第9話 騎士の苦悩
王都の空気が日に日に淀んでいく中、近衛騎士団の詰め所で一人の騎士が窓の外を眺め、深く長い溜息をついていた。
彼の名はクラウス。
若くしてその実直さと剣の腕を認められ、アルフォンス王子の側近を務める男だ。
(やはり、間違っていたのではないだろうか……)
クラウスは三週間前に執り行われたリリア様の断罪裁判を思い出していた。
あの時、玉座の間にいた誰もがミレーナ様の言葉を信じ、リリア様を糾弾した。王子も陛下も、そして他の騎士たちも。
だがクラウスだけは、心のどこかで違和感を覚えていたのだ。
彼が知るリリア様は、決して国を裏切るような方ではなかった。
彼女はいつも控えめで自分の力を誇示することもなく、ただ黙々と日々の祈りを捧げていた。その姿は確かに地味だったかもしれない。
だが彼女が世話をしていた中庭の薬草園だけはいつも青々と生い茂っていた。彼女が祈りを捧げた礼拝堂の空気はいつも清冽だった。
それは「聖女の力」と呼ぶには些細なことかもしれない。
けれど、その些細な奇跡こそがこの国の平穏を支える土台だったのではないか。
クラウスはそう直感していた。
そしてその予感は今、悪夢のような現実となりつつある。
リリア様がいなくなってからというもの、この国からは「潤い」が失われてしまった。水は濁り、大地は痩せ、人々の心までがささくれ立っていく。
◇ ◇ ◇
その日の午後、クラウスはアルフォンス王子に呼び出され執務室を訪れていた。
「クラウスか。入れ」
扉の向こうから聞こえてきた主君の声はひどく疲弊している。
入室するとアルフォンスは眉間に深い皺を刻み、机の上の報告書の山を睨みつけていた。
「……嘆きの森の周辺で魔物の活動が活発化しているとの報告が上がってきている」
「はっ。承知しております。近隣の村には警戒を強めるよう通達済みです」
「うむ。だがそれだけでは足りんかもしれん」
アルフォンスは忌々しげに言葉を続けた。
「リリアがいた頃は、森の魔物たちがこれほど里に近づくことはなかった。聖女の祈りが天然の結界として機能していたのだろう」
リリア様。
王子が彼女の名を口にするのを追放以来、初めて聞いたかもしれない。
「……王子は、後悔を?」
思わず心の声が漏れた。
主君に対する不敬な問い。クラウスははっとして、すぐさま膝をつこうとした。
「申し訳ありませ――」
「よせ」
アルフォンスは静かに彼を制した。
「……後悔か。そうかもしれんな。だが今さらどうにもならん。国を追われた聖女が魔物の森で生き延びているはずもない」
その声には諦めと、ほんの少しの自己弁護の色が滲んでいた。
だがクラウスは諦めていなかった。
あのリリア様なら、あるいは。
彼女のあの不思議な力は、あるいは過酷な自然の中でこそ真価を発揮するのではないか。
そんな何の根拠もない希望が彼の胸にはあった。
「王子。私に嘆きの森の探索許可をいただけないでしょうか」
クラウスは意を決して進言した。
「表向きは活発化した魔物の調査として。ですが真の目的は……リリア様の捜索です」
アルフォンスは驚いたように顔を上げた。
クラウスは彼の真摯な、光を宿した瞳をまっすぐに見つめ返す。
長い沈黙が部屋を支配した。
やがてアルフォンスは全てを諦めたように深く息を吐いた。
「……好きにせよ。だがこれは王命ではない。貴様個人の行動だ。王国は一切関知せぬ」
「はっ。御意」
それは事実上の許可だった。
クラウスは力強く頷くと執務室を退出した。
(待っていてください、リリア様)
彼は詰め所に戻ると、すぐさま旅の準備を始めた。
愛用の剣を腰に差し、携帯食料と水筒を革袋に詰める。
誰もが彼女はもうこの世にいないと思っている。
だが自分だけは信じている。
あの優しい聖女様が今もどこかで生きていることを。
クラウスは夜の闇に紛れて、一人王都を後にした。
目指すは北の果て、嘆きの森。
まだ見ぬ希望の光をその手で掴み取るために。