第8話 偽りの聖女と濁る水
私がサンクチュアリで猪肉のパイのレシピを考えていた、ちょうどその頃。
アステリア王国の王宮では日に日に深刻化する事態に、誰もが頭を悩ませていた。
庭の草花が枯れた一件は、まだ始まりに過ぎなかったのだ。
「陛下、申し上げます。王都内の全ての井戸から濁り水が出始めました。民衆の間に不安が広がっております」
大臣の一人が苦渋に満ちた顔で玉座の王に報告する。
王――アルフォンスの父であり、壮健であったはずの国王は、この数日で目に見えて憔悴していた。
「うむ……。して、聖女ミレーナの祈りの効果はまだ現れぬのか」
「はっ。ミレーナ様は昼夜を問わず祈りを捧げてくださっておりますが、今のところ改善の兆しは見られず……」
その言葉に玉座の間にいた貴族たちの間に、ざわめきが広がる。
誰もが口には出さない。だがその視線は玉座の隣に立つ一人の少女、ミレーナへと集まっていた。
当のミレーナは血の気の失せた顔で俯いている。
(なぜ……? なぜ、わたくしの力が通用しないの……?)
彼女は内心で誰にも聞こえない悲鳴を上げていた。
聖女の力。それは王家の血を引く女性にごく稀に発現する奇跡の力だと教えられてきた。異母姉であるリリアに力が現れた時、ミレーナは嫉妬と羨望で気が狂いそうになったものだ。
だから彼女は計画した。
自分こそが真の聖女であると皆に認めさせるために。
リリアの祈りが地味で目に見えにくいことを利用し、【太陽の宝珠】の儀式で彼女を陥れた。全ては完璧な計画だったはずだ。
だが現実はどうだ。
いざ自分が聖女の座についてみれば、大地に祈っても井戸に祈っても何の力も発現しない。
それどころかリリアがいた頃は当たり前のように享受していた、清らかな水や空気、豊かな土壌といった「恩恵」が、まるで砂の城のように足元から崩れ去っていく。
(まさか、あの地味で取るに足らないと思っていたお姉様の力が、この国の全てを支えていたとでも言うの……?)
ありえない。
ミレーナはその不吉な考えを必死に打ち消した。
認めてしまえば自分の存在価値が、全てが嘘になってしまう。
◇ ◇ ◇
その日の午後、アルフォンス王子はミレーナを連れて城下町の視察に訪れていた。
井戸の前には濁った水を桶に汲む民衆の長い列ができている。彼らの顔は一様に暗く、その目には不安と不満の色が浮かんでいた。
「聖女様が代わられてから、ろくなことがない」
「前のリリア様は地味だったが、水が濁ることなど一度もなかったぞ」
「そもそも宝珠を壊したのはリリア様ではなく、今の聖女様が何かしたからではないのか……?」
ひそひそと交わされる会話がアルフォンスの耳にも届く。
彼は民衆を厳しく一喝すると、ミレーナの手を取ってその場を足早に立ち去った。
ミレーナの手が氷のように冷たい。
彼女が小刻みに震えていることにアルフォンスは気づいていた。
だが今の彼には、彼女にかけるべき優しい言葉が見つからなかった。
彼自身の心にもまた疑念という名の毒が、じわじわと広がり始めていたのだ。
自分は本当に正しい選択をしたのだろうか。
最も大切にすべきものと、切り捨てるべきものを間違えはしなかっただろうか。
答えの出ない問いが彼の胸を重く締め付ける。
王都の空はまるで彼らの心の内を映したかのように、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
この時、彼らが失ったものが二度と取り戻せないほど尊いものであったことに、まだ誰も気づいてはいなかった。