第17話 新たな脅威
サンクチュアリの最後の紅葉が散り始めた頃。
この楽園の穏やかな空気に、微かな不協和音が混じり始めた。
最初にそれに気づいたのはフィオナさんだった。
「……森の様子が少しおかしいです」
ある日の朝食の席で、彼女は心配そうに眉をひそめた。
「動物たちが怯えています。何かよくないものが森に入り込んできた、と」
その言葉に私もエレノア様も、顔を見合わせる。
「なんだ、また王国のハエどもか?」
エレノア様が忌々しげに言う。
「いいえ、人間の匂いではないようです。もっと冷たくて禍々しい気配……」
フィオナさんのその言葉に私は胸騒ぎを覚えた。
その胸騒ぎは数日後、現実のものとなった。
私たちが丹精込めて作った温室。
その一部の野菜が、一夜にして黒く枯れ果てていたのだ。
「……ひどい……」
私はその光景に言葉を失う。
枯れた野菜からは腐敗臭と共に、ぞっとするような冷たい瘴気が放たれていた。
これはただの病気ではない。
何者かによる悪意のある攻撃だ。
◇ ◇ ◇
「……間違いないな。これはあの魔王の残滓だ」
現場を検分したエレノア様が厳しい顔で断定した。
「魔王、ですか?」
「ああ。リリアちゃんが前に浄化したあの厄災の魔王だ。本体は消滅したが、その邪悪な思念の一部が森の強力な魔獣と融合しちまったらしい」
彼女の話によると、その新たな魔獣――【嘆きの獣】は特定の实体を持たないらしい。
影のように森を移動し、作物を枯らす特殊な瘴気を振りまく。
そして何よりも厄介なのは。
「その瘴気は聖なる結界をすり抜ける性質がある。だから温室の中まで被害が及んだというわけだ」
つまり、あの鉄壁の結界が通用しない相手。
冬を目前にしたこの時期に、私たちのたいせつな食料庫が狙われているのだ。
サンクチュアリに初めて本当の危機が訪れた。
「……私が、行きます」
フィオナさんが静かに、だが強い意志を込めて言った。
「森の動物たちと協力すれば、その獣の居場所を突き止められるはずです」
「ああ、頼むフィオナ。あたしは里の防御を固める」
エレノア様も頷く。
二人の最強の聖女がそれぞれの役目を果たそうとしていた。
私はそんな二人の姿を見つめることしかできなかった。
私にできることは何もないのだろうか。
お菓子作りしかできない私は、この危機の前では無力なのだろうか。
焦りと無力感が私の胸に重くのしかかる。
その時だった。
ふと視界の隅にクラウス様の姿が映った。
彼は何も言わない。
だがその手はいつの間にか薪割りの斧ではなく、騎士の剣の柄を固く握りしめていた。
その真剣な横顔はまるで来るべき戦いに備えているかのようだった。
皆がそれぞれの立場でこの里を守ろうとしている。
私だけが立ち尽くしているわけにはいかない。
私にもできることがあるはずだ。
私なりのやり方で。
私はきゅっと唇を結んだ。
そして振り返ると自分の戦場であるキッチンへと急いだ。
頭の中には一つのレシピが浮かび上がっていた。
あの邪悪な瘴気を打ち破るための、特別なパンのレシピが。




