第1話 旅立ちのスープ
私たちが乗る馬車がサンクチュアリの結界を抜けた。
その瞬間、ふわりと空気が変わるのを感じる。
聖域の守られた空気ではない。太陽と土、そして人々の暮らしの匂いが混じった、外の世界の空気だ。
私は馬車の窓から顔を出し、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
これから長い旅が始まるのだ。
「うっひょー! 久しぶりの外の世界だな! 風が気持ちいいぜ!」
私の向かいの席ではエレノア様が子供のようにはしゃいでいた。
彼女は窓から身を乗り出し、流れていく景色をきらきらとした瞳で眺めている。
その姿は百年の時を生きた伝説の聖女というより、初めての遠足に胸を躍らせる少女のようだった。
「エレノア。あまり身を乗り出すと危ないですよ」
隣に座るフィオナさんが、穏やかに、だがしっかりと彼女の服の裾を掴んでいる。
「分かってるって。……それにしてもリリアちゃんの焼いたあの見送りクッキーは美味かったな。あんなもん毎日食えるサンクチュアリの連中が羨ましいぜ」
彼女はそう言って、名残惜しそうに口をもぐもぐと動かした。
馬車の御者席にはクラウスさんが座っている。
彼は手綱を握りながらも、その背中からは心地よい緊張感が伝わってきた。
この旅の護衛責任者。その役目を彼は誇りに思っているのだろう。
その頼もしい後ろ姿に、私の心も自然と安らいだ。
馬車はアステリア王国ののどかな田園地帯を進んでいく。
追放された時に通った道。
あの時は絶望の中で何も見えていなかった。
だが今、改めて見る故郷の風景は驚くほど穏やかで美しかった。
畑を耕す農夫たちの顔には活気が戻り、道端で遊ぶ子供たちの笑い声が聞こえる。
エリオット陛下が素晴らしい国作りをしている証拠だ。
そしてその一助に、私のお菓子がなれているのだとしたら。
それ以上に嬉しいことはない。
◇ ◇ ◇
日が西の空に傾き始めた頃。
私たちは森の開けた場所で、初めての野営の準備を始めた。
その手際の良さは、さすがと言うしかなかった。
クラウスさんが斧で薪を割り、手際よく火を起こす。
エレノア様は馬車の周りに、指先一つで強力な防御結界を張り巡らせた。
「よし。これで夜中に魔物に叩き起こされる心配はないな」
フィオナさんは森の動物たちと対話し、この辺りに危険がないか、そして近くに綺麗な水源がないかを確認してきてくれる。
完璧なチームワークだった。
そして私の役目はもちろん、夕食の準備だ。
メニューは旅の定番。携帯用の固いパンと干し肉、それに塩漬けの野菜。
普通なら味気ない食事だろう。
だが私の手にかかれば話は別だ。
「皆さん、少しお待ちくださいね。今、ご馳走にしますから」
私は腕まくりをすると調理に取り掛かった。
まずは干し肉と塩漬け野菜を細かく刻み、鍋で炒める。
そこに道中でフィオナさんが見つけてくれた香りの良い野生のハーブを加えた。
水を注ぎコトコトと煮込んでいけば、栄養満点の温かいスープになる。
そして問題はこの石のようにかたいパンだ。
私はこのパンを厚めにスライスすると、持参した神獣のミルクと卵を混ぜたものにたっぷりと浸した。
十分に柔らかくなったパンを鉄のフライパンでバターでこんがりと焼き上げる。
仕上げにこれまた持参したハードチーズを削って乗せれば、即席「パングラタン」の完成だ。
もちろん全ての料理に、私の【祝福製菓】の力を込めるのを忘れない。
旅の疲れを癒し、明日への活力を与える特別な祝福を。
◇ ◇ ◇
焚き火を囲み、四人で食卓につく。
皆、私の作った野営料理に目を丸くしていた。
「う、うおお……! なんだこれは! ただのかたパンが王宮の晩餐みてえな味になってやがる!」
エレノア様は子供のように目を輝かせ、パングラタンを頬張っている。
「ええ、本当に美味しいです。このスープも干し肉の出汁が出ていて、身体の芯から温まりますね」
フィオナさんも幸せそうに微笑んでいた。
クラウスさんは何も言わない。
ただ一口、また一口と噛みしめるようにスープを口に運んでいた。
その真剣な横顔が何よりも雄弁にその味を物語っている。
満天の星空の下。
パチパチと燃える焚き火の音。
美味しい食事と、大切な仲間たちの笑顔。
これ以上の幸せがあるだろうか。
「サハディール国の熱病……。きっと大変な旅になりますね」
私がぽつりと呟くと、エレノア様がにかりと笑った。
「何言ってやがる。あんたのそのとんでもねえ飯と、あたしたちがいりゃあ敵なしだろ」
そうだ。
一人ではない。
この仲間たちとなら、きっとどんな困難も乗り越えられる。
私は夜空に一番大きく輝く星を見上げた。
私たちの長い長い旅はまだ始まったばかりだ。
その道の先に何が待っていようとも。
この温かいスープの味を忘れさえしなければ、きっと大丈夫。
そんな確かな予感を胸に抱きながら、私は仲間たちと笑い合った。




