第18話 守りたいもの
【嘆きの獣】の脅威がサンクチュアリに影を落としてから、数日が過ぎた。
フィオナさんと聖獣たちは森の奥深くへと姿を消した。
獣の本拠地を探るためだ。
エレノア様は里の周りに新たな物理的な防御障壁をいくつも展開している。
そして私は……。
私はキッチンに籠もり、来る日も来る日もパンを焼き続けていた。
それは普通のパンではない。
フィオナさんが温室で育てていた聖なる薬草。
その中でも特に浄化の力が強いと言われる【銀のしずく】というハーブを細かく刻んで、生地に練り込んだ特別なパンだ。
焼きあがったパンからは清冽で神聖な香りが立ち上る。
このパンがきっとあの邪悪な瘴気を打ち払ってくれるはずだ。
そんな緊張した日々が続いていた、ある日の夕暮れ時。
事件は起こった。
「――来たぞ! 温室の方だ!」
エレノア様の鋭い声が響き渡る。
私も慌てて外へ飛び出した。
見ると完成したばかりの温室が黒いもやのような瘴気に包まれようとしている。
その中心に影が蠢いていた。
実体のない黒い獣の形をした影。
あれが【嘆きの獣】。
「ちっ、しつけえ奴らだ!」
エレノア様が舌打ちし、魔法の詠唱を始める。
だが獣は一匹ではなかった。
次々と地面から影が湧き出し、温室と、そして私たちのたいせつなジャガイモ畑へと襲いかかろうとしていた。
そのジャガイモ畑はクラウス様が来る日も来る日も石を拾い、土を耕し、世話をしていた場所だった。
彼にとってそこはただの畑ではない。
彼の贖罪の象徴とも言える場所だ。
一匹の獣がその畑へと侵入しようとする。
エレノア様の魔法は間に合わない。
フィオナさんも不在だ。
もう駄目だ。
私がそう思った、その瞬間だった。
「――この畑を、荒らすなぁぁっ!」
野太い叫び声。
クラウス様が獣の前に立ちはだかっていた。
その手にあるのは騎士の剣ではない。
彼が毎日使っていた農具のクワだ。
彼はそのクワをまるで長年連れ添った相棒のように構えると、獣の黒い影へと力強く叩きつけた。
物理攻撃など効かないはず。
だが彼のその行動は、獣の動きを一瞬、確かに怯ませた。
彼はリリア個人を守ろうとしているのではない。
彼が必死に守ろうとしていたのはこの里の皆の糧。
彼が自らの手で慈しんできた大地。
その気迫が実体を持たないはずの魔獣にさえ、届いたのかもしれない。
その姿を見て私ははっとした。
(……私も、戦わなくちゃ)
クラウス様が作ってくれた時間。
それを無駄にはできない。
私は振り返ると焼き上げたばかりの浄化のパンが山積みになったキッチンへと、全力で走り出した。
彼が前線で体を張るなら。
私は後方で私にしかできないやり方で援護する。
初めて私たちの間に明確な意思の疎通が生まれた。
それは言葉ではなく、魂の共同作業だった。




