第19話 最後の忠告
クラウス様は目の前のバスケットを前に、完全に思考が停止していた。
まあ無理もないだろう。
国を救うための最後の希望が、山のようなクッキーとスコーンだったのだ。彼の想像の範疇を遥かに超えていたに違いない。
「……これが、リリア様の……」
彼は震える手でクッキーを一枚手に取った。
ただの焼き菓子に見えるそれに国を救うほどの力が込められているとは、にわかには信じがたいのだろう。
そんな彼と私の間に、ずいと影が差し込んだ。
腕を組んだエレノア様が仁王立ちでクラウス様を見下ろしていた。
「――おい、小僧」
その声は氷のように冷たく、有無を言わせぬ凄みがある。
クラウス様の肩がびくりと跳ねた。
「リリアはあんたらにとてつもなく甘い貸しを作ってやった。わかるか?」
「は、はい……」
「ならよく聞け。これが最初で最後だ」
エレノア様の碧い瞳が鋭い光を放つ。
「次に何か問題が起きてリリアを当てにするようなことがあれば……その時はあたしがあんたらの国ごと地図から消してやる。この言葉、決して忘れるな」
それは単なる脅しではなかった。
この人なら本当にやりかねない。
その絶対的な事実が、クラウス様の肌を粟立たせるのがわかった。
「……肝に銘じます」
彼は青い顔でかろうじてそう答えた。
すると今度は今まで黙っていたフィオナさんが、静かに一歩前に出た。
彼女はエレノア様とは対照的に、穏やかだがどこか悲しげな微笑みを浮かべていた。
「クラウス様」
「……はい、フィオナ様」
「リリアはとても優しい子です。だからあなたたちの非道を許し、こうして手を差し伸べてくれました」
フィオナさんはバスケットの中のお菓子にそっと指で触れる。
「ですがどうか、その優しさにこれ以上甘えないでくださいね。何度も踏みにじっていい優しさなど、この世界のどこにもないのですから」
静かだが心の奥深くに突き刺さるような、重い言葉だった。
エレノア様の物理的な脅しよりも、ある意味ではずっと恐ろしい最後通告。
クラウス様は深く、深く頭を垂れた。
「……御忠告、痛み入ります。この御恩もお言葉も、決して忘れはいたしません」
◇ ◇ ◇
もはや彼に選択肢はなかった。
クラウス様は、お菓子の詰まったバスケットをまるで国の至宝でも運ぶかのように慎重に、大切に抱え上げた。
ずしりとした重みが彼の腕にのしかかる。
それはただのお菓子の重さではない。
一人の聖女の優しさと王国の未来そのものの重さだった。
彼は私とエレノア様、フィオナさんに向かって騎士として最大級の、深々とした礼をした。
「リリア様、そして皆様……この度の御恩、アステリア王国は決して忘れません。本当に、ありがとうございました」
顔を上げた彼の瞳にはもう迷いはなかった。
あるのはこのバスケットを無事に王国へ届け、国を立て直すという強い決意だけだ。
「さあ、行きな。ぐずぐずしてるとお菓子が湿気るぞ」
エレノア様がしっしっと手を振る。
それを合図にクラウス様は一礼すると、踵を返した。
私は彼の後ろ姿が見えなくなるまで、黙って見送っていた。
彼が去った後には、いつもの静かで穏やかなサンクチュアリの日常が残される。
(さようなら、クラウス様。さようなら、私の過去)
彼が運んでいくのは国の救済であると同時に、私の過去との完全な決別でもあった。
もう王国が私を必要とすることはないだろう。
そして私が王国を振り返ることも、もうない。
私はすうと息を吸い込んだ。
サンクチュアリの空気は今日も甘く、優しい香りがした。
さて、と。
私も自分の日常に戻らなくては。
「エレノアさん、フィオナさん。お腹が空きませんか?」
私は二人の最強の先達に向かってにっこりと笑いかけた。
「昨夜徹夜したので少し眠いですが……お二人のためならもうひと頑張りしますよ。次は猪肉のパイに挑戦してみませんか?」
私の提案にエレノア様は待ってましたとばかりに顔を輝かせ、フィオナさんは嬉しそうに目を細めた。
私の幸せな毎日は、これからもここで続いていくのだ。