第10話 完全なる降伏(ヴォルフ視点)
俺は生まれてこの方、これほど美味いものを食ったことがなかった。
口の中に入れるとほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれた肉。野菜の甘みが溶け出した、濃厚でそれでいて優しい味のスープ。
一口、また一口と無我夢中でそれを胃袋に流し込んでいく。
だが驚いたのはその味だけではなかった。
シチューを食べるほどに身体の奥底から、力が、活力が漲ってくるのだ。
三日三晩飲まず食わずで彷徨い続けた、あの地獄のような疲労が嘘のように消えていく。部下たちの顔にもみるみるうちに血の気が戻っていた。
(……なんだ、これは……)
ただのシチューではない。
これはもはや伝説級の回復薬の類だ。
一杯の煮込み料理にこれほどの奇跡を込めることができるというのか。
やがて巨大な鍋はスープの一滴も残さず空になった。
腹が満たされるとようやく俺たちは冷静さを取り戻し始めた。
そして改めて目の前の現実を理解する。
俺たちはこの少女一人に、完全に敗北したのだ。
武力でではない。魔法で殺されたわけでもない。
ただ一杯の温かいシチューによって、身も心も骨の髄までひれ伏させられたのだ。
部下たちは皆、呆然とその場に座り込んでいる。
その顔にもはや戦意など微塵も残ってはいなかった。
俺も同じだった。
この少女を攫う? 馬鹿な。
この少女に剣を向ける? 考えただけでも身の毛がよだつ。
彼女は俺たちが手を出していい存在では、断じてない。
俺はゆっくりと立ち上がった。
そして少女の前に進み出る。
彼女は少し驚いたようにこちらを見上げた。
そのあまりにも無防備な澄んだ瞳。
俺はその場に片膝をついた。
いや、違う。
それでは足りない。
俺は地面に両膝をつき、そして深く、深く頭を垂れた。
傭兵として、いや一人の男として最大の屈辱である土下座。
だが今の俺には何の躊躇もなかった。
そうせずにはいられなかったのだ。
「……俺たちの、負けだ」
俺の口からか細い、自分でも驚くような声が漏れた。
「聖女様……あんたが何者かは知らねえ。だが俺たちはもうあんたに剣を向けることはできねえ。この通りだ。どうか俺たちの無礼を許してくれ」
俺の行動に部下たちもはっと我に返った。
彼らも次々と俺の隣に膝をつき、同じように頭を垂れていく。
歴戦の傭兵団【鉄の爪】が、一人の少女を前に全員で土下座をする。
なんとも滑稽な光景だろう。
だが俺たちは真剣だった。
少女は俺たちのその異様な光景に、ひどくうろたえていた。
「え、あ、あの……! どうか顔を上げてください! 私はそんな、大した者では……!」
そのどこまでも謙虚な言葉が、逆に俺たちの胸に突き刺さる。
大した者ではない、だと?
これほどの奇跡を起こしておきながら、この少女は自分が何をしたのか全く理解していないというのか。
とんでもない。
俺たちが足を踏み入れてしまったのは化け物の縄張りなどではなかった。
ここは本物の【聖女】が住まう、文字通りの聖域だったのだ。
俺は深く頭を垂れたまま動けなかった。
ただ地面の土の匂いと、まだ鼻腔に残るあの温かいシチューの香りだけが、俺の意識の全てを支配していた。
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