第2話「沈みゆく■■」
とあるアパートの一室にて——黒い髪にターコイズブルーの様な瞳を持つ女性は、1人黙々と夕飯の支度を進めていた。
黒や白を基調とした、清潔感と高級感を兼ね備えた家具に加えて、青を基調としたインテリアが部屋の雰囲気を爽涼で清楚に仕上げている。
清潔に保たれたテーブルへ、白い米、生姜やネギの味噌汁、焼き上がったばかりの魚の塩焼きが続々と並べられていく。
いかにも和風といった食事の品々に、漬け物と煮物を添えたところで、部屋の奥から銀髪の青年が姿を現した。
青年はタオルで濡れた頭を拭きながら、その橙色の瞳に、湯気が立ち上る料理の姿を捉えて口を開く。
「ああ……姉さん。もう食事の準備が出来たの?」
女性を『姉さん』と呼んだ青年は、濡れたタオルを首に掛けると、冷蔵庫から飲み物を取り出す。
「エミルこそ、早かったな。この後、何か残っている仕事でもあるのか?」
話をしながら、食事の支度を進める女性からの問いに、青年——『エミル』は「ううん」と相槌を打ち、2人分のコップに茶を注ぐ。
「早く出てきて、姉さんを手伝おうと思ったんだけど……その必要は無さそうだね。」
綺麗に並べられた食事を見て、エミルは手持ち無沙汰だと両手を広げてみせる。
「今日はメニューが決まっていたから……それに、早くやれることを終わらせて、やりたいことがあるんだ。」
「明後日の約束のこと?……僕はもう、ある程度まで身支度は終わらせたけど……姉さんは今日まで、みっちり仕事が残ってたもんね。」
「ああ。今さっき、やっと片付け終わったところで、支度はこれからなんだ。」
そう言いながら椅子に腰掛ける女性に、エミルは対面の席に座って労いの言葉を掛ける。
「本当に、いつもお疲れ様。だったら尚更……家事は僕に押し付けても良かったのに。」
「出来ることがあるのなら、済ませてしまいたい質なんだ。よくわかってるだろ?」
「はいはい、わかってますよ。姉さんは本当に生真面目で、しっかり者だなぁ……。」
性分ならば仕方が無いと、エミルはきっぱりと諦め、料理に向かって手を合わせる。
「冷めない内に食べないと。いただきます。」
「……頂きます。」
2人は食前の挨拶を交わし、食事に手を付けると、時折会話を挟みながら料理を口へ放り込む。
仕事や出先で起こったこと、他愛のない会話を続けた後——エミルは「そういえば……」と呟き、持っていた食器をテーブルに置き直す。
「明後日の約束には、姉さんの親友と……その友人や家族が一緒に来るんだったよね?話は姉さんから聞いているけど、直接会うのは初めてだなぁ。」
何度か写真越しで見た、女性の親友の顔を思い出しながら、エミルは出会った時のことを妄想して思いに耽る。
そんなエミルの様子を見て、女性は微笑ましそうに口元に笑みを浮かべた。
「マインさんとエディーさんに会うのを、楽しみにしてくれているんだな。」
『マイン』と『エディー』——それが、女性の親友である2人の名前だった。
エミルは心外だと言わんばかりに、目を丸くして思いを吐露する。
「もちろんさ。姉さんってば、関わり合う人はそこそこ多いはずなのに、旅行に行くほど仲が良いのは、その2人だけでしょ?姉さんと旅行に行くほどの人達なんて……会うのが楽しみに決まってるじゃないか。」
「それは……。……確かに関わり合う人は多いかもしれないが、殆どが仕事としての付き合いで、趣味の登山で意気投合したのは……マインさんとエディーさんだけなんだよ。」
「それもそうかぁ……。山を登りに行く人はそれなりに居るかもしれないけど、姉さん達みたいに本格的に登山をする人は、周りに居ないのかもね。」
「そう考えると、2人に出会えたのは幸運だったな。2人と過ごす時間は、家族と過ごす時間と同じくらい大切なものなんだ。もっと沢山の時間を費やせればと思うんだが……中々そうはいかない。」
