第9話 空腹は最高のスパイス(ヴォルフ視点)
幻術の霧が晴れ、底なし沼が元の固い地面へと戻っていた。
俺たち【鉄の爪】の連中は泥だらけのまま、呆然とその場にへたり込んでいた。
命だけは助かったらしい。
だがもはや誰一人として、立ち上がる気力さえ残ってはいなかった。
三日三晩飲まず食わずで、得体の知れない魔法に弄ばれ続けたのだ。心も体も限界だった。
そんな絶望的な状況の中で。
その匂いはふわりと風に乗って、俺たちの元へ届いた。
(……なんだ、この匂いは……)
肉の匂い。
野菜がコトコトと煮込まれる、甘く香ばしい香り。
温かいシチューの匂いだ。
空腹のあまり、ついに幻まで見始めたか。
だがその匂いは、あまりにもリアルだった。
ぐう、と誰かの腹の虫が鳴る。
それを合図にあちこちで腹の音が合唱を始めた。
俺も例外ではない。
胃袋が締め付けられるように、きりきりと痛んだ。
「……おい、見ろよ、あれ……」
部下の一人が震える指で前方を指さした。
俺もその方向へ視線を向ける。
いつの間にか俺たちが最初にいた、あの結界の前に戻ってきていた。
そしてその結界の一部が、まるで門が開くように静かに口を開けている。
開いた結界の向こう側から、一人の少女がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
亜麻色の髪をした、粗末な村娘の服を着た小柄な少女。
その手には湯気の立つ大きな鍋が抱えられていた。
あの天国のような匂いは、この鍋から漂ってきているのだ。
(……あれがターゲットの娘か……?)
こんな状況でなければすぐに飛びかかって捕らえていただろう。
だが今の俺たちには指一本動かす気力さえなかった。
それにあの信じがたい魔法の後だ。
この少女が「ただの村娘」でないことは馬鹿でもわかる。
少女は俺たちの前に立つと、少し困ったような、それでいて心配そうな顔でこちらを見つめた。
その瞳は驚くほど澄んでいて、俺たちのような血と泥にまみれた人間が覗き込んではいけないような、清らかな光を宿していた。
「あの……」
少女がおずおずと口を開く。
「お腹が空いているのではないかと思いまして。その……よかったら、どうぞ」
彼女はそう言うと持っていた大鍋を、俺たちの前にことりと置いた。
蓋が開けられると、ぶわりとさらに濃厚なシチューの香りが俺たちの鼻腔をくすぐる。
中には大きな肉の塊と色とりどりの野菜が、ごろごろと入っていた。
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
罠か?
毒が入っているのかもしれない。
俺はプロの傭兵として必死に理性を保とうとした。
だが。
俺の理性は俺の胃袋にあっさりと敗北した。
ぐおおおお、と今まで聞いたこともないような巨大な腹の音が、俺の腹から鳴り響く。
もう限界だった。
「……団長、俺はもう……」
部下の一人が這うようにして鍋へと近づいていく。
「こいつを食って死ねるんなら本望だ……」
彼はもはや正気ではなかった。
その手で鍋の中の肉を掴むと、そのままかぶりついた。
「おい、馬鹿、やめろ……!」
俺の制止の声は届かない。
ああ、終わった。
そう思った、次の瞬間。
「――う、うめぇ……!」
その部下は毒に苦しむどころか、子供のようにぼろぼろと涙を流していた。
「なんだこりゃあ……! あったけぇ……力が、身体にみなぎってくる……!」
見ると彼の顔色はみるみるうちに良くなっていく。
その姿を見て俺の中の理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……全員、食え」
俺のその号令を待たずに、手下の連中が我先にと鍋に殺到した。
もはやそこには歴戦の傭兵団の姿はない。
ただの飢えた獣の群れだった。
そしてその群れの中に俺自身も加わっていた。
これが地獄への罠だとしても、もうどうでもよかった。
ただ今は、この目の前の温かいシチューを腹一杯食いたかった。