第2話 嘆きの森へ
王宮から引きずり出された私は、罪人用の荷馬車に乗せられた。
普段は王都の美しい街並みを眺めるのが好きだったけれど、今日ばかりは民衆の好奇と侮蔑の視線が痛い。時折腐った野菜なんかが飛んでくるけれど、不思議と心は凪いでいた。まるで他人事のように、ぼんやりと過ぎ去る景色を眺める。
荷馬車は半日ほど走り続け、やがて生い茂る木々が太陽の光を遮る薄暗い森の入り口で止まった。
「降りろ」
衛兵に乱暴に突き飛ばされ、私はぬかるんだ地面に尻もちをつく。彼らは私を一瞥もせず、すぐに荷馬車をUターンさせて走り去っていった。あっという間に馬車の轍の音は森の静寂に飲み込まれていった。
一人きり。
ここが、生きては戻れないと恐れられる【嘆きの森】。
不気味な鳥の声と遠くで聞こえる獣の咆哮が、その噂が偽りではないことを教えてくれる。
普通の貴族令嬢なら泣き叫んで絶望するところだろう。
けれど私はゆっくりと立ち上がり、スカートについた泥を払った。
「さて、と」
私は一つ深呼吸をして森の空気を吸い込む。
王宮の、香水と人々の思惑が入り混じった淀んだ空気とは違う。少し湿ってはいるけれど、濃密な生命の匂いがした。
実は私には秘密の力がある。
【聖女】の力とは少し違う、ごく個人的な力。それは微かな「気の流れ」を感じる力だ。
心地よい気、淀んだ気、邪な気。王宮にいた頃は息をするのも辛いくらい、淀みと邪な気に満ちていた。だからいつも少しだけ体調が悪かったのだ。
でもこの森は違う。
確かに所々にある淀んだ「邪気」は魔物の縄張りなのだろう。けれど森の奥深くから、とても穏やかで温かくて心地よい気が流れてくるのを、肌で感じる。
「こっち、かな」
私はその心地よい気の流れを頼りに、迷わず森の奥へと足を踏み入れた。
もちろん危険なのは承知の上だ。しばらく歩いていると、涎を垂らした大きな牙を持つ狼に似た魔物が三匹、茂みから飛び出してきた。
「グルルル……」
絶体絶命。さすがにこれには少し肝が冷える。
私が後ずさった、その瞬間だった。
一陣の風が吹き抜け、私の目の前に純白の影が舞い降りた。
それは今まで見たどんな獣よりも大きく、美しい狼だった。雪のように白い毛並みは、薄暗い森の中で淡い光を放っているようにさえ見える。金色の瞳は魔物たちを射抜くように鋭く、それでいて知性に満ちていた。
白狼は低く唸ると、魔物たちに向かって一瞬で駆けだした。
あまりの速さに私には何が起きたのかよくわからなかった。気づいた時には三匹の魔物は悲鳴を上げる間もなく地面に倒れ伏し、その姿を黒い瘴気へと変えて消えていく。
圧巻の光景に呆然としていると、白狼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
その巨体からは全く威圧感がなく、むしろその金色の瞳は優しく私を見つめている。
そして驚いたことに、白狼は私の目の前で前足を折り、敬意を示すように頭を下げたのだ。
『……お待ちしておりました』
声が聞こえたわけじゃない。
でもその仕草と瞳から、そんな想いが流れ込んでくるような不思議な感覚。
私は怖くなかった。
むしろ王宮にいた時よりも、ずっと安心しているくらいだった。
私はそっと手を伸ばし白狼の額に触れる。その毛並みは極上の絹織物よりも滑らかで、温かかった。
「あなたが、呼んでくれたの?」
私の問いかけに白狼は肯定するように小さく喉を鳴らした。
そして私に乗るようにと、その広い背中を差し出してくる。
迷いはなかった。
私は「ありがとう」と囁いて、その背にそっと跨る。
すると白狼は風のように森を駆け出した。木々が、景色が、猛烈な速さで後ろへと飛んでいく。
やがて目の前に見えない壁のようなものを通り抜ける感覚があった。
次の瞬間、森の空気が一変する。
淀んだ空気が完全に消え去り、澄み切った花の蜜のように甘い空気が肺を満たした。
目の前には信じられないような光景が広がっていた。
色とりどりの花が咲き乱れる草原。きらきらと輝く小川。穏やかな表情で草を食む、伝説の中にしかいないはずのペガサスやユニコーンたち。
そしてその丘の上には、温かい光が灯る可愛らしいコテージが何軒も建っていた。
まるでおとぎ話の世界。
私がその光景に言葉を失っていると、一軒のコテージの扉が開き二人の女性が出てきた。
一人は燃えるような真紅の髪をした快活そうな美女。
もう一人は長い白銀の髪を三つ編みにした穏やかそうな美女。
二人は白狼の背に乗った私を見ると、顔を見合わせてにっこりと笑った。
「あら、フェンリルがお客さんを連れてきたわね」
「本当ですね。……うん、間違いない。この子は私たちと同じ匂いがする」
そして二人は私に向かって、まるで長年待ち続けた友人を出迎えるように両手を広げて言った。
「ようこそ、追放されし聖女の楽園へ。あなたで、めでたく三代目ちゃんよ」
次話は12時頃更新予定