「姉さんは関わり合う人を……特に、家族と友人は本当に大切にするよね。僕も……姉さんが親代わりとして頑張ってくれたお陰で、今こうして居られるんだ。姉さんには、感謝してもし切れないよ。」
エミルはふと、リビングの目立つ場所に置かれた棚へと目を向ける。
そこには——1つの写真立てが飾られていた。
釣られて女性も写真立てを見つめると、不意に立ち上がって棚に近付き、写真立てを手に取る。
そこには黒髪の幼い少女と、銀髪の赤ん坊——そして、仲睦まじく並ぶ夫婦と思しき男女が、カメラに向かって笑顔を向けている様子が写っている。
黒髪の幼い少女は、夫と思われる黒髪の男性と顔付きが似ており、銀髪の赤ん坊は、妻であろう銀髪の女性とどこか雰囲気が似通っている。
写真立てを裏返すと——「愛しきクレールとエミルへ」と宛名が書かれた手紙が挟み込んであった。
女性が手紙を写真立てから取り出すと、手紙には——僅かに血の跡が残っている。
取り出した手紙を見つめて女性が硬直していると、エミルが口を開き手紙について問い掛ける。
「結局、僕にはその手紙を見せてくれないよね。……何が書いてあるの?姉さん。」
エミルに声を掛けられた後、女性——クレールは、手紙と写真立てを元の位置に戻し、エミルに向き直って問いに答えた。
「……そういえば、まだ見せてなかったな……。エミルが大きくなったら、見せるつもりでいたんだ。父と母が一緒に手紙をしたためて、大きくなった私達に渡そうとしてくれていた……大事な手紙……。その手紙を持ったまま……私達に渡すことも出来ず、父と母は事故で亡くなってしまった……。」
両親の訃報を聞かされた時の、幼いながらも抱いた心情を思い出し、クレールは寂しげに目を細めて俯く。
「……僕も、生まれたばかりの頃だったから……満足に父さんと母さんと話をすることもできなくて、寂しく思うことも少なくなかった。でも……僕には姉さんが居る。姉さんがしっかり僕を育ててくれたから、健やかに生きていられるんだ。だから、大丈夫だよ。」
視線を落としたクレールを元気付けようと、エミルは優しい声でクレールに語り掛ける。
エミルの声に耳を傾け、一度目を閉じて心を落ち着かせた後、クレールは顔を上げてエミルに微笑んでみせる。
「エミルがそう言うのなら、それでいい。父と母も、大人になった私達を見て、きっと安心しているはず……。」
「そう、きっとそうだよ。大きくなったら見せるつもりで居たのなら、あの手紙……読んでも良いよね?」
再び写真立てへ視線を向けたエミルに、クレールは1つの提案をする。
「ああ、読んでも構わない……が、その手紙を渡す役目……私にやらせてもらえないだろうか?」
「どういうこと……?」
エミルはきょとんと首を傾げ、クレールの顔を見つめ直して返答を待つ。
「……明後日、私達は皆と一緒に山に登る。その時に私は、あの手紙を持っていく。そこでエミルに……渡したいんだ。」
クレールが真剣な面持ちで思いを吐露すると、エミルは笑顔でクレールに即答する。
「……なんだ、そういうことか。いいよ、むしろその方が……僕にとっても嬉しい。姉さんが受け取って与えてくれた、父さんと母さんの愛情を……姉さんを通じて、受け取らせてくれるなら……その日の、その時まで、手紙に触れずに待っているよ。」
エミルが快く頷くと、クレールはほっと胸を撫で下ろして肩の力を抜く。
「……ありがとう。責任を持って、手紙を渡す役目を果たさせてもらう。」
「あはは、そんなに意気込まなくても……姉さんは本当に、生真面目だなぁ。……それじゃあ、ご飯も食べたことだし……後片付けは僕に任せて、姉さんは先に休んでて。」
「そうだな……明後日の身支度も殆ど出来ていないことだし……ここはエミルの言葉に甘えて、先に休もう。」
「うん、そうしてくれると嬉しいな。それじゃ……今日もお疲れ様。おやすみ、姉さん。」
「ああ……おやすみ、エミル。」
クレールはエミルと就寝の言葉を交わすと、真っ直ぐに自分の部屋へと向かい、室内の電気を点ける。
