第1話 パティシエ聖女の穏やかな日常
クラウス様が王国からの使者としてサンクチュアリを訪れてから、季節は一つ巡った。
あの出来事は私の中で過去の清算であると同時に、一つの大きな区切りとなった。もう王国のことで心を煩わせる必要はない。そう思うとお菓子作りのアイデアも、以前にも増して豊かに湧き出てくるようだった。
「リリア、見てください。今朝、妖精たちが届けてくれたのです」
ある晴れた日の朝。フィオナさんがキラキラと輝く朝露に濡れた、可愛らしいバスケットを手に私のキッチンを訪れた。
中を覗き込むとふわりと甘酸っぱい、それでいて心が安らぐような香りが鼻をくすぐる。
入っていたのはカモミールに似た、小さな白い花だった。
「まあ、綺麗……。これは?」
「安らぎの花、と呼ばれています。心を落ち着かせる効果があるのですよ」
なるほど。妖精たちはいつもお菓子をおすそ分けしている私に、お礼としてこれを持ってきてくれたというわけか。
なんとも愛らしい。
「ありがとうございます、フィオナさん。……そうだわ」
私の頭に新しいレシピがひらめいた。
この花をクッキー生地に混ぜ込んだらどうだろうか。
私の【祝福製菓】の力と、この花の持つ力が合わさればきっと、食べた人の心を優しく癒やす特別なお菓子になるに違いない。
よし、決めた。
早速試作に取り掛かろう。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
サンクチュアリの中庭では、いつものように三人の聖女のお茶会が開かれていた。
テーブルの中央には私が焼き上げたばかりの新作「安らぎカモミールのクッキー」が並んでいる。
「ふむ。花の香りがなんとも心地よいな」
エレノア様はクッキーを一枚手に取ると、くんくんと匂いを嗅いでいる。
そして大きな口でそれをぱくりと食べた。
「……おお」
彼女の猛々しい気配が、ふわりと柳の枝のようにしなやかになるのを感じる。
「なんだか猛烈に昼寝がしたくなってきたぞ……。日頃の鍛錬の疲れがすうっと抜けていくようだ」
どうやら効果は抜群らしい。
普段常に気を張っている彼女には、特に効果的だったのかもしれない。
フィオナさんも嬉しそうにクッキーを頬張っている。
「ええ、本当に。心が春の陽だまりの中にいるように温かくなりますね」
その周りではクッキーを貰った神獣たちがすっかりくつろいだ様子で丸くなって昼寝を始めていた。聖狼フェンリルまでもが大きなあくびをしている。
なんと平和な光景だろうか。
私が作ったお菓子がこの楽園の穏やかな午後のひとときを、さらに彩っていく。
これ以上の幸せが他にあるとは思えない。
「リリアちゃん、このクッキーは良いな。量産しておけ。夜、寝付けない時に重宝しそうだ」
「はい、もちろんです」
「そうだ、今度はこれを粉にしてミルクに混ぜてみてはどうでしょう。きっと素敵なナイトキャップになりますよ」
「まあフィオナさん、良いアイデアです!」
こうして、ああでもないこうでもないと次の新作お菓子のアイデアを出し合っている時間が、私にとっては何よりの宝物だった。
王国のことなどもう遠い昔の夢物語のようだ。
私は幸せを噛みしめながら自分の分のクッキーを口に運んだ。
甘く優しい味が口いっぱいに広がる。
私の穏やかな日常はこれからもずっとこうして続いていくのだ。
この時はまだ、そう信じて疑わなかった。
サンクチュアリの結界の外に新たな火種が生まれつつあることなど、知る由もなかったのだから。