉えて、マインは目を見開きながら咄嗟に青年の名を叫んだ。
「っ……!エディー!?お前……なんでこんな所に居るんだよ!?」
紫色の髪に、深い海の様な青い瞳を持つ青年——『エディー』は、炎の中で力無く座り込んでおり、マインの声を聞いて項垂れていた顔を上げる。
エディーは驚いた表情を浮かべてマインの存在を認識すると、頬に雫を残したまま何かを訴えるように口を開く。
しかし——エディーの言葉は音として発せられることはなく、マインの耳に届くことはなかった。
「エディー……?何を、伝えようとして……?」
マインはエディーの声が距離によって聞こえないと考えたため、ゆっくりと一歩を踏み出してエディーに近付いた。
その時——エディーの背後から、いくつもの黒い鎖が飛び出してエディーの体に絡みつき、エディーは炎のさらに奥深くへと引きずり込まれていく。
「なっ……!?エディー!!」
マインは慌てて駆け出し、必死に手を伸ばしてエディーの手を強く握り締める。
この手を離せば、取り返しのつかないことになるかもしれない——とめどなく溢れる不安を感じたマインは、引き摺られまいと足に力を込めて堪え、エディーの手を引こうと腕に力を込める。
その瞬間——マインの視界は唐突に自室の風景へと引き戻され、体から急速に力が抜けていくような感覚に襲われる。
徐々に意識が遠のいていき、視界が黒く霞んでいく中で、寝台の棚に置かれたスマホが音を奏でて振動する。
「日、向……」
僅かな力を振り絞るようにして棚へ必死に手を伸ばすも、途中で力尽きたように腕を下ろし、マインの意識は暗闇の中へと沈んでいった——。