扉を閉めると、クレールは寝台の横に置いてあったザックへと手を伸ばし、ザックを開けると、中に手際よく登山用品を詰め込んでいく。
今回は本格的で険しい登山ではないため、そこまで重装備とまではいかないものの、万が一を考慮して念入りに持っていく品々の点検と確認を行う。
「皆で登る時になって、怪我でもしたら大変だからな……。」
自前のチェックシートを駆使して一通り詰め終わると、ベルトやチャックを閉めて、備品で一杯になったザックを再び寝台の横に置いた。
明日も、また忘れずに確認しよう——と、自分に言い聞かせながら、黙々と寝支度を済ませて、綺麗に整えられた寝台へ体を横にする。
クレールは眠りにつこうと瞼を閉じるが、しばらくの間——エミルと話したことや、親友と交わした約束、幼い頃の記憶などを脳裏に思い浮かべ、静かに感傷に耽る。
(思えばここまで……じっくりと昔の写真を見返したりする暇も、無かったかもしれない……。)
不意に思い出した家族との小さなアルバムを思い出して、クレールはスマホにメモを残す。
『手紙と一緒に、アルバムも一緒に持っていく』
エミルに見せようと、心にアルバムの存在を留めて、何も聞こえない静寂に身を任せる。
ゆっくりと時間だけが過ぎていき、やがて徐々に意識が薄れていくことを確信したクレールは、このまま眠れるだろうと思考を放棄した。
しかし、次の瞬間——突然、視界がフラッシュバックしたかのような感覚に襲われ、クレールは眠りかけていた意識を嫌でも叩き起こし、瞼を開いた。
「っ……!今のっ……。」
視界がフラッシュバックするのと同時に、矢継ぎ早に切り替わるいくつもの風景——救いを求めて懇願する疲れ切った人々や、割れた大地に吸い込まれて消えゆく命と文明の軌跡、暗い空と共に地上を飲み込んでいく黒い闇——。
そして——塗り潰された漆黒の先を見通し、何者かに光の矢を射る、長い黒髪の女性の凛とした後ろ姿——。
自分の身に何が起きているのか、全く理解が及ばない中で、フラッシュバックは唐突に鳴りを潜めて、ただ黒いだけの空間に、己の身が投げ出されていたことに気が付く。
まるで穴の中に落ちていくかのような感覚に、クレールはただ困惑して黒い世界を見渡した。
(ここは一体……夢なのか?それとも……)
視界の全てを覆い尽くす、何もない漆黒の世界の中で——クレールは、見慣れた青年の姿を見つけて驚いた表情を浮かべる。
紫色の髪に深い海の様な青い瞳を持ち、紫色の登山服を身に着けた青年は、暗い世界の奥深くへと漂うように落ちていく。
「エディーさん……!!」
親友である青年——『エディー』の名前を呼びながら、クレールはエディーに向かって必死に手を伸ばす。
エディーはクレールの声に気が付くと、顔を上げて目を丸くし、差し出された手を掴もうと、クレールに向けて腕を伸ばした。
しかし——お互いの手が触れようとした瞬間に、エディーは何かに気が付いた様子でハッとした表情を浮かべた直後に、首を横に振りながら、伸ばしていた腕を引っ込めた。
差し出された手を握ることなく、エディーが腕を引っ込めたことにクレールが再び困惑していると——エディーは、クレールに何かを伝えるために口を開く。
「—げ——れ!ク———……——ちに——ら、ダ—だ……!!」
エディーは寂しげな顔で涙を流しながら、声にならない音で懸命に何かを訴えていた。
このまま離れてしまえば、大切なものを失うかもしれない——。
強烈な不安を感じたクレールは、構わずその手を伸ばし続けて、引っ込み切れていなかったエディーの手を力強く握り締めた。
その瞬間——視界が見慣れた自室に切り替わったかと思うと、部屋の入り口にエミルの姿を確認して、クレールの意識は徐々に失われていき——どこか遠くへと離れていく感覚に陥る。
「……エミル……?」
なぜか心配そうな顔で近付くエミルの真意を問う暇も無く、クレールの意識は暗闇の中へと途切れていった——。