第8話 エレノアの”おもてなし”
その頃、サンクチュアリのコテージでは。
エレノアが肘掛け椅子に深く腰掛け、優雅にティーカップを傾けていた。
テーブルの上にはリリアが焼いたばかりの「安らぎカモミールのクッキー」が置かれている。
「……たく、しつこいハエどもだ」
彼女は窓の外――結界の遥か向こう側を見つめながら、面倒臭そうに呟いた。
彼女の目には幻術の中で右往左往する傭兵団の姿が、手に取るように見えている。
「エレノア様? 何かありましたか?」
キッチンから顔を覗かせたリリアが、不思議そうに問いかけた。
彼女は今夜の夕食の仕込みの真っ最中だ。
「ん? ああ、いや、何でもない。ちょっと庭の害虫駆除をな」
「害虫、ですか? 私もお手伝いしますよ」
「いい、いい。あたし一人で十分だ。リリアちゃんは夕食の準備を頼む」
エレノアはリリアに心配をかけまいと、にかりと笑ってみせた。
リリアがキッチンに戻っていくのを確認すると、彼女は再び窓の外へ視線を戻す。
その瞳には先ほどまでの穏やかさはなく、冷たい光が宿っていた。
(リリアちゃんの平穏を邪魔するやつは、誰だろうと容赦せん)
彼女はティーカップを置くと、指先でコンとテーブルを叩いた。
それは魔法発動の合図。
彼女の膨大な魔力が結界の外の傭兵団へと、見えざる手となって伸びていく。
彼女にとってこれは戦いですらない。
ただの「お遊び」。退屈しのぎの、ちょっとした悪戯だ。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
幻術の森に囚われたヴォルフたちは、完全な混乱状態に陥っていた。
「くそっ! なんでだ! なんで同じ場所に戻ってきちまうんだ!」
部下の一人が苛立ちを隠せずに、近くの木を殴りつける。
彼らはもう何時間も、この不気味な森を彷徨い続けていた。
前に進んでいるはずなのに、気づくと目印にしていた岩の前に戻ってきてしまうのだ。
「団長、これはヤバいですぜ……」
副長のハンスが青ざめた顔でヴォルフに言う。
「わかってる」
ヴォルフは歯ぎしりした。
相手は俺たちを殺すつもりはないらしい。
ただ、じわじわと精神的に、肉体的に嬲り殺しにしようとしている。
そのやり方が何よりも恐ろしかった。
「うわあああっ!」
突然、後方で悲鳴が上がった。
振り返ると屈強な傭兵が、腰を抜かして尻もちをついている。
「ど、どうした!」
「い、今、仲間が……仲間が化け物に見えやした……!」
幻覚まで見せ始めたか。
まずい。このままでは疑心暗鬼で仲間割れが起きかねない。
「全員、気をしっかり持て! これは敵の術だ!」
ヴォルフが檄を飛ばした、その時だった。
今度は足元の地面が、ぐにゃりと奇妙な感触に変わった。
「なっ……!?」
次の瞬間、地面は底なしの沼へと変貌し、傭兵たちの足を飲み込んでいく。
「う、うわっ! 足が、足が沈む!」
「助けてくれぇ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
ヴォルフも必死に近くの木の根に掴まり、沈んでいく体を引き上げようとする。
これが魔法だと?
馬鹿な。これほど広範囲にこれほど大規模な幻術と地形操作魔法を、同時に、しかも姿を見せずに発動するなど。
そんな芸当が可能な魔術師がこの世にいるというのか。
宮廷魔術師でも、いや伝説に語られる大魔導士でも不可能だ。
(……俺たちは、一体何を相手にしているんだ……?)
ヴォルフの脳裏に依頼主であるホルスト大公の、あの胡散臭い笑顔が浮かんだ。
(あの野郎……! ハメやがったな……!)
だが今さら後悔しても、もう遅い。
沼は容赦なく彼らの体を飲み込んでいく。
意識が遠のいていく。
もうこれまでか。
ヴォルフが全てを諦めかけた、その時。
ぴたりと沼の動きが止まった。
そして今まで彼らを苦しめてきた不気味な幻術の霧が、すうっと晴れていく。
何が起きたのかわからず呆然とする彼らの鼻に。
どこからともなく、信じられないほど美味しそうな匂いが届いた。
それは肉と野菜をじっくりと煮込んだ、温かいシチューの香りだった。